第七十三話 名もなき理を統べし者
蒼月が、瘴気の奥に広がる黒い群れへまっすぐ視線を向けました。
ラシードは、蒼月の半歩後ろ、斜め横に立っています。
蒼月が片手を掲げると、淡い光がラシードの身体を包みました。
結界でした。
蒼月はもう片方の手を上げました。
結界に包まれた黒い結晶が、ふわりと宙へ浮かびます。
黒い結晶は、薄い光の膜に閉じ込められたまま、ゆっくりと瘴気の中心へ進んでいきました。
やがて、黒い群れの上空で止まります。
蒼月は、後方の部隊が十分に下がったことを確かめるように、一度だけ背後へ視線を向けました。
兵たちは息を呑み、遠くからその背を見つめています。
ラシードだけが、蒼月のそばに残っていました。
蒼月の唇が、古い言葉を紡ぎ始めました。
「大地の理よ、我は、名もなき理を統べし者」
蒼月の周囲の空気が、圧を伴って軋みました。
「穢れし者どもよ。その形を保つ理由はない」
黒い群れが、揺らぎます。
魔物たちの赤い目が、一斉に蒼月へ向きました。
「滅せよ」
その一言が響いた瞬間、地面に巨大な魔法陣が現れました。
幾重にも重なった光の円が戦場の土を走り、黒い群れの足元で一斉に輝きます。
次の瞬間――爆発が起きたかのような凄まじい衝撃波が、外側へ向かって弾け飛びました。
魔物たちは悲鳴を上げる間もなく、音もなく崩れ落ちていきます。
一体、また一体。
おぞましい形を失い、ただの黒い塵となって風の中に溶けていきました。
ラシードの目の前に張られた結界に、激しい土埃が打ち付けられます。
視界が茶色く濁り、しばらく何も見えなくなりました。
それでも、結界の内側だけは嘘のように静かでした。
やがて衝撃が収まり、土埃が少しずつ薄れていきます。
戦場に、完全な静寂が落ちました。
先ほどまで視界を埋め尽くしていた瘴気の中の魔物は、見える限り、すべて消え去っていました。
ラシードは、土埃の向こうに立つ青年の背中をただ無言で見つめていました。
――なんだ、この規格外の力は……
ただの呪いなどという、生易しいものではない。
こんな底知れぬ存在を縛り付け、あろうことか封じていた何者かがいたというのか。
その事実を想像しただけで、ラシードの背筋にさえ、冷たい畏れが走りました。
「ラシード、終わったぞ」
不意に振り返った青年が、無邪気なほどあっけらかんと言いました。
その表情に浮かんだ、かすかに誇らしげな色は、ラシードが見知っている蒼月そのものでした。
ラシードは小さく息を吐き出すと、「ああ」とだけ返し、二人は待機している本営へと歩みを進めました。
本営へ戻ると、蒼月は息を吐きました。
「俺の力は、浄化ではない」
その声に、アステルが顔を上げました。
「魔物の形を消すことはできる。だが、瘴気そのものは消せない」
蒼月は、遠く瘴気の奥を見据えました。
「だが、リリアは使わせない」
ラシードが、低く口を開きます。
「なら、どうする」
蒼月は、迷わず答えました。
「封鎖する」
「封鎖?」
「私が結界を張る。この瘴気の帯ごと、外へ出さない」
蒼月の声は静かでした。
けれど、その静けさの奥には、何者にも触れがたいほどの絶対的な力がありました。
「誰も近づけるな。命あるものが私の結界に触れれば、ただでは済まない」
その言葉の重みに、誰も軽く頷くことはできませんでした。
ラシードは、蒼月の横顔を見つめていました。
そして、ある小さな、しかし決定的な変化に気づきます。
こいつ、一人称が変わっている。
つい先ほどまで、蒼月はラシードに向かって「俺」と言っていました。
けれど、今の蒼月は、息をするのと同じくらい当たり前に「私」と言い放ったのです。
まるで、長く深い眠りの奥底から、より古く、より上位の記憶が完全に目を覚ましたかのように。
ラシードは、探るように目を細めました。
呪いが解けたことで彼に戻ったのは、圧倒的な力や人の姿だけではないのかもしれません。
――――――――――
その少し前。
瘴気の中心に立っていたのは、砂漠で一度姿を見せた、あの白髪の男でした。
褐色の肌に長い白髪。
金の瞳は、迫りくる光の陣を冷たく見下ろしています。
その背には、漆黒の翼が広がっていました。
地面からせり上がるように、光の陣がその足元へ迫ります。
避けきれない。
白髪の男がそう悟った瞬間、闇をそのまま形にしたような瞳を持つ、美しい黒髪の男が前へ立ちました。
黒い結界がドーム状に広がり、光の陣を真正面から受け止めます。
空気が悲鳴を上げて軋み、濃密な瘴気が大きく波打ちました。
「あぶなかったな」
その声は、どこか楽しげでさえありました。
白髪の男は、目の前に立つ圧倒的な背を見上げます。
「魔王様……」
魔王と呼ばれた男は、薄く笑いました。
「なんだ。地上に、まだこんなものがいたのか」
「これは……何なのですか」
「人が神と呼ぶ者だな」
その言葉に、白髪の男の金の瞳が揺れました。
「神は、人間の味方をするのですか?」
「普通はしない」
魔王と呼ばれた男は、光の消えた地面を見つめたまま答えました。
「あれは人などに興味はない。世界の理さえ巡っていれば、それでいいのだ」
魔王と呼ばれた男は、そう言ってから小さく笑いました。
「……変わった神だな」
白髪の男は、悔しげに唇を噛みました。
「あの娘の残りの魂を削るために起こしたというのに……また、やられてしまいました」
魔王と呼ばれた男は、黒い結界の向こうに広がる光の名残を見つめたまま、微かに口角を上げます。
「よい」
その声に、一切の焦りはありませんでした。
「今、地上に来て分かった。あの娘は、そう長くない」
白髪の男は、思わず魔王を見上げました。
「それを、待つと?」
「待ってもよいだろう」
魔王は、視線を上げました。
蒼月の力が走った戦場には、まだ淡い光の筋が残っています。
そして、その奥では瘴気の帯が、外へ広がることを強大な力で拒まれたように押し留められていました。
「ここは結界が張られた。しばらくは使えぬ」
魔王は、白髪の男へゆっくりと手を伸ばしました。
「こっちへ来い。飛ぶぞ」
白髪の男は一瞬だけ、光の残滓が揺れる戦場を振り返り、それから魔王のそばへ寄りました。
次の瞬間、二人の足元から底知れぬ真っ黒な影が泥のように広がります。
周囲の瘴気が激しく渦を巻き、漆黒の翼が一度だけ大きく羽ばたきました。
その風圧が砂を巻き上げた直後――二人の姿は、最初からそこにいなかったかのように、音もなく空間から消え去っていました。
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