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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第五章 千年前の真実

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第七十四話 神と呼ばれていた者

その圧倒的な力を見せられて、誰も、すぐには声を出すことができませんでした。

魔物の大軍を、一言で消し去った存在。

その力が、もし人へ向けられたなら。

国をも、世界でさえも滅ぼせてしまうのではないか。

そんな恐怖が、その場にいた者たちの胸に生まれたのは、自然なことでした。


けれど、その沈黙を破るように、ローガンが剣を掲げました。


「勝ったぞ!」


その声が、戦場に響き渡りました。

一拍遅れて、兵たちの間から歓声が上がります。

それは瞬く間に広がり、重く張り詰めていた空気を押し流すように、戦場を満たしていきました。


その歓喜の中で、蒼月だけが背を向けました。


「リリアのもとへ帰る」


そう言うなり、蒼月は身につけていた服を脱ぎ始めました。


「おい……!」


ラシードが慌てて声を上げます。

蒼月は、当然のことのように振り返りました。


「狼になる。服を何かに入れて持っていかねばならん」


「お前な……!」


ラシードは一瞬、怒鳴りかけました。

けれど、そのあまりにも真面目な顔に、思わず笑いそうになるのをこらえます。


「分かった。詰めてやるから待ってろ」


ラシードは近くにあった鞄を引き寄せ、自分の替えの服を手早く詰め込みました。

それから、鞄の紐を蒼月の首へかけます。


「先に帰っても、リリアに何かするなよ」


ラシードは、念を押すように蒼月を見ました。


「絶対だぞ」


「……」


蒼月は答えませんでした。

ただ、ぷいと顔を背けたかと思うと、淡い光に包まれ、次の瞬間には銀狼の姿へ戻っていました。


銀狼となった蒼月は、首に鞄をかけたまま、一度も振り返らずに王都の方角へ駆け出しました。


「くそ、俺も急ぐ」


ラシードは舌打ちをし、すぐに近くに控えていたナーディルへ視線を向けました。


「ナーディル。事後処理を進めて、兵を国へ帰せ。お前はこの国に残って俺を手伝え」


「ラシード様、ですが――」


ナーディルが何かを言いかけました。

けれど、ラシードは最後まで聞きませんでした。

すでに自分の馬へ飛び乗り、蒼月を追うように王都へ向かって駆け出していたのです。


ナーディルは、砂塵の向こうへ遠ざかっていくその背を、ただ見送るしかありませんでした。


蒼月が狼の姿でリリアの部屋へ向かった時、扉の前でセシリアに止められました。


「蒼月殿」


セシリアは、いつもの穏やかな声のまま、けれど一歩も譲らない表情で蒼月を見上げました。


「そのままでは、リリア様のおそばへは行かせられません。一度、毛並みを綺麗にしてからお会いください」


蒼月は、耳を動かしました。

戦場から戻ったばかりの銀の毛には、土埃と瘴気の匂いがまだ残っています。


「それと、リリア様はまだお目覚めではありません。どうか、お静かに」


その言葉に、蒼月は目を伏せました。

セシリアは侍女たちに命じ、蒼月の毛並みを丁寧に拭かせました。

乾いた布で土埃を落とし、濡らした布で血の匂いを拭い、銀の毛が本来の光を取り戻していきます。


ようやく許されると、蒼月は狼の姿のまま、リリアの部屋へ入りました。

寝台の上で、リリアは眠っています。

白い頬はまだ少し青ざめ、呼吸も浅く見えました。

蒼月は足音を殺し、寝台のそばへ近づきます。


「しばらく、こちらでお待ちください」


セシリアはそう告げ、一礼して、部屋を出ていきました。


扉が閉まると、蒼月の身体が淡い光に包まれました。

銀狼の姿がほどけ、長い銀髪の青年の姿へ戻っていきます。

蒼月は寝台のそばに置かれていた外套を取り、ひとまず肩へ掛けました。


その後、蒼月は寝台のそばへ腰を下ろしました。

リリアの眠る顔を見つめ、手を伸ばします。


「リリア、終わったよ」


声は、眠りを妨げないほど小さなものでした。


「早く目を覚まして」


指先が、金の髪に触れました。

壊れ物に触れるように、ゆっくりと撫でます。


ラシードが部屋に着いた時、蒼月はリリアの傍らにいました。

長い銀髪を肩に落とし、静かな横顔で、眠るリリアの髪を撫でていました。


ラシードが何かを言いかけた瞬間、蒼月がゆっくりと顔を上げました。

そして、唇の前に人差し指を立てます。

声はありませんでした。

それでも、静かにしろという意味は十分に伝わりました。

ラシードは眉を寄せましたが、寝台で眠るリリアを見て、言葉を飲み込みました。


蒼月は、リリアの髪から手を離しました。

それからラシードの方へ歩み寄り、音を立てないように扉へ向かいます。

ラシードは一度だけ寝台のリリアを見て、黙ってその後に続きました。


二人はそのまま、ラシードの客室へ向かいました。

廊下を歩きながら、蒼月は肩に掛けた外套を少し押さえます。


「ラシード。服がない」


「見れば分かる」


ラシードは、低く返しました。


「狼の姿で戻ったら、セシリアたちに毛を綺麗にされた。その時に、服をどこかへ持っていかれた」


「……お前な」


ラシードは額を押さえました。


「まず、服をどうにかしないとな……」


けれど、問題はそれだけではありませんでした。

アレクシス王にも、重臣たちにも、この姿の蒼月について説明しなければならない。

セシリアたちにも、なぜ銀狼だった蒼月が人の姿になっているのか、きちんと伝える必要があります。


考えるだけで、面倒でした。

できることなら、今すぐナーディルを呼んで、全部押しつけたかった。


それから数日をかけて、兵たちは少しずつ王都へ帰ってきました。

砦を守り抜いた者たちの列が、傷を負いながらも、確かな足取りで街道を進んでいきます。

他国から来ていた援軍も、それぞれの旗を掲げながら、故郷へと帰っていきました。


その日、王都は少しばかりの祭りのような空気に包まれていました。

広場には酒樽が並び、湯気の立つ料理が振る舞われます。

他国の兵たちにも、酒やごちそうが惜しみなく配られていました。

笑い声と、労いの声が、通りのあちこちで重なり合っています。


リリアは、数日たってもまだ眠っていました。


その裏で、王宮の会議室には、重臣や騎士団、星術院の責任者たちが集められていました。


議題は、蒼月のことでした。


同じ説明を何度も繰り返す事態だけは避けたい。

そう考えたラシードは、蒼月の件を一度で共有できるよう、できるだけ関係者を集めることをアレクシス王へ進言していました。


蒼月が銀狼の姿へ変わり、再び人の姿へ戻ると、会議室はざわめきに包まれました。

誰もが目の前で起きたことを信じきれず、言葉を失ったまま、隣にいる者と顔を見合わせています。


「静まれ」


アレクシス王の声が響くと、会議室のざわめきは引いていきました。

王は、蒼月をまっすぐに見据えます。


「蒼月。あなたは、何者なのですか」


蒼月は、すぐには答えませんでした。

長い銀髪が、揺れます。

蒼い瞳の奥で、何か遠いものが目を覚ましたようでした。


「私は……」


言いかけた声が、そこで途切れました。

蒼月は自分の胸元へ手を当て、眉を寄せます。


「……私は」


その一言が落ちた瞬間、蒼月の表情が変わりました。

まるで、長い長い眠りの底から、忘れていた名を呼び戻されたように。


「私は、人に神と呼ばれていた者だ」


その言葉と同時に、蒼月の身体から強い光が溢れました。

銀の髪が光を帯び、会議室の壁も床も、白く染まっていきます。


蒼月の中で、閉ざされていた記憶が一斉に開きました。

人としての記憶ではありません。

狼としての記憶でもありません。

それよりも遥かに古い、幾億年にも及ぶ理の記憶でした。


世界の始まり。

巡る月。

大地に流れる力。

命が生まれ、消え、また巡っていく理。


そのすべてが、蒼月の内側へ流れ込んできました。


「……くっ、抗えぬか」


蒼月の声が、震えました。

光はさらに強くなり、会議室の空気が軋みます。


「このままでは……すべてを無に戻してしまう」


次の瞬間、会議室にいた全員の動きが止まりました。

息も、瞬きも、衣擦れの音さえも止まります。

時そのものが、蒼月の力によって封じられていました。


蒼月は、苦しげに息を吐きました。

止まった世界の中で、ただ一人、ラシードの方へ手を伸ばします。


指先がラシードの肩に触れた瞬間、ラシードだけの時が戻りました。


「……っ、何だ、これは。どうなっている」


ラシードは息を呑み、周囲を見回しました。

アレクシス王も、アステルも、ローガンも、会議室にいた者たちは皆、動きを止めたままです。


蒼月は、光を抑え込むように片手で胸を押さえていました。


「ラシード」


その声は、いつもの蒼月の声でありながら、どこか遠い響きを帯びていました。


「このままでは駄目だ。私は、一度宮へ帰る」


「宮?」


ラシードが眉をひそめます。


「どこの宮だ」


「説明している余裕はない」


蒼月の額に、汗が滲んでいました。


「ここにいれば、皆を巻き込む」


光が、また会議室の床を走りました。

蒼月はそれを押さえ込むように、奥歯を噛みしめます。


「待て」


ラシードが低く言いました。


「一人で行く気か」


蒼月は、止まった会議室の中で、ラシードを見ました。


「お前は、セシリアを連れてこい」


「セシリアを?」


「ああ」


蒼月の光が、また強く揺れました。

ラシードは、蒼月を見つめました。

冗談を言える空気ではありませんでした。

目の前にいるのは、つい先ほどまでリリアの髪を撫でていた蒼月でありながら、同時に、人の理解の外にある何かでした。


お読みいただきありがとうございます。

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