第六十九話 ラシードの思い
会議が終わり、リリアが退出したあとも、会議室にはまだ主だった者たちが残っていました。
卓上には北方砦から届いた報告書と地図が広げられたままです。
誰も、すぐには席を立ちませんでした。
アステルが口を開きました。
「負傷者を診る際には、可能な限り私が陣を張ります。リリア殿の負担を少しでも軽くできるよう、準備を整えます」
アレクシス王は重く頷きました。
「頼む」
その声には、王としての命令だけではない響きがありました。
「もうこれ以上、リリア一人にすべてを背負わせたくない」
その言葉に、部屋の中の誰もが同じ思いで頷きました。
ラシードだけは、何も言わずに立ち上がりました。
彼はそのまま部屋を出て、まっすぐ離宮へ向かいます。
夜の王宮の廊下に、硬い靴音だけが響きます。
離宮に着くと、セシリアがすぐにラシードの前へ立ちました。
「ラシード様。このような時間に、リリア様のお部屋へ入ることはできません」
いつものセシリアなら、丁寧に、それでも柔らかく諫めていたでしょう。
けれど今は、その声にも緊張がありました。
ラシードは足を止めました。
「どけ」
「できません。殿方が深夜に女性の部屋へ入るなど――」
「セシリア」
低い声でした。
セシリアの肩が、わずかに揺れます。
ラシードは目を逸らさずに告げました。
「今は、黙って席を外しておけ」
その言い方は、いつもの彼ではありませんでした。
リリアへ気安く笑いかけるラシードでも、侍女たちへ軽口を返すラシードでもありません。
感情を押し殺しきれないまま、それでも崩れまいとしている男の顔でした。
セシリアは唇を引き結びました。
しばらくラシードを見つめたあと、身を引きました。
「……リリア様を、泣かせないでください」
ラシードは答えず、そのまま扉へ向かおうとした時、今度はミラが音もなく前へ出ました。
「ラシード様」
短く名を呼び、ミラは扉の前に立ちました。
護衛として、そこだけは譲れないという顔でした。
ラシードは足を止めます。
「お前も止めるのか」
「止めます。今のラシード様を、そのままリリア様の前へ通すわけにはいきません」
次の瞬間、ミラの手がラシードの腕へ伸びました。
けれど、その指が触れるより早く、ラシードは半歩踏み込んでいました。
ミラの腕が後ろへ取られ、身体が壁際へ押さえられます。
その姿勢のまま、ラシードは言いました。
「お前では、俺は止められない。引け」
有無を言わせない声でした。
ミラは、喉の奥から出かけた声を飲み込みました。
腕を押さえつけるその力に、抗えるとは思えませんでした。
「ミラ」
セシリアが声をかけました。
「今は、ラシード様にお任せしましょう」
ラシードはそれを聞くと、ミラを離しました。
ラシードはリリアの部屋の扉の前で一度だけ息を吐きました。
そして、顔を上げた時には、いつもの優しい表情に戻そうとしていました。
けれど、その奥にあるものまでは隠しきれていませんでした。
「リリア、入るぞ」
返事を待たずに、ラシードは扉を開けました。
部屋の中では、リリアが寝台の上で上体を起こしていました。
眠る支度をしていたのか、金の髪はゆるく肩へ流れています。
蒼月は寝台のそばに伏せていましたが、ラシードが入ってきた瞬間、顔を上げました。
「ラシード……?」
リリアが驚いたように目を瞬かせました。
ラシードは扉を閉め、ゆっくりとリリアのそばへ歩み寄りました。
何かを言おうとして、けれど、うまく言葉にならないように一度口を閉じます。
そして、低く言いました。
「俺は怒っている」
リリアの瞳が揺れました。
「怒って……いるのですか」
「ああ」
ラシードは寝台のそばに立ち、リリアを見下ろしました。
その目は責めているようで、けれど本当は、もっと苦しげでした。
「なぜ怒っているか、分かるか」
リリアはすぐには答えられませんでした。
ラシードは小さく息を吐きました。
次の瞬間、リリアの身体を強く抱きしめました。
あまりにも急で、リリアは小さく息を呑みます。
ラシードはそのまま、リリアを寝台の上へ沈ませるように支えました。
逃がさないように、壊さないように、それでも離せないように、強く抱きしめていました。
「ラシード、苦しいです」
「すまない」
ラシードはリリアを抱く腕を、少しだけ緩めました。
低い声が、耳元に落ちます。
「でも、しばらくこのままでいてくれ」
ラシードはしばらく何も言わず、リリアを抱きしめていました。
やがて、金の髪の中に混じった銀のひと房へ、そっと唇を落としました。
リリアは戸惑いながら、ラシードの肩に手を添えました。
いつもなら、冗談の一つでも返してくる人です。
リリアは小さく尋ねました。
「本当に、怒っているのですか」
「ああ」
「私が、行くと言ったからですか」
ラシードは答えるまでに、少しだけ時間を置きました。
リリアの髪に顔を埋めるようにして、低く言います。
「リリアが、全然言うことを聞かずに、無理ばかりするからだ」
その声には、怒りだけではない何かが滲んでいました。
リリアは、ラシードの背に回された腕の強さに、ただ黙って身を委ねていました。
「リリア」
ラシードが、名を呼びました。
「頼むから、自分のことも守れ」
リリアの指先が、ラシードの服を掴みました。
「……はい」
その返事は、小さく、頼りないものでした。
けれどラシードは、それ以上責めませんでした。
リリアがそういう人間だからこそ、彼は目を離せなくなったのです。
ラシードの腕の中でリリアが息をする音だけが、夜の部屋に残っていました。
しばらくすると、ラシードはようやくリリアを離しました。
けれど、完全に離すことはせず、リリアが自分の胸へ半身を預けられるように抱き直しました。
リリアはそのまま身を預け、ラシードの胸元に頬を寄せました。
「リリア、約束してくれ」
ラシードの声は、低く掠れていました。
「絶対に無理をしないと」
リリアは小さく瞬きをしました。
ラシードは、彼女の髪に視線を落とし、撫でました。
金の髪の中に混じった銀のひと房が、夜の灯りを受けて淡く光っています。
その色を見るたび、胸の奥が軋むようでした。
「必ず、生きると」
リリアはしばらく何も言いませんでした。
けれど、やがてラシードの服を掴み、小さく頷きました。
「……分かりました」
その返事は、かすかに眠気を帯びていました。
ラシードはリリアの背を支えたまま、少しだけ息を吐きました。
「全部終わったら、また小館に行こう」
リリアの瞳が、ゆっくりとラシードを見上げました。
「小館……」
「ああ。湖のそばの小館だ。秋は、もっと過ごしやすいはずだ。風も涼しいし、湖も綺麗だろうな」
リリアの唇に、ほんのわずかな笑みが浮かびました。
「……行きたいです」
「なら、それまでに終わらせる」
ラシードは、リリアの髪を撫でました。
「だから、リリアも約束を守れ」
「はい……」
小さな返事のあと、リリアの瞼がゆっくりと落ちていきました。
抗えない眠りに引かれるように、リリアはラシードの胸に身を預けたまま、眠りへ沈んでいきました。
ラシードはその寝顔を、しばらく黙って見つめていました。
そして、金の髪の中に混じった銀のひと房へ、もう一度そっと唇を落としました。
「……約束だからな」
その声は、眠るリリアには届きませんでした。
蒼月が、寝台のそばでラシードを見ていました。
ラシードはようやく顔を上げ、蒼月へ視線を向けました。
「蒼月、騒がせたな」
蒼月は、ただラシードを見返しています。
「……すまん」
短くそう告げて、ラシードはもう一度リリアの寝顔を見ました。
夜は、まだ深いままでした。
やがて、窓の外が白み始めたころ、ラシードはリリアの身体を寝台へ預け、乱れた掛布を整えました。
蒼月がリリアのそばへ身を寄せます。
それを見届けてから、ラシードは音を立てないように部屋を出ました。
自分も、戦の支度をしなければなりませんでした。
ラシードは夜明け前の廊下を、迷いのない足取りで歩き出しました。




