第七十一話 呪いの解除
リリアと蒼月は、地下神殿の最奥にある石室にいました。
床に刻まれた魔法陣は、静まり返った石室の中で淡い光を宿しています。
「蒼月、お願い」
――分かった。
蒼月は頷きました。
――少しでも危険を感じたら、やめるんだ。
リリアは頷きました。
――俺は、この鎖が一本でも多く取れればいい。
「分かったわ」
その返事を聞いて、蒼月は魔法陣の中央へ進みました。
銀の足が円の内側へ入ると、蒼月は目を伏せます。
――大地の女神よ。
――月の光を受けし水よ。
――我が名を呼ぶ者の声を聞け。
――その絆に応じ、魂を縛る古き鎖を緩めたまえ。
蒼月の心の声が、リリアの胸の奥に響きました。
床に刻まれた古い文様が、中央から淡い光を帯びていきます。
淡い光は円を伝い、幾重にも重なった線を走り、やがて蒼月の身体を包みました。
リリアの目の前に、黒い鎖が浮かび上がります。
一本。
また一本。
蒼月の魂に絡みつくように、黒い鎖が光の中で揺れていました。
リリアは息を整え、手を伸ばしました。
指先が鎖に触れた瞬間、冷たい痛みが肌を伝います。
リリアは、鎖の結び目をたどり、絡みついた場所を探し、解いていきます。
一本目の鎖が、光の粒となって宙へほどけました。
蒼月の身体が、かすかに震えます。
「大丈夫?」
――平気だ。
蒼月の声は、いつもより低く響きました。
リリアはもう一度頷き、次の鎖へ手を伸ばしました。
時間の感覚は、少しずつ薄れていきました。
石室の中には、魔法陣の光と、鎖がほどけるたびに散る小さな光だけがありました。
リリアは一本ずつ、慎重に鎖を外していきます。
やがて、数時間が経ち、リリアの額に汗が滲みました。
指先が冷え、呼吸が浅くなっていきます。
それでも、目の前にはまだ黒い鎖が残っていました。
蒼月が、声を届けます。
――リリア、もういい。
「いいえ」
リリアは、かすれた声で答えました。
「あと少し」
――リリア。
「大丈夫。約束は、破らないわ」
リリアはそう言って、最後に残った鎖へ手を伸ばしました。
黒い鎖は、ほかのものよりも深く蒼月の魂に食い込んでいます。
最後の鎖に触れた瞬間、胸の奥まで凍りつくような感覚に、思わず息が止まります。
蒼月が、リリアを守るためにここへ来たのです。
ならば、自分も逃げるわけにはいきません。
リリアは鎖の奥にある結び目を探りました。
ほどくのではなく、引き抜かなければならない。
そう直感した瞬間、リリアは両手で鎖を掴みました。
「蒼月……!」
リリアが最後の一本を引き抜いた瞬間、石室全体が強い光に包まれました。
白い光が魔法陣から溢れ、壁も床も、蒼月の姿さえも呑み込んでいきます。
リリアは思わず目を閉じました。
身体が後ろへ傾き、そのまま床に尻もちをつきます。
光は、しばらく消えませんでした。
まぶたの裏まで白く染まり、耳の奥で古い鐘のような音が響きます。
その頃、ラシードは王宮へ向かう馬上にいました。
リリアと蒼月の姿が救護拠点から消えたと知った瞬間、胸の奥が冷たくなったのです。
行き先は考えるまでもありませんでした。
「リリア、あいつ……」
低く吐き捨てるように呟き、ラシードは手綱を握る手に力を込めました。
馬は夜明け前の道を駆け抜けます。
向かう先は、王宮の地下神殿でした。
光がようやく収まったころ、リリアはまだ床に座り込んでいました。
目を開けても、視界が白くぼやけています。
石室の輪郭が揺れ、魔法陣の光も、床の模様も、すぐには見分けられませんでした。
「……蒼月?」
呼びかけても、すぐに返事はありません。
リリアは胸の奥が冷えるのを感じました。
「蒼月、どこ?」
手をついて立ち上がろうとした時、目の前に影が落ちました。
誰かが、リリアの前に膝をついています。
長い銀の髪が、光の名残を受けて淡く揺れていました。
その人は、リリアへ手を差し伸べます。
「リリア、大丈夫か」
低く、静かな声でした。
どこかで聞いた声、ずっとそばにあったはずの声。
けれど、耳に届く響きは、いつもとは違っていました。
リリアは差し出された手を見つめ、それからゆっくりと顔を上げました。
そこには、見知らぬ長身の銀髪の青年がいました。
光の名残をまとったその姿は、石室の奥に置かれた古い神像のように静かでした。
肌に残る白い光も、肩へ落ちる銀の髪も、あまりに澄んでいて、リリアは一瞬、声を失いました。
羞恥よりも先に、触れてはいけないものを見てしまったような畏れが胸に広がります。
けれど、その瞳だけは、はっきりとリリアを見つめていました。
リリアは息を呑み、そのまま後ずさりました。
「あなたは……誰?」
言葉が震えました。
リリアは思わず周囲を見回します。
「蒼月は? 蒼月はどこにいるの?」
「いやっ、蒼月を返して……!」
悲痛な叫びが、石室に響きました。
青年は、リリアの前に片膝をついたまま、目を細めました。
「リリア」
その呼び方に、胸が震えました。
青年は、差し出した手を引かずに続けます。
「俺が、蒼月だ」
リリアは、何も言えませんでした。
頭が追いつきません。
目の前にいるのは、知らない青年です。
けれど、その瞳は蒼月のものでした。
声の奥にある静けさも、リリアを案じる気配も、間違えようがありません。
「呪いが、やっと解けた」
青年は、息を吐きました。
その表情に、長い長い時を越えてきたような安堵が滲みます。
「ありがとう、リリア」
リリアは差し出された手を見つめました。
それから、もう一度その蒼い瞳を見上げます。
胸の奥で、何かがほどけていきました。
「……蒼月?」
青年は、確かに頷きました。
その時、石室の入り口から荒々しい足音が響き渡りました。
「リリア!」
血相を変えて飛び込んできたのは、ラシードでした。
彼は息を切らしたまま剣を抜き放ち、リリアを庇うようにその前に立ちはだかります。
「お前、誰だ」
低く鋭い声でした。
「リリアに何をした」
「蒼月はどこだ」
「蒼月が、お前を置いていくわけがない」
矢継ぎ早に投げつけられる言葉に、青年は困ったように息を吐きました。
リリアは、ラシードの背中に隠れるように身を寄せます。
「ラシード、蒼月が……。蒼月が……消えてしまったの」
リリアの瞳から流れ落ちる涙を見て、青年は眉を下げました。
「リリア、泣かないで」
青年は、ゆっくりと立ち上がりながら言いました。
「俺が、蒼月なのだ」
ラシードの眉が、疑わしげに寄せられました。
「その恰好で言われても、まったく納得できねえぞ」
ラシードは剣先を下げないまま、青年を睨みつけます。
「素っ裸でリリアに詰め寄っているお前は、どう見ても怪しい奴にしか見えねえ」
蒼月と名乗る青年は、自分の身体へ視線を落としました。
「……ああ、そうか」
ようやく気づいたように、小さく頷きます。
「ラシード、その上着をよこせ」
「なぜ、俺の名を知っている」
「だから、蒼月だと言っているだろう」
ラシードはしばらく青年を睨みつけていましたが、やがて舌打ちをし、腰に巻いていた布をほどきました。
「とりあえず、それを巻いておけ。リリアの目の毒だ」
青年は布を受け取り、腰へ巻きつけました。
その仕草はどこかぎこちなく、人の身体にまだ慣れていないようにも見えます。
それでも、青年の眼差しだけは、リリアから逸れませんでした。
「リリア」
青年は言いました。
「あの森で、君が俺に名をくれた」
リリアの肩が、小さく震えました。
「夜空の月を思わせる、美しい銀の毛並みと、深く蒼い瞳。それを見て、君は俺を蒼月と呼んだ」
ラシードの剣先が、揺れました。
リリアは、涙に濡れた瞳で青年を見つめます。
「それは……」
「あの森の匂いも、君の手の温かさも」
青年は、ゆっくりと言葉を続けました。
「君は、俺を怖がらなかった」
リリアの唇が震えました。
それは、リリアと蒼月しか知らない記憶でした。
けれど、目の前にいるのは、見知らぬ青年です。
「本当に……蒼月なの?」
「ああ」
青年は頷きました。
「これが、呪いの解けた姿だ」
「でも……」
「長い間、獣の意識のままでいた。俺自身も、記憶が少し混乱している」
青年は自分の手を見下ろしました。
指を動かし、その感覚を確かめるように、目を細めます。
「だが、今はこんなことをしている場合ではないのだろう」
青年は顔を上げました。
「戦場へ戻る」
「いや、信じられないままでは無理だろう」
ラシードが低く言いました。
剣はまだ下ろしていません。
けれど、その声には先ほどまでの殺気だけではなく、戸惑いも混じっていました。
「でも……蒼月との出会いは、合っていたわ」
リリアはそう呟きました。
それでも、胸の奥の震えはおさまりません。
その時でした。
――リリア。
リリアの心の奥に、声が響きました。
耳ではなく、魂に直接触れる声。
何度も聞いてきた、蒼月の声でした。
――これなら、分かるか。
リリアは息を呑みました。
「蒼月の……声……」
青年は、まっすぐにリリアを見つめていました。
その瞳の奥にある静けさも、優しさも、ずっとそばにいた蒼月そのものでした。
――リリア。
その声が、もう一度、リリアの胸の奥に届きます。
――俺は、ここにいる。
リリアの瞳から、また涙がこぼれました。
けれど、その涙は先ほどの悲痛なものとは違っていました。
「……蒼月」
青年は、頷きました。
「分かった。仕方ない」
次の瞬間、青年の身体が淡い光に包まれました。
長い銀の髪も、伸ばされた手も、光の中で形を変えていきます。
リリアが息を呑む間に、そこには見慣れた銀狼の姿がありました。
銀狼は、まっすぐにリリアを見つめています。
――これで、信じてもらえるか。
リリアの胸の奥に、いつもの声が響きました。
「蒼月……!」
リリアは思わずその名を呼びました。
ラシードも、剣を構えたまま動きを止めています。
「……にわかには信じがたいが、その姿を見ればな」
目の前にいるのは、間違いなく蒼月でした。
けれど蒼月は、どこか不満そうに尾を揺らしました。
――ようやく人の手で、お前を抱き上げられると思ったのに。
リリアの頬が、ほんのり赤くなりました。
「お前、今リリアに何か言っただろ」
蒼月の尾だけが、揺れました。
「お前、リリアに接近禁止だ」
リリアは慌ててラシードを見上げました。
「ラシード、蒼月の声は聞こえていないはずでは……」
「聞こえなくても分かる」
ラシードは、剣を下ろさないまま蒼月を睨みました。
「その顔は、絶対に何か余計なことを言った顔だ」
蒼月は、ゆっくりとリリアのそばへ身を寄せました。
ラシードはすぐにリリアを抱き上げ、蒼月から一歩退きます。
「人との距離を保て」
蒼月の瞳が、ラシードを見ています。
リリアは、突然抱き上げられて目を瞬かせます。
「ラ、ラシード?」
「今のお前は黙って抱かれてろ」
ラシードは蒼月から目を離さないまま言いました。
「こいつは、狼の距離感のまま人になった危険人物だ」
蒼月は何も言いません。
ただ、不満そうに尾を揺らしました。
――俺は狼だ。
リリアの胸の奥に、蒼月の声が届きます。
思わずリリアが小さく笑いかけた瞬間、ラシードの眉がぴくりと動きました。
「今、また何か言ったな」
「聞こえていないのに、どうして分かるのですか」
「顔に出てる」
ラシードは、リリアを抱え直しました。
「とにかく、リリアに近づくな」
蒼月は、ラシードを見返します。
「本来の姿がそれなら、狼としても禁止だ」
ラシードは、譲る気配を見せませんでした。
リリアは涙の残る顔のまま、思わず小さく瞬きました。
蒼月の身体が、ふたたび淡い光に包まれました。
銀狼の姿が光の中でほどけ、長い銀髪の青年の姿へ戻っていきます。
蒼月は先ほどラシードから渡された布を取り、腰へ巻きました。
ラシードはそれを見て、深く息を吐きます。
「とりあえず、服だな」
蒼月が顔を上げました。
「服?」
「そうだ。服だ」
ラシードは、呆れたように眉を寄せました。
「あと、狼になって人に戻る時は服を持参しろ」
蒼月は少しだけ考えるように、あらためて自分の身体へ視線を落としました。
「……なるほど」
「なるほど、じゃねえ」




