第七十六話 蒼月とアルヴァン
衣擦れの音が戻り、誰かの息が小さく揺れます。
会議室にいた者たちは、今まさに蒼月の光を見ていた続きのように、一斉に息を呑みました。
けれど、次の瞬間、誰もが言葉を失いました。
そこに立っていた蒼月の姿が、先ほどまでとは違っていたからです。
白い衣は淡い光を含み、長い銀の髪の流れに沿うように揺れていました。
あまりにも澄んだ、美しい姿でした。
見つめてはいけないものだと分かっているのに、目を逸らせない。
蒼月から放たれる神気にあてられ、会議室にいた者たちは皆、その姿に魅入られたように動けなくなりました。
「私は、人に神と呼ばれていた者だ」
蒼月の声が、静まり返った会議室に落ちました。
何人かが膝を折りかけ、誰かが祈るように手を組み、誰かが畏れに目を伏せます。
蒼月は、眉を寄せました。
「そして、私は人の神ではない。信仰はいらん。やめろ」
その一言が落ちた途端、会議室に張りつめていた異質な空気が、嘘のようにふっとほどけました。
まるで、神の姿に奪われていた意識が、それぞれの身体へ強引に引き戻されたようでした。
祈りかけていた者たちは戸惑ったように顔を見合わせ、アステルが小さく息を吸い、ローガンがはっと顔を上げました。
アレクシス王も、ようやく瞬きを取り戻したように、蒼月を見据えます。
ラシードだけが、深く息を吐きました。
「……今のも、お前がやったのか」
「違う」
蒼月は淡々と答えました。
「人は、神と知れば勝手に祈ろうとする」
ラシードは顔をしかめました。
「面倒くせぇな」
「だから、いらんと言った」
アレクシス王は、しばらく蒼月を見つめていました。
王である彼でさえ、すぐには言葉を選べないようでした。
「蒼月……いや、蒼月様とお呼びすればよいのでしょうか」
「何でもよい」
蒼月は、興味なさそうに答えました。
「少し分かりにくいかもしれないが、私はリリアに蒼月と名付けられた銀狼だ」
その言葉に、会議室の視線が揺れました。
蒼月は、長い銀の髪を揺らしながら続けます。
「だが、お前たちに馴染みがあるのは、千年前の伝説に出てくるアルヴァンの名の方だろう」
その瞬間、アステルの表情が変わりました。
「アルヴァン……」
かすれた声が、静まり返った会議室に落ちます。
「まさか、あの戦神アルヴァン様なのですか」
「まあ、その名も人が勝手につけた名だ」
蒼月は、特に重く受け止める様子もなく答えました。
その名を聞いた瞬間、ラシードの胸の奥が跳ねました。
幼い頃から壁画の中で見上げていた狼の姿の戦神。
遠い伝説の中にいるはずだった存在が、今、目の前で淡々と話している。
畏れより先に、ほんの少しだけ、少年じみた高揚が胸をよぎりました。
けれど、ラシードはすぐにその感情を押し込めました。
目の前にいるのは、戦神アルヴァンである前に、リリアのそばにいた蒼月なのです。
会議室には、まだ聞きたいことが山ほど残っている空気がありました。
誰もが蒼月を見つめたまま、次の言葉を待っています。
けれど、蒼月は首を振りました。
「リリアにも話したい。今日は、ここまでにしてくれないか」
その言葉に、アレクシス王が目を細めました。
王は一度だけリリアの名に反応し、それから静かに頷きます。
「詳しい話は、リリアが目を覚ましてから、ということですね」
「ああ」
蒼月は短く答えました。
「リリアがいないところで、すべてを話すつもりはない」
その声は静かでした。
けれど、そこには譲る気配がありませんでした。
会議室に残っていた者たちは、まだ困惑を隠せないままでした。
それでも、蒼月がそれ以上話すつもりがないことだけは、誰の目にも明らかでした。
アステルは小さく息を整えると、そばに控えていた侍従へ視線を向けました。
「蒼月様のお部屋を、急ぎご用意してください」
「リリアと同じ部屋でいい」
蒼月が当然のように言いました。
その瞬間、アステルの表情が固まりました。
「それは絶対に駄目です」
ほとんど間を置かずに、ラシードも低く言いました。
「駄目だ」
蒼月は、二人を見比べました。
「なぜだ」
「なぜでもだ」
ラシードは即座に返しました。
「お前はもう狼の姿だけじゃねぇだろうが」
蒼月は少し不満そうに目を細めました。
「私は蒼月だ」
「そういう問題じゃない」
ラシードは深く息を吐きました。
アステルも、頷きます。
「リリア殿がお目覚めになる前に、きちんとお部屋を整えます。それまでは、王宮内の客室をお使いください」
蒼月はしばらく黙っていました。
明らかに納得していない顔でした。
ラシードは額を押さえ、それから諦めたように言いました。
「明日、俺と一緒に部屋を見に行こう」
蒼月の視線が、ゆっくりとラシードへ向きました。
「リリアの部屋に近い場所か」
「それは相談してやる」
「なら、仕方ない」
蒼月はようやく頷きました。
ラシードは、天井を仰ぎました。
そのころ、セシリアはリリアの部屋にいました。
寝台のそばで、眠り続けるリリアの様子を見守っています。
頬に乱れかかった髪を整えながら、セシリアはふと手を止めました。
あれは、何だったのでしょう。
白い宮。
大きな門。
人ではない姿の青年。
そして、自分の腕の中にあった、淡い光を含んだ白い布。
夢でも見ていたのでしょうか。
けれど、夢にしては、あまりにもはっきりと覚えていました。
布の感触も。
あの静かな宮の空気までも。
気づいた時には、セシリアはリリアの部屋に戻っていました。
まるで、最初からここでリリアの世話をしていたかのように。
セシリアは、眠るリリアを見つめました。
「リリア様……」
小さく呼びかけても、返事はありません。
リリアは静かな寝息を立てたまま、まだ深い眠りの中にいました。
セシリアは胸の奥に残る不思議なざわめきを押さえるように、両手を重ねました。
そしてもう一度、リリアの掛布を整えました。




