第六十四話 地下神殿 紡がれる願い九
湖畔の小館で春の夜が更けていたころ、離宮の地下では、まったく別の光が眠りから呼び起こされようとしていました。
地下神殿の空気は昼間よりも冷たく、石壁に染み込んだ古い魔力が、薄い霧のように床を這っています。
魔法陣の中央には、ラシードがサハルディアから持ち帰った魔石がはめ込まれていました。
アステルはその前に立ち、しばらく黙って魔法陣を見下ろしていました。
傍らの台には、白い布で作られた小さな人形が置かれていました。
ただし、その胸元には、アステル自身が仮に施した細い呪いが絡められています。
「……本物には、遠く及ばぬものだが」
アステルは低く呟きました。
「それでも、陣が何をするのかを見るには足りるはずだ」
そばに控えていた星術師が、緊張した面持ちで頷きました。
アステルは人形を両手で取り上げると、魔法陣の中央へ静かに置きました。
その胸元に絡められた呪いは、肉眼ではほとんど見えません。
けれど、魔力を読む者の目には、細く黒ずんだ糸のように映っていました。
そして、リリアから伝えられた古い言葉を、ゆっくりと発しました。
「大地の女神よ。月の光を受けし水よ。我が名を呼ぶ者の声を聞け。その絆に応じ、魂を縛る古き鎖を緩めたまえ」
声は、石室に広がりました。
魔石が光り、中央から魔法陣の線へ光が走ります。
人形の胸元から、黒い糸のようなものが浮かび上がりました。
人形へ絡められていた呪いそのものが、目に見える形を得て、魔法陣の光の中に引き出されていきます。
「……続ける」
アステルは告げました。
黒い糸は、人形の胸元からほどけることなく、ゆっくりと空中へ伸びています。
まるで見えない手に引き出されるように、呪いの輪郭だけが光の中へさらされていきました。
アステルは右手を上げました。
指先には、防護の術式を重ねています。
いかに自分が施した浅い呪いとはいえ、呪いそのものへ直接触れる行為に変わりはありません。
一歩誤れば、逆流する可能性もありました。
星術師が思わず身を乗り出します。
「アステル様」
「下がっていなさい」
アステルの声は穏やかでしたが、拒む余地はありませんでした。
星術師は唇を引き結び、指示通り半歩下がりました。
魔法陣の光を見つめたまま、アステルは浮かび上がった黒い糸へ指先を近づけます。
触れた黒い糸を、慎重に引きます。
絡み合っていた呪いの筋が緩み、糸はするりと抜けました。
その瞬間、魔法陣の光が一段と強まります。
人形の胸元に沈んでいた黒ずみが薄れていきました。
魔法陣の線を流れる銀の光が、ほどけた呪いを包み、静かに吸い上げるように消していきます。
やがて、黒い糸は完全に見えなくなりました。
星術師が震える声で言いました。
「……解けた、のですか」
すぐには、答えませんでした。
指先に残った冷たさを確かめるように、ゆっくりと手を握ります。
人形に施した封じの術式は、完全に消えていました。
「解けた」
短い言葉が、石の広間に落ちました。
浅い呪いであれば、ほどくことができる。
けれど、蒼月を縛るものは、こんな薄い糸ではありません。
魂に絡みつき、姿を変え、なお消えずに残り続けた鎖です。
同じ手順で触れれば済むなどと、軽々しく考えてよいものではありませんでした。
「記録を」
アステルは低く言いました。
「はい」
星術師が慌てて筆を取りました。
この陣が呪いをほどくものであることは、確かめられました。
あとは、慎重に試すしかありません。
アステルは、魔法陣の中央に横たわる白い人形を見つめました。
解かれた呪いの跡は、もうどこにも残っていません。
けれど、黒い糸が光の中でほどけていった瞬間だけは、確かに目に焼き付いていました。
「魔石に魔力を満たします」
アステルは言いました。
「受け入れられる限界まで。次に試す時、途中で力が途切れることだけは避けなければなりません」
星術師は深く頷きました。
「ただちに準備いたします」
地下神殿の冷たい空気の中で、星術師たちが動き始めました。
魔法陣の中央にある魔石へ、淡い光が少しずつ注がれていきます。
眠っていた石の奥に、ゆっくりと力が満ちていきました。
――――――――――――
ラシードがリリアへ思いを告げた翌日、二人は湖のほとりをゆっくりと歩いていました。
少し後ろを、蒼月がついてきています。
どこまでも澄んだ水面が空を映し、風が吹くたびに、光だけが細かく揺れていました。
リリアは湖の水面を見つめながら、少しずつ話し始めました。
「ローゼンの町では、薬草を摘んで暮らしていました」
「森へ入って、薬草を探して……その途中で、蒼月と出会ったのです」
少し後ろを歩いていた蒼月が、耳を動かしました。
ラシードは口を挟まず、リリアの隣を歩いていました。
「その頃の私は、自分に特別な力があるなんて、少しも知りませんでした」
リリアの声が、ほんの少しだけ小さくなりました。
「けれど、ある日、ローゼンの町を魔物が襲いました」
湖の対岸で、小鳥が一羽、飛び立ちました。
「蒼月が傷ついて、蒼月を失いたくないと思った時、私の中で浄化の力が目覚めたのです」
ラシードは、ただリリアを見ました。
「でも、最初は……それが何なのか分かりませんでした」
リリアは水面へ視線を落としました。
「そのあと、蒼月と一緒に森の浄化を行いました。それがきっかけで、私は王都へ呼ばれたのです」
ラシードは黙って聞いていました。
少し後ろで、蒼月も足を止めます。
「最初の任務は、隣国との境目にある街でした」
リリアの声が、ほんの少しだけ沈みました。
「その時に、兵士の方が魔物に変わってしまって……私は、その方を浄化しました」
しばらくの間、二人の足音だけが、湖畔に響いていました。
「けれど、あの時の私は、それが浄化なのか、消してしまったのかも分かりませんでした」
リリアは胸の前で、そっと指を重ねました。
「人だった方を、自分の手で消してしまったのではないかと……怖かったのです」
ラシードはすぐには何も言わず、リリアの横顔を見つめていました。
「リリア。そういう辛さも怖さも、今度は俺にも少し分けて欲しい」
リリアが、ゆっくりとラシードを見ました。
「一人で平気な顔をして立っているな。俺は、リリアが強いからそばにいたいわけじゃない」
ラシードの声は、湖の風に溶けるように静かでした。
「もし、俺への返事のことを気にしているなら、今は考えなくていい」
リリアの瞳が、揺れました。
「一人の友人としてでもいい。これからは、もっと甘えろ。もっと頼れ」
ラシードは少しだけ目を細めました。
「俺は、そのくらいでリリアのそばを離れたりしない」
リリアは小さく頷きました。
「はい」
リリアは一度、湖面へ視線を落としました。
「そして、公爵となったのは、その街で私が誘拐されそうになったことがきっかけでした」
ラシードは黙ったまま、リリアの声を聞いていました。
「だから、私はラシードが思っているような、生まれながらの貴族でも、ずっとその立場にいた公爵でもないのです」
「そのために、今の父さまの養女となりました」
リリアは一度、言葉を切りました。
「それは、ちゃんと伝えなければならないと思いました」
リリアが、少しだけ不安そうにラシードを見上げます。
風が湖面を渡り、リリアの髪をかすかに揺らしました。
蒼月が、足を止めました。
ラシードは、リリアの手を引き寄せると、その小さな身体を自分の胸に抱きしめました。
ふわりと、砂漠の夜を思わせるような彼の香りと、確かな熱がリリアを包み込みます。
「それよりも、怖かっただろう」
リリアの肩が、揺れました。
ラシードはそれ以上、誘拐の時に何があったのかを尋ねませんでした。
聞かなくても、想像はつきました。
人をさらう者が、どんな目で相手を見るのか。
どんな言葉で怯えさせ、どんな手で逃げ道を塞ぐのか。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たいものが走りました。
その場にいれば、二度とリリアに近づけないようにしていただろう。
そう考えた自分を、ラシードは押し殺しました。
耳元に落ちるラシードの声は、どこまでも優しく、穏やかでした。
「それに、俺が見ているのは、貴族や公爵という立場のリリアじゃない」
「薬草を摘んで、森で蒼月と出会って、怖い思いをして、それでもここまで歩いてきたリリアだ」
ラシードは腕に少しだけ力を込めました。
「それだけは、覚えておいてほしい」
ラシードは、リリアを抱きしめたまま、少しだけ息を吐きました。
「俺が、そんな小さい男に見えるか?」
リリアが、顔を上げました。
ラシードはその視線を受け止め、今度は言いました。
「俺は、リリアの全部を受け止めたいと思っている」
王都で公爵となったリリアしか知らなかったラシードにとって、その話は、リリアがここへ至るまでに歩いてきた道そのものでした。
話を聞くほどに、グランヴァルドの者たちが、ただ浄化の力を持つ存在としてリリアを見ていたわけではないことも分かっていきました。
アレクシス王も、ヴィクトリア王妃も、ハインリヒも、アステルも、セシリアも、皆がそれぞれの形でリリアを守ろうとしてきた。
だからこそ、公爵という立場を与えられた経緯を知っても、ラシードの中のリリアは何も変わりませんでした。
湖畔の光が、ラシードとリリアと蒼月を優しく包んでいきました。




