第七十話 迫る軍勢
王宮の会議室に、重い空気が満ちていました。
卓上には北方の地図が広げられ、そこには黒い印がいくつも書き込まれています。
ローガンが、地図の一点を指し示しました。
「北の砦近辺に、魔物の軍団が確認されました」
その声に、居並ぶ者たちの表情が一斉に強張りました。
「瘴気の中を移動しながら、近隣の街を襲いつつ進軍しています。すでに数万に及ぶ可能性があります」
「数万」という言葉に、居並ぶ者たちは息を呑みました。
アレクシス王は、地図を見つめたまま口を開きませんでした。
ハインリヒが、息を吐きます。
「これほどの規模は、これまでにありません」
「はい」
ローガンは頷き、卓上の地図へさらに指を滑らせました。
「王都の守りを固めつつ、前線へ戦力を送ります。編成をお伝えします」
誰もが息を詰め、ローガンの次の言葉を待ちました。
「王都の防衛は、レオン殿下に指揮を執っていただきます」
レオンが頷きました。
その顔には、王太子としての覚悟が滲んでいます。
「第二騎士団から第七騎士団まで、前線へ出立します」
騎士団の名が読み上げられるたび、前線へ送られる戦力の多さが現実味を増していきました。
「攻撃魔法部隊は第一部隊から第五部隊までを前線へ出します。治療隊は、それぞれの騎士団に一グループずつ配属します」
ローガンは、さらに続けました。
「残りの軍医と治癒術師は、負傷者の治療に専念していただきます。アステル殿を含む星術師の方々には、リリア殿が瘴気に侵された者を診る際の補助と、防護陣の維持をお願いします」
アステルが、一礼しました。
「承知しました」
「そのほか、倒れた兵や遺体を前線から後方へ引かせる救護班も編成します。瘴気の中へ投げ込まれれば、魔物化に利用される危険があるためです」
ローガンは一度言葉を切り、会議室全体を見渡しました。
「近隣諸国にも、すでに援軍を要請しています。ですが、各国の軍が到着するまでは、我が国だけでこの地を守り抜かなければなりません」
その言葉に、誰も異を唱えませんでした。
けれど、誰の顔にも、この戦の重さがはっきりと刻まれていました。
そこで、レオンが一歩、前へ出ました。
「父上。それでは、私も前線に出ます」
アレクシス王の視線が、息子へ向けられました。
「王都を留守にして、どうする」
その声には、王としての揺るぎない意志がありました。
「それも、お前の重要な役目だ」
レオンは、唇を引き結びました。
言い返したい言葉が、喉の奥にあるようでした。
けれど、王の目を見て、それ以上は何も言えませんでした。
「……承知しました」
レオンは、頭を下げました。
アレクシス王は、集まった重臣たちを見渡しました。
「現在、早馬にて、サハルディアにも援軍要請を送っている」
ハインリヒが頷きました。
「サフィーラ女王であれば、必ず応じてくださるでしょう」
アレクシス王が頷いたとき、壁際に控えていたラシードが口を開きました。
「恐れながら、サフィーラ女王のご判断を待ってからでは、間に合わぬものもございます」
会議室の視線が、ラシードへ集まりました。
ラシードは一歩進み、地図へ視線を落とします。
「私の側近であるナーディルには、副官としてこちらへ向かうよう、すでに伝令を出しました。あわせて、サライナとアルディナの街にいる部隊にも、可能な限りこちらへ向かうよう指示しております」
静かな声でした。
けれど、その判断の早さは、重く沈んでいた会議室に一筋の支えを通しました。
アレクシス王は、ラシードを見据えます。
「助かる。先に手を打ってくれたこと、感謝する」
短い、けれど確かな信頼のこもった言葉でした。
ラシードは、深く頭を下げました。
「敵が何を狙っているのかは、まだ分からない。だが、この国と、この国に生きる者たちを、我らが守る」
その言葉に、居並ぶ者たちが、深く頭を下げました。
窓の外では、まだ穏やかな王都の空が広がっていました。
けれど、その空の下で、すでに戦の支度が動き始めていました。
それから二カ月後。
蒼月は、空を見上げていました。
夜明け前の空は、薄い灰色に濁っています。
雲なのか、瘴気なのか、遠くの地平に滲む色は、すでに判別できませんでした。
砦の外壁は幾度も爪に削られ、地面には焼け焦げた跡と、乾ききらない血の匂いが重なっていました。
ラシードが蒼月の横に並び、剣についた黒い血を払いました。
呼吸は乱れていましたが、その目はまだ戦場の奥を見据えていました。
蒼月が群れの正面を裂き、ラシードがその脇を抜ける魔物を斬る。
押し込まれれば前へ出て、囲まれれば背後を断つ。
言葉を交わさずとも、互いの動きは分かりました。
それでも、埒があきません。
倒しても、魔物の数は減らない。
瘴気に投げ込まれた兵は、次に人の形を残した魔物として現れる。
救護班が命がけで前線から運び出しても、間に合わなかった者が、次の敵になる。
押し返し、守り抜いてはいる。
けれど、まだ勝ててはいない。
その事実だけが、戦場の上に重くのしかかっていました。
救護拠点でも、事情は同じでした。
瘴気に侵された者たちが、礼拝堂の奥へ次々と運ばれてきます。
リリアは休む間もなく、その一人ひとりへ手を伸ばし続けていました。
一人を救っている間に、次の一人が冷えていく。
それでも、目の前に救いを求める手がある限り、リリアは止まれませんでした。
蒼月には、その魂の揺らぎが遠くからでも分かりました。
まだ限界は越えていない。
けれど、近づいている。
細い灯が、風の中で揺れるように。
蒼月は空から視線を戻しました。
瘴気の向こうで、また黒い群れが動き出していました。
三本の鎖が解けたことで、蒼月は以前よりも確かな手応えをもって魔物を切り裂けるようになっていました。
それでも、まだ足りない。
魂の奥に残る鎖が、本来の力を深い場所へ押さえ込んでいるのが分かりました。
残る呪いが解け、本来の力を取り戻せれば。
リリアが、また限界を越えようとする前に。
今度は自分が、この戦を断ち切れるかもしれない。
蒼月は、戦場の向こうではなく、遠く救護拠点の方へ意識を向けました。
――リリア。
礼拝堂で負傷者の手を取っていたリリアが、少し顔を上げました。
「蒼月……?」
蒼月は深く息を吸いました。
――リリア。
――お前が、また限界を越える前に。
――俺の呪いを解いてくれ。
――頼む。
リリアは、握っていた兵の手を布の上へ戻しました。
蒼月が、理由もなくそんなことを言うはずがありません。
リリアは立ち上がり、礼拝堂の外へ向かいます。
扉の外には、蒼月がいました。
戦場の土と瘴気にまみれた姿で、リリアをまっすぐに見つめていました。
「分かったわ、行きましょう」
――俺の背に乗れ。
「うん」
リリアは小さく頷きました。
誰かに告げる間もなく、リリアは蒼月の背に乗りました。
次の瞬間、蒼月は夜明け前の空気の中へ駆け出します。




