第六十三話 地下神殿 紡がれる願い八
湖に着いた翌朝は、雨が降っていました。
朝露と細かな雨に濡れた草葉は、淡い銀色を帯び、湖畔の小館の窓辺には、静かな水音だけが届いています。
湖面に落ちる雨粒が細かく跳ね、薄い雲をほどいたような水煙が、湖の上を漂っていました。
リリアはその様子を、窓から見ていました。
ラシードはリリアの後ろに立ち、同じように雨の湖へ目を向けました。
「雨の湖も、綺麗だな」
「ええ。とても幻想的です」
昨日見た湖とは違う景色でした。
空を映していた水面は、今は雨に霞み、遠くの木々も薄い灰色の中に溶けています。
けれど、その静けさは寂しいものではありませんでした。
「晴れている時だけが、綺麗なわけではないのですね」
リリアが小さく呟くと、ラシードは少しだけ目を細めました。
「そうだな」
その声は、いつもより柔らかいものでした。
蒼月は、そんな二人を少し後ろから見つめていました。
すると、リリアが窓辺から振り返りました。
「蒼月も、こちらへ来て」
当たり前のように呼ばれたその声に、蒼月は耳を動かしました。
それからゆっくりと歩み寄り、リリアのそばに身を寄せます。
リリアは微笑み、蒼月の銀の毛並みに指を沈めました。
夕刻には雨が上がり、夜になると、春の風は昼間より少し冷たく、湖の上には淡い月の光が落ちていました。
リリアは、湖に浮かぶ月をもっと近くで見たくなり、外に出ました。
蒼月はすぐに気づき、リリアのそばへ寄り添います。
そして、彼女の歩みに合わせるように、湖畔の砂地へ向かいました。
少し遅れて、ラシードも後ろから追ってきました。
「冷えるぞ」
その声に、リリアは振り返りました。
「少しだけです。月が湖に映っていて、とても綺麗だったので」
「なら、もう一つ見せてやる」
リリアは瞬きをしました。
「もう一つ、ですか」
ラシードは少しだけ口元を緩めました。
「年明けに、見られなかったものがあるだろう」
ラシードは湖の向こうへ視線を向けました。
「上げろ」
短い合図のあと、湖の向こう岸で小さな光が走りました。
次の瞬間、夜空に一輪の花が開きます。
淡い金色の光が空に咲き、少し遅れて、低くやわらかな音が湖面を渡ってきました。
リリアは息を呑みました。
「わあ、花火……。きれい」
夜空に咲いた光は、湖の水面にも映っていました。
空に一つ。水の中に、もう一つ。
冬のあいだ、リリアは長い療養の中にいました。
新しい年を告げる音が遠く響いた夜も、起き上がって空を見ることはできなかったのです。
リリアは湖畔に立ったまま、揺れる光を見つめました。
「すごい……。空にも湖にも、花火が咲いているみたいです」
金色の花は、雨上がりの澄んだ夜気の中でゆっくりとほどけ、湖面に映った光もまた、波に揺られながら淡く崩れていきました。
ラシードは、そんなリリアの横顔を見つめていました。
何かを言いかけて、けれど言葉にするのをやめるように、口元を緩めます。
「二十一の春だな、リリア」
ラシードは言いました。
「ラシード……」
「年明けに、ちゃんと祝ってやれなかった」
ラシードは湖へ視線を向けたまま、少しだけ声を落としました。
「だから、ここで見せることにした」
「ありがとうございます。とってもきれい」
リリアは瞳に花火の光を映したまま、ふとラシードを見上げました。
「ラシードは、今年いくつになったのですか」
思いがけない問いに、ラシードは目を瞬かせました。
「俺は二十五だ」
「では、ラシードの二十五のお祝いも、ここで一緒にできますね」
リリアはラシードを見つめて、やわらかく微笑みました。
ラシードは一瞬、言葉を失ったようにリリアを見ました。
それから、照れを隠すように小さく息を吐きます。
「……リリアは、本当にそういうところがあるな」
「そういうところ、ですか」
「ああ」
ラシードは湖面に映る花火へ視線を戻しました。
「俺は、リリアのために用意したのだ」
リリアは首を横へ振りました。
「でも、私も祝いたいです」
その言葉に、ラシードの横顔がほんの少しやわらぎました。
夜空に、また一つ花火が咲きました。
その光が湖面に映り、二人の間に淡く揺れます。
やがて、湖畔の草の間に、小さな光が一つ灯りました。
淡く、やわらかく、息をするように揺れる光。
一つ、また一つと、湖へ流れ込む小川のほとりに光が増えていきます。
「……蛍?」
リリアが小さく呟きました。
「国境近くの暖かい水辺では、もう舞い始めていると聞いてな」
ラシードは何でもないことのように言いました。
「この小川のほとりを整えさせた。ここなら、少しの間は飛べる」
リリアは驚いたようにラシードを見ました。
「そこまで……」
「ああ」
ラシードは短く答えました。
蛍の光が、白い砂浜の上をゆっくりと流れていきました。
夜空には花火が咲き、湖面にはその光が映り、足元には蛍が淡く瞬いています。
それは、リリアが見られなかった冬と、まだ少し早い夏と、今ここにある春が、重なったような景色でした。
ラシードは足元を流れる小さな光へ視線を落とすと、そっと片膝をつきました。
両手で包み込むようにして、草の間にとまっていた蛍を一匹、傷つけないようにすくい上げます。
「リリア」
呼ばれて、リリアはラシードの手元を覗き込みました。
「見てみろ」
ラシードが少しだけ指を開くと、その隙間から淡い光がこぼれました。
小さな蛍が、彼の掌の中で瞬いています。
「……こんなに近くで見るのは、初めてです」
「綺麗だろ。近くで見ると、また違う」
ラシードはそう言いながらも、蛍を閉じ込めすぎないよう、指の間にそっと隙間を作っていました。
それは、胸の奥に直接ともるような、やわらかな明かりでした。
リリアはおそるおそる手を差し出しました。
「触れても、平気でしょうか」
「強く触れなければな」
ラシードは蛍をリリアの掌へ移しました。
小さな光が、リリアの白い指先の上でふわりと揺れます。
くすぐったいほど軽い足取りで、蛍はリリアの掌を少しだけ歩きました。
「かわいい……」
リリアは声をひそめるように呟きました。
その瞳には、花火の名残と蛍の光が重なって揺れています。
やがて蛍は、リリアの指先からふわりと飛び立ちました。
淡い光は春の夜風に乗り、湖畔の草の間へ戻っていきます。
リリアはその光を見送りながら、名残惜しそうに微笑みました。
「行ってしまいました」
「また戻ってくるかもしれない」
ラシードは言いました。
「ここは、そういう場所にした」
リリアは驚いたようにラシードを見上げました。
ラシードは少しだけ照れたように、湖へ視線を逃がします。
「リリアが来たくなった時に、花も、光も、水の音もあるようにしておきたかった」
その言葉に、リリアは胸の奥がゆっくりと満たされていくのを感じていました。
リリアの瞳に、花火の光が揺れます。
「ラシード……」
ラシードは、リリアの名を呼ぶ前に一度だけ息を吐きました。
「リリア、今はこんなことを言う時ではないのかもしれない」
その声は、湖の夜に低く響きました。
「自分勝手なのかもしれない…。でも言わせてくれ。リリアに残された時間が、どれだけあるのかは分からない」
リリアの胸が、小さく震えました。
蒼月が顔を上げます。
「だが、その時間を、捧げるためだけに使い切るな」
ラシードは、まっすぐにリリアを見つめました。
「蒼月のことも、呪いのことも、瘴気のことも、全部分かっている」
リリアは何も言えませんでした。
「それでも、リリア自身の幸せの中に、俺を入れて欲しい」
花火の光が、ラシードの横顔を一瞬だけ照らしました。
「リリアの残りの人生を、俺にくれないか」
リリアの指先が、震えました。
「俺が、リリアを幸せにしたい」
その言葉は、強引なようでいて、祈りのようでもありました。
蛍の淡い光が、二人の間をゆっくりと流れていきます。
リリアは胸の前で手を握りました。
嬉しくないはずがありません。
けれど、その言葉があまりに大切なものだったからこそ、簡単に頷くことはできませんでした。
「……考えさせてください」
リリアは、ようやくそれだけを言いました。
「ラシードの言葉が嬉しくないわけではありません。ただ、大切なことだから……ちゃんと考えて、お返事をしたいのです」
ラシードはしばらくリリアを見つめていました。
それから、ふっと小さく笑いました。
「それでいい」
その声は、驚くほど優しいものでした。
「待つくらいはできる。俺は、勝手に先へ行ったりしない」
ラシードはそう言うと、リリアを引き寄せました。
リリアの背へ回された腕には、ためらいながらも離したくないという強い想いがこもっています。
リリアは一瞬だけ息を止め、それから、ゆっくりと頷きました。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
ラシードの声が、リリアの耳元で低く落ちました。
「俺が勝手に、リリアを幸せにしたいと思っただけだ」
ラシードは、リリアに愛しているとは言えませんでした。
言いたかった。
今すぐ、その言葉を渡してしまいたかった。
けれど、その一言は、リリアを縛ってしまうのではないかと思ったのです。
残された時間がどれほどあるのか分からないリリアに、返事を迫るような言葉を置きたくはありませんでした。
だから、その言葉だけを胸の奥に押し込めました。
愛している。
そう言う代わりに、幸せにしたいと言った。
それが今のラシードに許された、精一杯の本音でした。
蒼月は、二人のそばで佇み、その会話に耳を傾けていました。
夜空に咲く花火も、湖畔に舞う蛍も、ラシードがリリアのために用意した景色です。
獣の身である自分には、それをしてやることができません。
けれど、胸の奥に残っていたかすかな痛みは、静かな願いへと形を変えていきました。
リリアが幸せになってくれればいい。
ただその願いだけが、蒼月の中へ深く沈んでいきます。
リリアの瞳には、確かに光が宿っていました。
蒼月は、その光を曇らせたくありませんでした。
そう思うように、リリアへ身を寄せます。
リリアはその気配に気づき、銀の毛並みに指先を触れました。
湖の上では、花火の名残が淡く消えていきます。
足元では、蛍が春の夜に小さな光を灯していました。
リリアはその光の中で、胸に受け取った言葉を、壊さないように抱きしめていました。
ラシードの言葉が、まだ胸の奥で響いています。
――残りの人生を、俺にくれないか。
怖いほど真っ直ぐで、けれど不思議なほど温かい響きでした。
これまでのリリアは、自分に残された時間を考えることが怖かったのです。
明日も目を覚ませるのだろうか。
次の春を無事に迎えられるのだろうか。
そんなことを考え始めれば、胸の奥が冷たく沈んでしまうから。
けれど、ラシードは違いました。
彼はその時間を、ただの「終わり」として見ているのではありません。
限られているかもしれないからこそ、その中に確かな幸せを置こうとしてくれている。
誰かのために使い切るだけではなく、自分のために笑う時間を持てと、そう言ってくれている。
その真っ直ぐな想いが、リリアには苦しいほどに嬉しかったのです。
蒼月の呪いを解きたい。
それは、リリアの変わらない願いでした。
瘴気に苦しむ人々を助けたい。
それも、決して手放せない大切な思い。
けれど――そのすべての中に、自分自身の幸せを混ぜ合わせてもいいのだろうか。
ラシードの隣で、一人の娘として笑う未来を望んでもいいのだろうか。
すぐには、答えなど出せるはずもありませんでした。
胸の奥には確かに、小さな光が灯っています。
それはさっき見た蛍の光よりも淡く、夜空を彩った花火の光よりも静かなものです。
それでも、決して消したくないと願ってしまうほど、愛おしく大切な光でした。
リリアは顔を上げました。
そばにはラシードの整った顔が見えました。
花火は終わり、湖の水面には月明かりだけが輝いていました。
けれど、空と水のあいだに生まれたあの夢のような景色は、今も鮮やかに胸の内に焼き付いています。
ラシードが見せてくれた、夜を照らす光。
蒼月が隣で寄り添い、見守ってくれた静けさ。
そして昼間、母がくれた、娘でいていいという言葉。
そのすべてがリリアの中でゆっくりと重なり、一つの確かな感情を結んでいきます。
――私は、生きたい。
ふいに、そんな強い思いが胸の奥底から浮かび上がってきました。
誰かを救うためだけの存在としてではなく。
ただ、もう一度この美しい湖を見たいと願う、自分のために。
母とまた温かな食卓を囲みたいと願う、自分のために。
ラシードの真摯な言葉に、ちゃんと向き合って答えたいと思う、自分のために。
そして、大好きな蒼月と一緒に、まだ見ぬ次の季節を迎えたいと願う、自分自身のために。
春の夜風が湖面を渡り、蛍の光が闇の中で揺れます。
リリアはその儚くも温かい光を見つめながら、胸の奥で呟きました。
――もう少しだけ、この世界の先を見てみたい。




