第六十六話 地下神殿 紡がれる願い十一
そうして、湖畔での一週間は過ぎていきました。
体調も少しずつ戻り、リリアの頬には以前よりも淡い血色が差すようになっていました。
名残惜しさを残しながらも、湖畔の小館での滞在は終わりを迎えます。
朝の光が湖面に揺れる中、リリアは小館を振り返りました。
白い砂浜も、花火の夜も、蛍の光も、湖の上で交わした何気ない言葉も、もう目の前にはありません。
けれど、胸の奥には確かに残っていました。
ラシードは馬車のそばで、リリアが振り返るのを黙って待っていました。
リリアは小さく息を吸い、それから前を向きました。
湖畔で受け取ったものを胸に抱いたまま、リリアたちは王都へ帰っていきました。
王都へ戻ってから、リリアは少しだけ暇をもてあましていました。
今は、蒼月と二人きりです。
「私、自分のためにも、みんなのためにも、もっと生きていたい」
「そして元気になって、いろんなことをしたいわ」
――……。
――すまない。
「蒼月を責めているのではないわ。それに、後悔もないのよ。本当に……」
「でも、こうなったとき、正直、私は半分諦めてしまっていたの」
蒼月が見つめたリリアは、泣き出しそうな顔ではありませんでした。
そこにあったのは、はっきりとした意思を宿した瞳でした。
あの男のおかげなのか……。
蒼月は、そう思いました。
リリアが、生きたいと言った。
前に進もうとしている。
そのことが、蒼月にはどうしようもなく嬉しかった。
けれど、その意思とは裏腹に、リリアの魂はさらに少しずつ弱っていました。
それは、魂の繋がりを持つ蒼月にしか分からないものなのかもしれません。
顔色でも、声でも、仕草でもありません。
もっと深い場所で、リリアを形づくっているものが、かすかに薄れていくような感覚でした。
確かに、リリアは前を向こうとしている。
それなのに、その魂だけが、静かに死の方へ引かれている。
蒼月は、何も言えませんでした。
リリアの瞳に宿った強い意思を前にして、その残酷な気配だけを、胸の奥で噛みしめていました。
その日の午後、アステルとラシードが部屋へ入ってくると、リリアの表情がふわりと明るくなりました。
その顔を見て、蒼月は初めて、その瞳から目をそらしました。
リリアが嬉しそうにしていることが、嫌だったのではありません。
むしろ、その幸せな時間を、もっと長くリリアに与えてやりたかったのです。
けれど、できない。
どれほど願っても、リリアの魂が弱っていく気配だけは、蒼月の中から消えてくれませんでした。
リリアが前を向けば向くほど、その命が削られていく現実が、いっそう残酷に胸へ迫ってくるのです。
それを、誰かに伝えるすべはありませんでした。
リリアには、あまりにも残酷すぎて伝えることができません。
ならば。
この男なら、分かるだろうか。
蒼月は、ラシードへ視線を向けました。
リリアの心を動かした男。
リリアが生きたいと口にするきっかけを、知らず与えた男。
言葉は届かない。
けれど、何かを察するだけの目を、この男は持っているのかもしれない。
その視線に、ラシードが気づかないはずがありませんでした。
「……なんだよ、蒼月」
いつものように軽く言った声でした。
けれど、その目は笑っていませんでした。
心の中で言葉にしてしまえば、それはリリアに届いてしまう。
リリアにだけは、聞かせてはならないことでした。
だから蒼月は、ただラシードを見つめました。
リリアを見て、それからもう一度、ラシードを見る。
そのわずかな動きに、ラシードの表情が変わりました。
「……リリアに、何かあるのか」
低く落とされた声に、リリアが不思議そうに顔を上げました。
「ラシード?」
「いや」
ラシードはすぐに、いつもの顔に戻しました。
「こいつが妙に睨んでくるからな。俺が何かしたかと思っただけだ」
「蒼月が?」
リリアが蒼月へ視線を向けると、蒼月は目を伏せました。
その姿は、いつもと変わらない蒼月に見えました。
けれどラシードだけは、その奥に沈んでいるものを見逃しませんでした。
アステルは二人の様子を一度だけ見比べてから、口を開きました。
「リリア殿。地下神殿の準備が、整いつつあります」
その言葉に、部屋の空気が変わりました。
「魔石には、受け入れられる限界近くまで魔力を満たしています。まだ完全ではありませんが、次の段階に入ることはできます」
リリアの指先が、膝の上で重なりました。
「次の段階、というのは……」
「魔石に満たした魔力を魔法陣へ通し、蒼月の鎖がどのように現れるかを確かめさせてください」
リリアは息をのみました。
「そのうえで、リリア殿に鎖へ触れていただきたいのです。鎖が魔法陣に応じるか、わずかでも緩むのかを確かめます」
リリアは、膝の上で重ねていた指先に、力を込めました。
「わかりました」
アステルは、静かに頷きました。
「ただし、今回はすべてを解こうとはしません。まずは一本だけです。陣がどこまで応じるか、蒼月にどれほど負担がかかるか、そしてリリア殿がどこまで耐えられるかを確かめます」
「では、明日リリア殿の体調が良ければ行います」
「はい」
アステルとラシードは、いったん部屋を下がりました。
廊下へ出ると、ラシードは「少し用がある」とアステルへ告げ、途中で別れました。
リリアの部屋から十分に離れたところで、ラシードは足を止めました。
「……蒼月、なんだ」
低い声が、静かな廊下に落ちました。
柱の影から、蒼月がゆっくりと現れました。
「俺に、何かあるのか」
蒼月は、ラシードを見つめていました。
――この男は、俺の気配を察するのか。
音など立てていません。
気配も、消していたはずでした。
それでも、ラシードは気づいた。
――やはり、この男に伝えるしか、ないのかもしれない。
ラシードの目から、いつもの軽さが消えました。
「リリアのことか」
蒼月は、目を伏せました。
それだけで、ラシードの顔色が変わりました。
「おまえが、わざわざ俺のところに来るということは……悪いことなんだな」
「リリアは、元気そうに見えて……よくないのだな?」
蒼月は、そうだというように、頭を下げました。
ラシードの拳が、壁を叩きました。
鈍い音が、廊下に短く響きます。
「くそ……」
誰に向けた怒りでもありませんでした。
ただ、胸の奥から押し上げてくるものを、そこにぶつけるしかなかったのです。
ラシードは息を押し殺し、もう一度蒼月を見ました。
「あと、どれくらいだ」
蒼月は、どう伝えたらいいか悩みました。
「一年か。二年か。それくらいはあるのか」
蒼月は、首を振りました。
ラシードの喉が、動きました。
「もっと短いのか」
蒼月は、もう一度首を振りました。
その動きに、ラシードの顔から血の気が引きました。
蒼月は、ゆっくりと前足を動かしました。
石の床に、爪先が細い音を立てます。
一本。
二本目は半分。
床に刻まれた二本の線を、ラシードは黙って見下ろしました。
「一年半、か」
蒼月は、頷きました。
ラシードは、奥歯を強く噛みしめました。
今のリリアは、一日の多くを眠って過ごしていました。
起き上がり、誰かと話し、笑い、外の光に触れていられる時間は、あまりにも短いのです。
そう考えた瞬間、胸の奥を乱暴に抉られたような痛みが走りました。
湖の上で見せた、少し困ったような顔。
自分を見た時に、ふわりと明るくなった表情。
そんなささやかな時間を、これから少しずつ増やしていけるはずだった。
それなのに、その未来には、すでに残酷な期限が刻まれている。
ラシードは息を吐こうとして、うまく吐けませんでした。
喉の奥に熱いものが詰まり、拳を握る指先だけが、かすかに震えていました。
「……リリアは、知らないんだな」
蒼月は俯きました。
そして、リリアの部屋がある方へ、視線を向けました。
それだけで、ラシードには分かりました。
言えるはずがない。
あの娘は、今もその限りを知らずにいるのです。
ラシードは、壁についた拳をゆっくりと下ろしました。
「分かった」
低く、押し殺した声でした。
「リリアの前では、知らないふりをする」
蒼月が、ラシードを見ました。
「だが、諦める気はねぇ」
その目に、湖畔で見せた柔らかさはありませんでした。
「一年以上あるなら、なおさらだ」
ラシードは、蒼月をまっすぐに見据えました。
「その間に、必ず助ける方法を探す。おまえの鎖も、リリアの魂も、まとめて引き戻す」
蒼月は、じっとラシードを見つめました。
言葉は交わせない。
それでも、その時だけは、確かに伝わった気がしました。
リリアを失わせない。
その一点だけは、この男も同じなのだと。




