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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第五章 千年前の真実

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第七十二話 戦神

ラシードは、リリアをセシリアに預けて休ませていました。

呪いを解いた疲労が残っているのか、寝台に横たわると、ほどなく眠りに落ちたのです。

その寝顔を一度だけ確かめてから、ラシードは蒼月を自分の部屋へ連れてきました。

半裸のままの青年を、いつまでも廊下に立たせておくわけにもいきません。

なにより、リリアのそばに置いておくのは危険すぎました。

ラシードは椅子の背に掛けていた自分の服を掴み、蒼月へ投げました。


「俺の服だ。着ろ」


蒼月は受け取った服を見下ろし、眉を寄せました。


「お前、今嫌そうな顔しただろ」


「……」


「俺だって嫌だ」


ラシードは深く息を吐きました。

なぜ自分が、半裸の男に服を貸しているのか。

しかも、その相手が蒼月だというのだから、頭がどうにかなりそうでした。

こんな物語のようなことが、本当にあるのか。

呪いが解けたら銀狼が人の姿になるなど、冗談にもほどがあります。

けれど、実際に目の前にいる、しかも、油断ならない。

あの顔は何だ。

あの身体は何だ。

顔も、手足の長さも、肩から腰にかけての線まで、やたらと整いすぎている。

男の自分でも一瞬見惚れそうになり、ラシードはすぐに首を振りました。


「……腹が立つな」


「何がだ」


「全部だ」


蒼月は意味が分からないという顔をしました。

その表情まで妙に整っているのが、また腹立たしい。

ラシードは蒼月が服を着るのを待ち、それから腕を組みました。


「本当に、蒼月なのだな?」


蒼月は布の袖に腕を通しながら、ラシードを見ました。


「あれだけ見せても、まだ疑うのか」


「当たり前だろうが」


ラシードの声が低くなりました。

先ほどまでの軽口が、そこで消えます。

部屋の空気が、冷えました。


「なら、聞く」


蒼月は黙って聞いていました。

ラシードはまっすぐに蒼月を見据えます。


「リリアの命は、どれくらいだ?」


それは、蒼月とラシードしか知らないことでした。

リリアには告げていない。

アステルも、正確な年数までは口にしていない。

あの夜、リリアの魂が弱っていると知った時から、ラシードの胸に刺さり続けている言葉です。

蒼月は、しばらく黙っていました。

そして、目を伏せます。


「ああ。もって、あと一年と少しだろうな」


ラシードの喉が、動きました。


「そうか……」


短い返事しか出ませんでした。

分かっていたはずでした。

聞いたこともある。

覚悟したつもりにもなっていた。

それでも、蒼月の口から改めて告げられると、胸の奥が鈍く沈みました。

蒼月は服の襟元を直しながら、低く続けました。


「だから、俺は戦場へ戻る」


ラシードは顔を上げました。


「呪いは解けた。力も戻った。今なら、あの軍勢を断ち切れるかもしれない」


「かもしれない、で戻るつもりか」


「リリアが限界を越える前に戻る」


その一言で、ラシードは言葉を失いました。

蒼月の目には、迷いがありませんでした。

リリアに背負わせるためではない。

リリアを守るために、戻ろうとしている。

それが分かってしまったからこそ、ラシードはすぐに否定できませんでした。

それでも、簡単に頷くこともできませんでした。


「……勝算は」


「ある」


蒼月は短く答えました。

ラシードは舌打ちしました。

服を着たせいで、目の前の男はますます人にしか見えません。

けれど、その中身は、間違いなくリリアを守るためなら何でもする銀狼でした。

ラシードは額に手を当てました。


「本当に、面倒なことになったな」


「俺のせいではない」


「お前のせいだろうが」


蒼月は少しだけ目を細めました。

その表情は、狼の時とほとんど同じでした。

ラシードはもう一度、短く息を吐きました。


「行くぞ」


「どこへだ」


「アステル様のところだ」


ラシードは扉へ向かいながら、振り返りました。


「とりあえず、お前を皆に蒼月だと納得させるところからだ」


蒼月はしばらくラシードを見ていました。

やがて、頷きます。


「分かった」


ラシードは扉に手をかけました。


「それと」


蒼月が顔を上げます。

ラシードは、横目で睨むように告げました。


「リリアを抱き上げるのは禁止だ」


「狼の姿になって、リリアを油断させて近づくのも禁止だ」


蒼月は答えませんでした。

ただ、その沈黙があまりにも不満げで、ラシードの眉間にまた皺が寄ります。


「嫌だ。俺はやる」


「は?」


「ずっと、お前がリリアを抱き上げる姿を見ていたのだ」


蒼月は当然のように言いました。


「俺もしたい」


ラシードは、ゆっくりと片手で顔を覆いました。


「……お前、本当に面倒な姿になったな」


ラシードと蒼月が本営へ戻ったのは、翌日の昼頃でした。


王宮を出てから早馬を乗り継ぎ、ほとんど休むことなく戻ってきたのです。

本営は、ひどく慌ただしい空気に包まれていました。

リリアがいない。

ラシードもいない。

蒼月の姿もない。

その三つが重なれば、騒ぎにならないはずがありません。

けれど、戦は止まりません。

前線では魔物の群れが動き続け、負傷者は今も救護拠点へ運び込まれています。

誰もが異変を感じながら、それを問いただす余裕すらありませんでした。


ただ一人、アステルだけは顔色を失っていました。

星術院の術師たちを総動員し、陣と水晶を使ってリリアの行方を探らせていたのです。


その姿を見たラシードは、さすがに少しだけ気の毒になりました。


「アステル様」


呼ばれたアステルが、勢いよく顔を上げました。


「ラシード様。リリア殿は」


「王宮にいる。無事だ。今はセシリアに預けて休ませている」


その言葉を聞いた瞬間、アステルの肩から力が抜けました。

けれど、すぐにその目がラシードの隣へ向かいます。

そこには、ラシードの服を着た長身の銀髪の青年が立っていました。

アステルの表情が、今度は別の意味で固まりました。


「……その方は」


「詳しい話は、まとめてする」


ラシードは短く答えました。


「主だった者を本営の天幕へ集めてくれ。ローガン様、エレナ様、軍務官、星術院の者もだ」


アステルは、青年を見つめたまま小さく頷きました。

問いただしたいことは山ほどあるはずです。

けれど、リリアが無事だと分かった今、まず必要なのは状況の共有でした。


ほどなくして、本営の大天幕には主だった者たちが集められました。

誰もが、ラシードの隣に立つ見知らぬ青年へ視線を向けています。

ラシードは腕を組みました。

どう説明すればいいのか。

銀狼だった蒼月の呪いが解け、人の姿になった。

そんな話を、言葉だけで納得しろという方が無理です。

見せるのが一番早い。

ラシードは、ちらりとエレナを見ました。

まあ、エレナなら平気だろう。

そう判断して、ラシードは蒼月へ視線を向けました。


「蒼月」


銀髪の青年が、顔を上げました。


「見せろ」


その言葉に、天幕の中がわずかに揺れました。


「蒼月……?」


誰かが、低く呟きました。

目の前にいるのは、どう見ても見知らぬ青年です。

蒼月と呼ばれるには、あまりにも姿が違いすぎました。


青年は小さく息を吐きました。

次の瞬間、その身体が淡い光に包まれます。

長い銀の髪も、人の手足も、光の中で形を変えていきました。

光が収まった時、ラシードから借りた服が床に落ち、そこには見慣れた銀狼が立っていました。

天幕の中に、ざわめきが広がりました。

ローガンが目を見開き、エレナも一瞬だけ言葉を失います。

アステルだけが、息を呑むようにして銀狼を見つめていました。


「……蒼月」


ラシードは一度、天幕の中を見渡しました。


「呪いがすべて解けたようです。私が駆けつけた時には、すでに人の姿になっておりました」


その言葉に、ざわめきがさらに大きくなりました。

ラシードは落ち着いた声で続けます。


「私も、まだすべてを把握できているわけではありません。ですが、この者が蒼月であることは確認しております」


ラシードはそこで、銀狼の姿に戻った蒼月へ視線を向けました。


「蒼月。次に人の姿へ戻る時は、服を着ておけよな」


蒼月の尾だけが、揺れました。


やがて、蒼月は人の姿に戻りました。

ラシードは床に落ちていた服を拾い上げ、蒼月へ投げ返します。


「……服は、面倒だ」


エレナが、顔を赤くして蒼月に言いました。


「いいから着てください」


ラシードは、エレナの反応が面白すぎて、笑いをこらえるのに苦労しました。


蒼月が不満げに眉を寄せた、その時でした。

遠くから、地鳴りのような音が響きます。

先ほどまでの気の抜けた空気が、一瞬で消えました。

蒼月が、天幕の外へ視線を向けました。


「来る。ラシード、剣をよこせ。頑丈なやつだ」


ラシードが、そばに立てかけてあった剣を蒼月へ投げました。

蒼月はそれを片手で受け取ると、さらに続けます。


「あと、剣でも槍でもいい。俺の後ろに、できるだけ集めておけ。声をかけたら投げろ」


その声には、先ほどまでとは違う重みがありました。

瘴気の向こうから、黒い群れが姿を現します。

数は、これまで見た中でも最大規模でした。

砦の前へ押し寄せる影が、地面を黒く塗り潰していきます。


「下がっていろ」


その声に、ラシードが眉をひそめました。


「蒼月……?」


蒼月は答えず、ラシードから受け取った剣を振り上げました。

次の瞬間、蒼月が魔物の群れへ切り込みます。

ただ一度、刃が振り下ろされただけでした。

それだけで、蒼月の前にいた数十体の魔物がまとめて裂け、黒い血を散らして崩れ落ちます。

同時に、剣の刃が砕けました。


「力加減が難しい」


蒼月は、砕けた剣を地面へ捨てました。


「次」


ラシードが、すぐに次の剣を投げました。

蒼月はそれを掴み、横へ薙ぎ払います。

また数十体の魔物が切り裂かれ、地面へ倒れました。

けれど、群れは止まりません。

瘴気の奥から、さらに次の影が押し寄せてきます。


銀の髪が瘴気の中で揺れ、振るう腕の先で、魔物の群れが次々と裂けていきました。

その姿は、まるで戦場に降り立った戦神のようでした。


誰かが倒れれば、蒼月は迷わず腕を伸ばしました。

倒れた兵の襟元を掴み、後方の味方のもとへ投げ戻します。

それは荒っぽく、けれど確実に命を瘴気の中から引き上げる動きでした。


ラシードは一瞬だけ息を呑み、それからすぐに声を張りました。


「武器を絶やすな! 蒼月の後ろへ集めろ!」


兵たちが、弾かれたように動き出しました。


蒼月は何かを思い出したように、小さく息を吐きました。


「面倒だな」


蒼月の背後に集められていた剣や槍が、かすかに震えました。


「刃群よ、我が前途へと奔れ。行く手を阻むものを、ことごとく滅せよ」


その声が落ちた瞬間、剣と槍が一斉に宙へ浮き上がりました。

銀の光をまとった刃が、蒼月の背後から雨のように放たれます。

槍は魔物の胸を貫き、剣は黒い身体を断ち切りました。

蒼月はその刃の群れの中を、迷いなく駆け抜けていきます。

地を蹴るたびに銀の光が走り、刃に倒れた魔物が戦場に崩れ落ちていきました。

それでも、魔物の数は尽きませんでした。

押し寄せる黒い影を斬り裂き、貫き、蒼月はただ前へ進み続けました。

ようやく魔物の軍勢が止まったのは、夜になってからでした。


蒼月が天幕へ戻ってきたのは、夜半過ぎでした。


天幕の入り口が揺れ、銀狼の姿の蒼月が中へ入ってきます。

ラシードが顔を上げた瞬間、淡い光が走りました。

銀狼の姿がほどけ、長い銀髪の青年がその場に立ちます。

その身体は、魔物の返り血にまみれていました。

銀の髪にも、白い肌にも、黒く濁った血が飛び散っています。

身に着けていたはずの服は、どこにもありませんでした。

蒼月は少し考えるように自分の身体を見下ろし、それからラシードを見ました。


「ラシード。服がなくなった」


「おまっ……」


ラシードは言葉を詰まらせ、反射的に近くの外套を掴んで投げつけました。


「先にそれを巻け!」


蒼月は外套を受け取り、淡々と身体に巻きつけました。


「狼に戻った時に、置いてきたらしい」


「らしい、じゃねえ!」


ラシードは深く息を吐き、天幕の外へ声を飛ばしました。


「ナーディル!」


すぐに、外で控えていたナーディルが天幕へ入ってきました。

血にまみれた蒼月の姿を見た瞬間、ナーディルの表情が固まります。


「……ラシード様」


「こいつを何とかしてやってくれ」


ラシードは疲れたように額を押さえました。


「服と、湯と、拭くものだ。あと、外へ出すな」


ナーディルは一度だけ蒼月を見て、それから頭を下げました。


「承知しました」


翌朝、蒼月は一人で瘴気の中へ入っていきました。

濃い瘴気の奥へ、銀の髪が消えていきます。


蒼月が戻ってきたのは、昼を過ぎたころでした。

その背後には、淡い光に包まれた黒い結晶がいくつも浮かんでいます。

一つひとつが薄い結界に閉じ込められ、瘴気を外へ漏らさぬよう封じられていました。

数は、二十ほどありました。


「アステル、これ、いるだろ」


蒼月は、何でもないことのように言いました。


「結界に入れておいた。使え」


アステルは目の前に並ぶ黒い結晶を見て、しばらく動けませんでした。

やがて、かすかに息を吸い、慎重に口を開きます。


「……何と言えばよいのか」


アステルは、結晶を包む結界の光を見つめました。


「このままでは、封印できません。以前のように、リリア殿の浄化で弱らせなければ、封印の箱には収められない」


「それは駄目だ」


蒼月は、迷わず言いました。


「リリアは使わない」


アステルは言葉を返せず、結界に包まれた結晶を見つめました。

蒼月の声は静かでしたが、そこには譲る気配がありませんでした。


「一つだけ置いていく。お前が使え」


そう言うと、黒い結晶を包んでいた光が、透明な珠の形を取り具現化しました。

そのまま地面に落ち、転がります。

透明なガラス玉の中で、結晶はなおも瘴気をにじませていました。


「残りは、瘴気の中に戻す」


「戻すのですか」


「ああ」


蒼月は、瘴気の向こうへ視線を向けました。


「今のままでは、ここに置いておく方が危ない」


アステルは、しばらく蒼月を見つめていました。

やがて、小さく頷きます。


「分かりました。一つだけ、こちらで研究に使わせてもらいます」


蒼月は、瘴気の奥を見据えたまま言いました。


「まだ中に、たくさんいる」


ラシードが眉を寄せました。


「魔物か」


重い沈黙が落ちました。

けれど蒼月は、そこで視線を伏せませんでした。

何かを思い出そうとするように、目を細めます。


「一つ、強力な言霊を思い出した」


ラシードが蒼月を見ました。


「言霊?」


「ああ」


蒼月は、遠い記憶をたどるように言いました。

アステルの表情が険しくなります。


「試すおつもりですか」


「試してもいいか」


蒼月は、ラシードとアステルを見ました。


「少々お待ちください。ローガン殿に確認してまいります」


「分かった」


アステルはすぐに天幕を出ていきました。

残されたラシードは、蒼月を見据えました。


「お前が思い出したっていう言霊は、どれくらい危険なのだ」


「分からない」


蒼月は、淡々と答えました。


「だが、今の俺なら耐えられる」


「そういう言い方をする奴ほど信用できねえんだよ」


ラシードは眉を寄せました。

蒼月は何も言い返さず、ただ瘴気の向こうへ視線を向けています。


しばらくして、アステルが戻ってきました。


「ローガン殿より、許可が下りました」


天幕の中の空気が、張り詰めました。


「ただし、前線の兵は可能な限り後方へ下げます。蒼月殿の術がどの範囲に及ぶか分からない以上、巻き込まれる危険を避けなければなりません」


「それでいい」


蒼月は頷きました。


「俺が前へ出る。お前たちは、後ろを守れ」


蒼月が、ラシードへ視線を向けました。


「ラシード、来るか? 俺が守ってやるよ」


どうだと言わんばかりの顔でした。

ラシードは、鼻で笑うように剣を握り直しました。


「ふん、見届けてやるよ」


二人は、黒く濁った戦場へ足を踏み出しました。


お読みいただきありがとうございます。

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