第七十五話 神の宮
ラシードとセシリアは、蒼月に連れられて、蒼月が宮と呼んだ場所の前に立っていました。
目の前には、とてつもなく大きな門があります。
蒼月が、その門へ手をかざしました。
その瞬間、蒼月の姿がさらに変わります。
人の姿をしていた身体が一回り大きくなり、銀色の髪の間から狼の耳が現れました。
腰の後ろでは、銀の尾がゆるりと揺れています。
蒼月が苦しむ姿は、もうありませんでした。
けれど、その姿は、セシリアの知る銀狼とも、人とも違っていました。
セシリアが息を呑み、ラシードのそばへ身を寄せます。
「ラシード様、これは……」
声が震えていました。
「この方は、どなたなのですか」
「ここは、どこなのでしょう」
ラシードも、すぐには答えられませんでした。
さすがのラシードも、混乱していました。
「説明は、あとでする」
そう返すのが精一杯でした。
門が、音もなく開きました。
蒼月は振り返らず、その中へ入っていきました。
宮の中へ入った瞬間、外の気配が遠ざかりました。
風の音も、人の声も、すべて扉の向こうへ置いてきたようでした。
セシリアは足を止めかけましたが、ラシードが前へ促しました。
蒼月は振り返らないまま、広い宮の奥へ進んでいきます。
白い床には、薄い銀の線がいくつも走っていました。
その線は蒼月の足元に近づくたび、眠りから覚めるように淡く光ります。
廊下を過ぎると、広い部屋にたどり着きました。
床には、美しい陣が描かれていました。
蒼月はそこで、ようやく振り返ります。
二メートル近い長身に、男とも女ともつかない美しい顔立ち。
長い銀髪の間からは銀色の狼の耳がのぞき、背後では銀色の狼の長い尾が揺れていました。
深い蒼い瞳は、恐ろしいほど澄みきっていました。
その美しさは人のものとは思えず、整った身体の輪郭さえ、どこか遠い存在のように見せています。
セシリアは目の前の存在を見上げたまま、声を失っていました。
「あぶなかったな」
蒼月が低く呟きました。
「あのままでは、あの国がなくなるところだった」
ラシードの目が細くなりました。
「おい、どういう意味だ」
蒼月はすぐには答えませんでした。
自分の手を見下ろし、指先に残る銀の光を見ています。
「リリアがいる場所では、避けたかった」
その名が出た瞬間、ラシードの表情が変わりました。
「リリアに危険があるのか」
「今はない」
蒼月は答えました。
「だが、この力を抑えないまま地上へ戻れば、危険になる」
ラシードは言葉を飲み込みました。
蒼月の声は落ち着いていましたが、その落ち着きがかえって重いものでした。
蒼月は宮の中央で、軽く指を鳴らしました。
澄んだ音が一つ、広い空間に響きます。
次の瞬間、何もなかった床の上に、武器と白い布が現れました。
セシリアは目を見開きました。
ラシードも思わず一歩前へ出ました。
武器は細く長く、刃のようでありながら、ただの剣には見えませんでした。
銀の光を閉じ込めたようなそれは、置かれているだけで空気を震わせています。
蒼月はまず白い布を手に取り、セシリアへ差し出しました。
セシリアは受け取ることも忘れたように、蒼月を見上げていました。
「これで、服を作ってくれ」
「……服、でございますか」
「今の時代に合うものがいい」
セシリアは布と蒼月を交互に見ました。
完全に理解が追いついていない顔でした。
「わ、私が……この方のお召し物を、ですか」
セシリアは助けを求めるように、ラシードを見つめました。
「セシリア、こちらを見よ」
セシリアが、その顔を見ました。
蒼月の声が、少しだけ柔らかくなりました。
「大丈夫だ。落ち着け」
その一言が落ちた瞬間、セシリアの乱れていた呼吸が整っていきました。
怯えが消えたわけではありません。
けれど、強張っていた肩から力が抜け、震えていた指先が止まりました。
何かに縛られたようではなく、荒れていた心だけを鎮められたようでした。
セシリアは両手で布を受け取り、深く頭を下げました。
「……わかりました」
蒼月は宮の奥へ目を向けました。
「あちらの部屋にあるものは、好きに使っていい」
「承知いたしました」
セシリアはまだ戸惑いを残しながらも、布を抱えて奥の部屋へ向かいました。
その背中が扉の向こうへ消え、扉が閉まります。
ラシードはしばらく、その扉を黙って見ていました。
扉の向こうで、セシリアは思わず息を呑みました。
そこには見たこともないほど美しい調度品が並び、裁縫の道具も、すべて整えられたように机の上へ置かれていました。
鋏も針も糸も、どれもただの道具には見えません。
淡い光を帯びて、セシリアが手を伸ばすのを待っているようでした。
まだ指先は震えていました。
けれど、セシリアは深く息を吸い、白い布を台の上へ広げました。
それから鋏を手に取り、慎重に布へ刃を入れていきました。
扉の外で、ラシードはようやく蒼月へ向き直りました。
「お前、今のは何をした」
「落ち着かせただけだ」
「簡単に言うな」
ラシードの声には、隠しきれない警戒がありました。
蒼月はそれを責めるでもなく、床に現れた武器へ手を伸ばしました。
指が触れた瞬間、武器が低く震えます。
まるで、長く待っていた主を見つけたようでした。
蒼月はそれを持ち上げ、手の中で確かめるように一度だけ動かしました。
銀の光が弧を描き、すぐに消えます。
「やはり、これでなければ耐えられんな」
ラシードはその武器を見てから、蒼月を見ました。
「何に耐える」
「私の力だ」
蒼月は淡々と答えました。
「地上の物では、もたない」
目の前で起きていることは、あまりにも現実離れしていました。
それなのに、ラシードには、それがまぎれもない現実なのだと分かってしまいました。
「お前、本当に何者なんだ」
蒼月はラシードを見ました。
蒼い瞳は、狼だった頃と同じ静けさを宿していました。
けれど、その奥にあるものは深すぎました。
人の一生では到底届かないほどの時間が、そこに沈んでいるようでした。
「だから、お前たちが言う神という存在だ」
ラシードは黙りました。
否定する言葉を探したのに、何も出てきませんでした。
この宮も、門も、蒼月の姿も、手の中の武器も。
すべてが、その言葉を否定させてくれませんでした。
「詳しいことは、リリアにも話したい」
蒼月は武器を下ろし、宮の奥を見ました。
「それからだ」
ラシードはしばらく蒼月を見ていました。
やがて、諦めたように息を吐きます。
「……分かった」
それでも、すぐに視線は鋭くなりました。
「だが、リリアに少しでも危ないことがあるなら、先に言え」
蒼月の耳が、動きました。
「分かっている」
短い返事でした。
けれど、その声には揺らぎがありませんでした。
ラシードはそれ以上追及せず、セシリアが消えた部屋の方へ目を向けました。
「それで、セシリアに服を作らせている間に、お前は何をするつもりだ」
蒼月は武器を握り直しました。
「待っているだけだ」
「待ってる?」
「あの布は、私が、地上に降りるときにまとう衣を作るための布だ」
ラシードの眉が動きました。
蒼月は、セシリアが入っていった部屋の方を一度だけ見ました。
「あの布で作る衣がなければ、私の力が強すぎて地上に影響が出る」
「……服一枚で、か」
ラシードが低く呟きました。
「ああ。それに、身にまとっていれば、狼から人の姿に戻るたびに、いちいち衣を用意せずに済む」
蒼月の声は淡々としていました。
ラシードは一度だけ扉の方を見て、蒼月へ視線を戻します。
目の前にいる蒼月は、銀色の耳と尾を持ち、人の形をしていながら、人とはまるで違う気配をまとっています。
それでも、その声も、リリアの名を口にした時のわずかな響きも、ラシードの知る蒼月のものでした。
「お前、そんななりで、地上に降りるのか?」
「それは、あの衣があれば大丈夫だ。人の姿にもなれる」
蒼月は短く答えました。
「人に?」
「地上にいても、余計な影響を出さない形にな」
ラシードは蒼月を見据えました。
確認しなければならないことは、まだあります。
「蒼月の記憶はあるのか」
「あるぞ」
蒼月は当然のように答えました。
「私は、蒼月でもあるからな」
ラシードの目が細くなります。
蒼月は、その視線を受け止めたまま続けました。
「そして、リリアが大切なのも変わらない」
その言葉に、ラシードの表情が少しだけ変わりました。
警戒が消えたわけではありません。
けれど、その奥にあった張りつめたものが、揺れます。
「リリアを助けられるのか」
蒼月は、すぐには答えませんでした。
ほんの短い息を吐き、それから、ゆっくりと首を振りました。
「一度崩れてしまった魂は、私には元には戻せない」
ラシードの息が止まりました。
聞きたくなかった答えでした。
それでも、聞かなければならなかった答えでもありました。
「……本当に、何もないのか」
「昔なら、方法がなかったわけではない」
蒼月は低く言いました。
「だが今は、反魂の術を使える者もいないだろう」
「反魂の術……?」
「失われた魂を、この世へ引き戻す術だ」
「蒼月は、使えないのか?」
「それは、人が人の世の神に祈って使うものだ。私には使えない」
蒼月は、蒼い瞳を伏せました。
「それに、そんな術を何の代償もなく使えると思うか」
ラシードは何も言えませんでした。
反魂という言葉に、一瞬だけ胸の奥が強く揺れました。
それでも、蒼月の声には希望がありませんでした。
リリアを救えるかもしれない言葉のはずなのに、そこにあるのは、長い時を知る者だけが持つ、重い諦めでした。
「それでも、私も諦めたくない」
蒼月は言いました。
その声に、ラシードは目を細めます。
諦めている者の声ではありませんでした。
けれど、安易な希望を口にする声でもありませんでした。
「ところで」
蒼月はふと、ラシードを見ました。
「この姿を見ても、あまり動揺していないな」
ラシードは少しだけ眉を上げました。
「十分してる」
「そうは見えない」
「騒いだところで、どうにかなる話でもないだろ」
蒼月はその答えを聞き、小さく笑ったようでした。
「まあ、この姿を人が見ることなど、ほとんどないのだが」
ラシードは黙って蒼月を見返しました。
知っているものを確かめるような、そんな目でした。
やがて、何かに気づいたように眉を寄せます。
「ということは、俺より先に、お前のその姿を見たやつがいるのか」
蒼月は、遠くを見ました。
「ああ」
短い答えでした。
蒼月はしばらくラシードを見ていました。
「まさか、お前。あやつの生まれ変わりか?」
ラシードの表情が険しくなります。
けれど、蒼月はすぐに首を振りました。
「いや、違うな」
そして、ほんの少しだけ声を落としました。
「すまん」
宮の中で数時間が過ぎたころ、セシリアが部屋から戻ってきました。
両腕には、白い布で仕立てられた衣を抱えています。
まだ仮縫いの段階なのか、ところどころに留め糸が残っていました。
「仮縫いが終わりました」
セシリアは緊張した面持ちのまま、深く頭を下げました。
「これから、お身体に合わせて詰めてまいります」
「よい。その仮縫いのまま渡せ」
蒼月が言いました。
セシリアは一瞬戸惑いましたが、すぐに衣を差し出します。
蒼月がそれを受け取った瞬間、白い衣が淡く光りました。
次の瞬間、蒼月の姿が銀の光に包まれます。
光は一瞬でほどけ、そこには白い衣を身にまとった蒼月が立っていました。
白を基調にした上衣は身体に沿い、無駄のない形で蒼月の長い手足を引き立てています。
襟元と袖口には銀糸の模様が走り、動くたびに淡く光を返しました。
先ほどまで見えていた銀の耳と尾は、もうありません。
一回り大きく見えていた身体も落ち着き、蒼月は人の姿へ戻っていました。
それでも、長い銀の髪と蒼い瞳の奥には、人ではないものの気配が残っています。
人の形を取りながら、地上に立つための姿を得たようでした。
セシリアは、自分が仕立てたはずの衣を見つめたまま、言葉を失っていました。
ラシードも、しばらく黙って蒼月を見ていました。
蒼月は自分の袖を一度見下ろし、頷きます。
「悪くない。気に入った」
セシリアの肩が、揺れました。
「はい、ありがとうございます」
「セシリア、感謝する」
蒼月は言いました。
「感謝のしるしだ。取っておけ」
そう言うと、蒼月はセシリアの額に指先を触れました。
淡い銀の光が一瞬だけ宿り、すぐに消えます。
セシリアは何が起きたのか分からないまま、目を瞬かせました。
「これで、地上へ戻れる」
ラシードが何をしたのかと問いかけようとした時、蒼月は白い衣の袖を下ろしました。
そして、会議室へ戻るために、片手を前へかざします。
白い宮の光が、足元からほどけていきました。
門も、床に走る銀の線も、静かな空気も、薄い霧のように遠ざかっていきます。
次に視界が戻った時、そこは王宮の会議室でした。
アレクシス王も、アステルも、ローガンも、会議室にいた者たちは、まだ動きを止めたままでした。
ラシードが、蒼月へ顔を向けます。
「……ずっと止めてたのか」
「止めておかなければ、地上では時が進みすぎる」
蒼月は淡々と答えました。
「宮の時の流れは、人の世より遅い。あちらでわずかな間を過ごしただけでも、こちらでは長く流れる」
ラシードは、深く息を吐きました。
「本当に、何でもありだな」
蒼月は、どこか得意げに目を細めましたが、すぐに真剣なまなざしになりました。
「そうでもない。時を止めた分の罰は、あとで私に返ってくる」
ラシードは眉を寄せました。
「罰って、誰にだよ」
「この世のすべてを巡らせている理だな」
その言い方があまりにも当然のようで、ラシードは一瞬だけ言葉を失いました。
「あと、セシリアに何をした」
「質問ばかりだな」
蒼月は答えました。
「ただ、少し運を上げただけだ」
ラシードは眉を寄せましたが、蒼月はそれ以上説明せず、会議室の中央へ視線を戻しました。
蒼月が指を鳴らすと、澄んだ音が一つ響きます。
その瞬間、止まっていた時間がほどけました。
衣擦れの音が戻り、誰かの息が小さく揺れます。
会議室にいた者たちは、今まさに蒼月の光を見ていた続きのように、一斉に息を呑みました。
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