第六十八話 急報
蒼月の三本目の鎖が解けたという報告が王宮へ届けられた日の夕刻、王都に急報が入りました。
最後の魔物の報告から半年以上、魔物や瘴気に関する大きな知らせはありませんでした。
それだけに、北方の砦近くに魔物の群れが現れたという報告は、王宮に重い緊張を走らせました。
知らせを受けたアレクシス王は、ただちに王宮の会議室へ主だった者たちを集めました。
王太子レオン、第二王子セドリック。
騎士団の隊長たち、軍務に関わる重臣、軍師、そしてラシード。
卓上には、北方砦から届いた報告書と、街道周辺を示す地図が広げられています。
砦からの第一報には、軍団と呼ぶほかない数の魔物が街道沿いへ押し寄せていると記されていました。
アレクシス王は報告書から目を離し、低く告げました。
「リリアには知らせずにおこう」
その言葉に、会議室の空気がさらに重くなりました。
レオンが顔を上げます。
「父上」
「分かっている。だが、今のリリアを動かすわけにはいかぬ」
アレクシス王の声は、王としてのものではありました。
けれど、その奥には、リリアを案じる一人の父親に近い響きがありました。
「これは、我らの責任で対処する」
軍師が地図の上に視線を落としました。
「砦にはすでに援軍を向かわせています。ですが、瘴気に侵された兵が出た場合、通常の治療では限界があります」
誰もが、その先を分かっていました。
分かっていたからこそ、すぐには答えられませんでした。
アステルが唇を引き結びました。
ラシードは腕を組んだまま、地図の一点を見つめています。
「蒼月にも協力してもらえれば、前線の状況は探れるかもしれません」
重臣の一人が、迷うように言いました。
アレクシス王は首を振りました。
「それではリリアが感づく」
短い言葉でした。
それだけで、会議室にいた者たちは黙りました。
今回、リリアを守るために隠す。
その判断が、どれほど苦いものか、誰もが理解していました。
別の隊長が、低く尋ねました。
「では、瘴気に侵された兵はどうなさいますか」
その問いに、誰もすぐには答えられませんでした。
会議室の灯りが、地図の上で小さく揺れています。
アレクシス王は目を伏せました。
長い沈黙のあと、かすれたような声で言いました。
「……救える手立てがなければ、諦めるしかあるまい」
重い沈黙が落ちました。
一人を守るために、前線の誰かを救えないかもしれないという、あまりにも苦い現実でした。
ラシードは奥歯を噛みました。
言いたいことは、いくらでもありました。
けれど、リリアを前線へ出すなと言いたいのは、誰より自分です。
そのリリアがいなければ救えない者が出るかもしれない。
その事実だけが、胸の奥に鈍く沈んでいきました。
その頃、離宮にも、いつもとは違う空気が流れ始めていました。
廊下を行き交う侍女や近衛の足音が、普段よりも早い。
王宮からの使者が何度も出入りし、セシリアもまた、何かを隠すように言葉を選んでいました。
リリアは窓辺に立ち、その様子を見つめていました。
誰も、リリアへ知らせようとはしませんでしたが、何も起きていない時の王宮が、こんな動きをするはずがありませんでした。
蒼月もまた、リリアのそばで耳を澄ませていました。
その瞳には、いつもより深い警戒が宿っています。
リリアは振り返りました。
「セシリア」
呼ばれたセシリアが、はっと顔を上げました。
「はい、リリア様」
「王宮で、何かありましたか」
セシリアは一瞬、言葉を失いました。
そのわずかな沈黙だけで、リリアには十分でした。
「アレクシス王にお会いします」
「リリア様、ですが……」
「お願いです。何も知らないまま、ここで待つことはできません」
セシリアは苦しげに眉を寄せました。
リリアの瞳はまっすぐでした。
その目を見て、もう止められないことを悟ったのか、セシリアは深く頭を下げました。
会議室にリリアが姿を現した時、そこにいた全員の視線が一斉に向けられました。
アレクシス王の表情が、強張ります。
レオンも、セドリックも、言葉を失っていました。
ラシードだけが、険しい顔で目を細めました。
蒼月はリリアのすぐそばに立ち、会議室を見渡していました。
リリアは深く一礼しました。
「突然押しかけてしまい、申し訳ありません」
アレクシス王は息を吐きました。
「リリア」
その声には、来てしまったか、という苦さが滲んでいました。
リリアは顔を上げました。
「私にも、教えてください」
会議室に、再び沈黙が落ちました。
アレクシス王はリリアを見つめていました。
それでも、危ういものを前に立たせている痛みが、その眼差しにはありました。
「聞けば、おまえは行くと言うだろう」
「はい」
リリアは、机の上に置かれた地図を見ました。
あまりにも静かな返事に、誰もすぐには言葉を返せませんでした。
アレクシス王は目を伏せ、やがて重く頷きました。
軍師が報告書を取り、必要な部分だけを簡潔に説明しました。
北方の砦近くに、魔物の群れが現れたこと。
その数が多く、砦だけでは長く持たない可能性があること。
すでに負傷者が出ており、瘴気に侵された兵がいるかもしれないこと。
リリアは報告を聞き終える前に、顔を上げました。
「行きます」
その声は穏やかで、迷いがありませんでした。
ラシードが即座に口を開きました。
「駄目だ」
短い言葉が、部屋の空気を切りました。
リリアがラシードを見ます。
「地下神殿の試行をしたばかりだ。三本外れた。今のおまえを前線には出せない」
「でも、魔物が出ているのなら……」
「駄目だ、リリア」
その一言に、会議室の空気が揺れました。
公の場でのラシードは、リリアを公爵として扱い、呼び方も言葉も、必要以上に崩すことはありません。
けれど今は、その礼も、距離も、すべて取り繕う余裕がないようでした。
「お願いだ。今は無茶をするな」
その言葉に、リリアの瞳が揺れました。
止める声の奥に、痛いほどの必死さが滲んでいたからでした。
蒼月がリリアのそばへ身を寄せます。
――駄目だ、ラシードの言う通りだ。
リリアは蒼月を見ました。
蒼月の瞳は、まっすぐにリリアを見つめていました。
――俺も反対だ。
いつもなら、リリアを支えてくれる声でした。
けれど今は、その声までもがリリアを引き止めていました。
リリアは唇を引き結び、少しだけ視線を落としました。
「……前線へ出たいと言っているのではありません」
全員が、リリアを見つめていました。
リリアはゆっくりと顔を上げました。
「瘴気に侵された怪我人だけでも、診させてください」
部屋の空気が、さらに重くなりました。
「戦うためではありません。魔物の群れの中へ行くつもりもありません。ただ、運ばれてきた方がいるのなら……私にできることがあるかもしれません」
ラシードは答えず、深く息を吐きました。
アステルもまた、険しい表情のまま黙っていました。
リリアの願いは、わがままではありません。
その優しさが、リリア自身を削っていくことを、そこにいる誰もが知っていました。
蒼月の思いは、言葉にすればリリアに届いてしまう。
止めたい。守りたい。
それでも、リリアが目の前の命から目をそらせないことも、蒼月は知っていました。
ラシードは苦しげに目を細めました。
「……怪我人を見るだけだ」
リリアが顔を上げました。
「はい」
「前線には出さない。魔物にも近づけない。瘴気の濃い場所にも行かせない。怪我人を見るとしても、アステル様が許可した範囲だけだ」
「分かりました」
「分かってない顔だな」
ラシードの声は、掠れていました。
それでも、リリアは目を逸らしませんでした。
「分かっています。だから、約束します」
その言葉に、ラシードは何も返せませんでした。
約束しても、リリアはきっと手を伸ばす。
目の前で苦しむ人がいれば、迷わず光を差し出す。
それが分かっているからこそ、止めたかった。
それでも、リリアのその在り方を、完全に折ることはできませんでした。
アステルが息を吐きました。
「まず、負傷者の状態を確認しましょう。リリア殿を動かすかどうかは、それから判断します」
リリアは小さく頷きました。
蒼月はリリアのそばに寄り添いました。
開きかけた希望の先に、また別の影が差し始めていました。
その夜、王宮では北方へ向かう部隊の準備が進められていきました。




