第六十五話 地下神殿 紡がれる願い十
湖畔の小館で過ごす日々は、穏やかに過ぎていきました。
春の陽はやわらかく、湖の水面は朝ごとに違う光を返します。
リリアは母と食卓を囲み、昼には小館の庭を歩き、夕暮れには蒼月と湖畔へ出ました。
まだ長く歩けば疲れは出ます。
それでも、離宮の寝台で眠っていたころとは違い、頬には少しずつ血色が戻っていました。
ラシードは、いつものように優しく接してくれていました。
リリアが疲れれば椅子を引き、母が笑えばそれに合わせて肩をすくめます。
けれど、ふとした沈黙の奥に、あの言葉だけは残っていました。
リリアもまた、その言葉を忘れてはいませんでした。
蒼月は、そんなリリアのそばに寄り添っていました。
――リリア。あいつと一緒になるのか。
蒼月の声が、胸の奥へ届きました。
リリアは湖面に残る淡い光を見つめたまま、小さく息を吸いました。
「……まだ、分からないわ」
その声は、春の夜風に溶けてしまいそうなほど静かでした。
「いつまで生きられるのかも、分からないもの。おそらく、そう長くはないわ」
リリアは胸の前で、手を重ねました。
「そんな私の残りの時間を、ラシードに背負わせていいのかも分からない」
蒼月は黙ってリリアの話を聞いていました。
「私がいなくなった後のことを考えると……あの人は、とても悲しむと思うの」
言葉にした瞬間、胸の奥が小さく痛みました。
「私のせいで、あの人の未来を奪っていいのかも分からない」
――リリア。
蒼月の声は、湖の夜よりも静かでした。
――あいつが言っていたではないか。
リリアはゆっくりと蒼月を見ました。
――相手がどう思うかばかり考える前に、おまえがどうしたいのかを考えろ。
リリアの瞳が、揺れました。
――おまえが望むのなら、望めばいい。
蒼月は尾を揺らしました。
――誰かの未来を奪うのではない。おまえの未来に、誰かを入れるだけだ。
リリアは蒼月の毛並みに指先を触れたまま、目を伏せました。
「蒼月は、どう思う?」
蒼月はすぐには答えませんでした。
湖を渡る風が、銀の毛並みを揺らします。
――リリアは、あいつを好きなのか。
リリアの頬が、少しだけ赤くなりました。
蒼月はリリアを見つめていました。
リリアの心の奥にあるものを、確かめるような瞳でした。
――それは、おまえが決めればいい。
リリアは顔を上げました。
――俺は、おまえが幸せならいい。
その言葉は、思っていたよりも静かでした。
胸の奥に隠しきれない痛みがあることを、リリアは知っています。
それでも蒼月は、その痛みをリリアへ向けようとはしませんでした。
リリアがどんな未来を選ぶとしても、その先で笑えるのなら、それでいい。
そう言うように、蒼月はただ、リリアのそばにいました。
――ただ、最後まで俺はリリアのそばにいて守る。
リリアの指先が、銀の毛並みを握りました。
「……ありがとう」
蒼月は少しだけ目を細めました。
――あいつがリリアを泣かせたら、殺してもいいか。
「それはだめよ。絶対にだめ」
リリアはすぐに首を振りました。
――……そうか。
少し残念そうな声に、リリアは困ったように眉を下げました。
「ラシードからは、返しきれないほど、たくさんのまごころをもらったわ。異国に来て、慣れない土地にいても、ラシードはいつも私のことを考えてくれているわ。だから、本当に感謝しているの」
「それに、私のために、蒼月が人を傷つけるところは見たくないわ」
蒼月は黙って、リリアを見つめていました。
――分かった。
短い声が、リリアの胸の奥に届きました。
――おまえが嫌がることはしない。
リリアは、ほっとしたように息を吐きました。
「ありがとう、蒼月」
リリアはその毛並みに指先を沈め、湖の方へ視線を向けます。
胸に残るものは、すぐに答えを出せるものばかりではありませんでした。
けれど、急いで形にしなければ消えてしまうものでもありません。
リリアはそれを、少しずつ自分の中で抱きしめていけばいいのだと思いました。
蒼月が、尾を揺らします。
――リリア。
「なあに?」
――泣くな。
リリアは少しだけ驚いて、それから小さく笑いました。
「まだ泣いていないわ」
――これから泣きそうな顔をしていた。
「……蒼月には、隠せないのね」
――当たり前だ。
その返事があまりに当然のようで、リリアはもう一度笑いました。
湖を渡る風が、二人の間を通り抜けていきます。
遠くから、砂浜を踏む足音が近づいてきました。
リリアが顔を上げると、ラシードが湖畔を歩いてくるところでした。
あの夜、ラシードの気持ちを聞いてから、リリアは以前よりも彼の姿を意識してしまうようになっていました。
陽の光を受けた髪は、金色の中に淡い緑を帯びて見えます。
薄いエメラルドを思わせる瞳と、砂漠の陽に焼けた褐色の肌。
長身の彼が湖畔を歩いてくるだけで、まるで水面の光まで少し明るくなるようでした。
これほどの見た目をしていて、あの性格なのです。
それを考えると、リリアは思わず頬を赤らめました。
ラシードはリリアの前まで来ると、すぐに手を伸ばすのではなく、まず蒼月へ視線を向けました。
「少し、リリアを借りてもいいか」
蒼月はラシードを見上げました。
その瞳には、簡単には譲らないという色が残っています。
けれど、以前のような鋭い拒絶ではありませんでした。
――少しだけだ。
リリアの胸の奥に、低い声が届きました。
思わずリリアが笑みをこぼすと、ラシードはその表情だけで何かを察したように、片眉を上げます。
「許可は出たか」
「……たぶん」
「たぶんか。厳しいな」
ラシードは苦笑しながら、リリアへ両腕を差し出しました。
「リリア、おいで」
その声は、いつもの軽さを少しだけ含んでいました。
リリアが戸惑う間もなく、ラシードはふわりとリリアを抱き上げます。
足元が浮き、湖の光が少し高い場所から広がりました。
「ラシード、自分で歩けます」
「知っている」
ラシードは平然と答えました。
「だが、今日は俺が運ぶ」
リリアは戸惑ったような顔をしましたが、胸の奥には、不思議なほど穏やかな温かさが広がっていきました。
蒼月は二人のそばをゆっくりと歩き出します。
その尾が、砂浜の上で揺れていました。
「ボートに乗ろう」
ラシードがそう言って向かった先には、小さな桟橋がありました。
その先に、美しい船が一艘、揺れています。
白い木肌に淡い金の縁取りが施され、座席には柔らかな布が敷かれていました。
そして、リリアが怖がらずに乗れるように、細かなところまで整えられているのが分かりました。
「これも……用意してくださったのですか」
「湖まで来て、眺めるだけじゃもったいないだろ」
ラシードはそう言って、リリアを船へ乗せました。
揺れを感じた瞬間、蒼月が低く身を寄せます。
リリアはその毛並みに一度だけ触れました。
「大丈夫よ、蒼月」
――本当にか。
「本当よ」
蒼月はしばらく船を見つめていましたが、やがて岸辺に腰を下ろしました。
その姿は、まるで湖そのものを見張っているようでした。
「じゃあな、蒼月」
ラシードが軽く笑いかけました。
「行ってくるわ、蒼月。待っていてね」
ラシードは櫂を手に取り、水を押します。
船は音もなく岸を離れました。
湖の上は、思っていたよりも静かでした。
岸辺で聞いていた水音は遠ざかり、かわりに、櫂が水を掻くやわらかな音だけが耳に届きます。
春の光は水面で細かくほどけ、きらきらと揺れながら船の縁へ寄せてきました。
リリアは思わず身を乗り出し、湖を見つめます。
「綺麗……」
指先を水面へ下ろすと、冷たい水が白い指を包みました。
その小さな触れ方だけで、湖面に波紋が広がっていきます。
一つの円が生まれ、また次の円へ重なり、光を乗せたまま美しい弧を描いて遠ざかっていきました。
リリアはその波紋を、息を詰めるように見つめました。
水面から指先を上げると、雫が落ちていきます。
「まるで、光に触れているみたいです」
ラシードは櫂を動かす手を少しだけ緩めました。
その横顔に、穏やかな笑みが浮かびます。
やがて船は、湖の真ん中あたりで止まりました。
周囲には、水と光だけが広がっています。
岸辺の小館も、蒼月の銀の姿も、少し遠くに見えました。
けれど、不安はありませんでした。
ラシードは櫂を置き、向かい側ではなく、リリアの少しそばへ腰を下ろしました。
船が小さく揺れます。
その揺れさえ、今は怖いものではありません。
「ここで昼にしよう」
「ここで、ですか」
リリアが目を丸くすると、ラシードは得意げに口元を上げました。
「せっかくなら、湖の真ん中で食べる方がいいだろ」
そう言って、足元に置かれていた籠を引き寄せます。
中には、小さく包まれたパンや果物、冷めてもおいしく食べられる肉料理、香草を挟んだ薄い焼き菓子が丁寧に詰められていました。
銀の小さな器には、淡い色の果実水まで用意されています。
リリアは言葉を失い、ただ籠の中を見つめました。
「……本当に、全部用意してくださっていたのですね」
「当たり前だ」
ラシードは何でもないことのように言いました。
「リリアには、俺が与えられる全てをあげたい」
その言葉に、リリアは目を伏せました。
胸の奥で、昨夜の言葉がまた揺れます。
ラシードは果実水の入った器を差し出し、いつものように少しだけ笑います。
「まずは飲め。湖に見とれて、昼飯の前に倒れられたら困る」
「倒れません」
「そう言うやつほど危ない」
リリアは小さく笑い、器を受け取りました。
昼食を終えるころには、湖の上を渡る風が少しだけやわらかくなっていました。
小さな籠の中には、食べ終えた包み紙と、半分ほど残った果実水の瓶だけが残っています。
リリアは膝の上で器を両手に包み、水面へ視線を落としていました。
湖は変わらず光を散らし、船の揺れに合わせて、細かな波が幾重にも重なっていきます。
ラシードは籠を片づけようとして、リリアのそばへ手を伸ばしました。
その指先が、偶然、リリアの指に触れます。
ほんのかすかな触れ方でした。
リリアは息を呑み、器を握る指先に力を込めます。
ラシードは一度だけ目を伏せると、リリアが持っていた器を受け取り、そばの台に置きました。
それから、リリアの手を取り、壊れものを扱うように引き寄せます。
ためらいを残した腕が、リリアをやわらかく包み込みました。
リリアの頬が、ラシードの胸元に触れます。
「ラシード……」
「このままだ」
ラシードの声は低く、耳元に落ちました。
一度言葉を切ってから、彼はさらに小さく続けます。
「嫌なら、すぐやめる」
リリアは、ラシードの胸元で小さく首を振りました。
自分の耳まで赤くなっているのが分かります。
蒼月とは違う、人の体温。
腕の中で感じるその温かさは、思っていたよりもずっと穏やかで、心地よいものでした。
ラシードからは、砂漠の乾いた匂いと、かすかな香の気配がしました。
ラシードはそのまま、リリアに口づけしそうになるのをぐっとこらえました。
――リリア、無防備すぎるぞ……
甘い言葉も、距離の詰め方も、相手を喜ばせるタイミングも、これまで迷ったことなど一度もありません。
女の側から言い寄られることの方が、むしろ多かったくらいです。
それなのに、目の前のリリアには、そのどれも通用しませんでした。
――俺は、何をしているんだ。
どう触れれば、彼女を壊さずにいられるのか。
そればかりを、考えてしまう。
「悪い」
ラシードは低く言うと、名残を断ち切るように腕をほどき、リリアを元の場所へ戻しました。
「……嫌では、ありませんでした」
リリアは俯いたまま、小さく言いました。
「だから、謝らないでください」
――リリア、かわいすぎるだろ。
ラシードは思わず息を止め、もう一度抱きしめたくなる衝動を押し殺しました。
リリアの答えを待つと決めたのです。
急がせないと決めたのも、自分自身でした。
それなのに、このままでは理性が追いつかないかもしれない。
そう思った瞬間、彼は自分を戒めるように小さく首を振りました。
――本当に、どうしようもねぇな。
誰の前でも余裕を失わなかったはずの自分が、こんなにも動けなくなる。
けれど不思議と、その情けなさを嫌だとは思いませんでした。
触れたいと思うたびに、それ以上に大切にしたいと願ってしまう。
その感情だけが、湖の光よりもずっと眩しく、ラシードの胸の奥に残っていました。




