第七十八話 外伝:シェザール編 恋に落ちる
そのあと、俺は魔王様を魔界に連れて行った。
魔界には、瘴気が渦巻いている。
俺は、魔王様に今の世界のことを教えた。
人間の国のこと。
神と呼ばれている者たちのこと。
魔王様は、何も言わずに聞いていた。
漆黒の髪が、瘴気の流れに揺れている。
その横顔は、あの日、地上の焼け跡で初めて見た時と同じように美しかった。
俺が言葉を重ねるたび、深い闇色の瞳の奥で、何かが静かに沈んでいくのが分かった。
ただ、俺は、魔王様が神から堕ちたことは言わなかった。
神聖な神が、闇へ堕ちる。
それは、相当なことがなければ起こらない。
俺は、それを思い出してほしくなかった。
「シェザール、お前はいろいろ詳しいのだな」
「そんなことはございません」
「でも、私は何も知らない」
「お前は私を魔王と呼ぶが、この魔界には、別の魔王がいるのではないか」
「そうです。ですが、今は封印されています。俺の主として、魔王様とお呼びしています」
「そういえば、名も覚えていなかった」
「私にも、魔王以外の名をシェザールがつけてくれぬか」
俺は、魔王様に『ディグラード』という名を捧げた。
その名を口にした瞬間、俺と魔王様の間に、目に見えない絆が深く結ばれていくのが分かった。
「これからは、お前には名で呼ばれたい」
その言葉が俺の胸の奥にまっすぐに突き刺さり、もう、限界だった。
俺はたまらず、魔王様の身体にきつく抱きついた。
ああ、そうだ。俺はあの日から、完全にこの人との恋に落ちてしまっていたのだ。
魔王様は、しばらく黙って俺を抱き返していた。
瘴気の流れる音だけが、二人の間を満たしていた。
「シェザール」
低く、名を呼ばれた。
それだけで、俺の中の何かが震えた。
「お前は、なぜ私のそばにいる」
「俺が、選びました」
俺は、魔王様の胸元から顔を上げた。
闇色の瞳が、すぐそこにあった。
「誰に決められたわけでもなく、俺自身が、あなたのそばにいたいと思ったのです」
魔王様は、しばらく俺を見つめていた。
それから、静かに目を伏せ、俺の頬へそっと手を添えた。
「……そうか」
その声は、これまで聞いた中で一番、穏やかなものだった。
俺たちの唇が、静かに重なった。
瘴気が狂おしく渦巻く魔界のただ中で、そこだけは世界のすべてが消え去ったかのように、優しく、ひどく静かな時間が流れていた。
――そして、現在。
「あれは人などに興味はない。世界の理さえ巡っていれば、それでいいのだ」
魔王様がそう言った瞬間、思い出したのか、と一瞬だけ焦った。
けれど、魔王様の横顔に、過去を見つけた気配はなかった。
魔王様はただ、今ある理を見ていただけだった。
それでも、俺の胸の奥は冷えた。
あの日、俺が言わなかったことに、魔王様自身が触れかけたように思えたからだ。




