第六十二話 地下神殿 紡がれる願い七
春の木漏れ日の中、リリアたちは湖へたどり着きました。
馬車の窓から差し込んでいた光はやわらかく、長い冬を越えたばかりの空気には、淡い草の匂いが混じっています。
湖畔には、リリアのために建てられた小さな小館が佇んでいました。
母とセシリアは、少し離れた場所で荷を整えています。
ラシードは馬車の扉を開け、先に外へ降りると、リリアへ手を差し出しました。
「着いたぞ、リリア」
リリアはその手にそっと指を重ね、馬車を降りました。
その瞬間、視界いっぱいに光が広がりました。
目の前にある湖は、思っていたよりもずっと大きなものでした。
白い砂浜に囲まれた水辺は、向こう岸が見えないほど遠くまで続き、春の空をそのまま映したように青く澄んでいます。
風が吹くたび、水面には細かな光が散り、まるで空の欠片が揺れているようでした。
「……すごい」
リリアは小さく息を呑みました。
「本当に、空が映っているのですね」
ラシードはリリアの横顔を見て、少しだけ口元を緩めました。
「この湖は、少し海の景色に近いな」
「そうなのですか」
リリアは驚いたようにラシードを見上げました。
それから、もう一度湖へ視線を戻します。
翡翠の瞳が、春の光を受けて明るく揺れました。
「嬉しいです。すごく綺麗……」
リリアはそばに立つ蒼月へ顔を向けました。
「ねえ、蒼月。砂が白いわ。さらさらしていそう」
蒼月は湖畔へ視線を向けました。
銀の毛並みが風に揺れ、蒼い瞳が水面の光を映しています。
ラシードはリリアの足元を見て、ふっと笑いました。
「よし。リリア、靴を脱げ」
「え?」
リリアが瞬きをするより早く、ラシードはひょいとリリアを抱き上げ、片肩に担ぐようにして足を浮かせました。
「ラ、ラシード」
「そのまま砂の上を歩いたら、せっかくの感触が分からないだろう」
「自分で脱げます」
「いいから、いいから」
ラシードは当然のようにそう言うと、リリアを片腕で支えたまま、器用に靴を脱がせ始めました。
リリアは慌ててラシードの肩に手を置きます。
頬が少し赤くなっていましたが、ラシードは気にした様子もありません。
「もう。私は子どもではありません」
「分かっている。だから、丁寧に扱っている」
「それは、少し違う気がします」
ラシードは楽しそうに笑いました。
蒼月がラシードを見上げます。
その視線に気づいたラシードは、肩をすくめました。
「怒るな、蒼月。砂浜くらい、素足で歩かせてやりたいだけだ」
蒼月は答えず、ただリリアのそばへ一歩寄りました。
まるで、自分が受け止めると言っているようでした。
靴を脱がせてもらったリリアは、ラシードに支えられながら、白い砂浜へ下ろされました。
素足が砂に触れた瞬間、リリアは小さく肩を揺らしました。
「……あ」
白い砂は、思っていたよりも冷たく、けれど柔らかいものでした。
細かな粒が足の裏をくすぐるように沈み、歩くたびにさらさらと形を変えます。
リリアは不思議そうに足元を見下ろしました。
「何か、変です」
そう言って、思わず笑いました。
その笑い声はとても軽く、春の湖畔にふわりとこぼれました。
「痛いか」
ラシードがすぐに尋ねました。
「いいえ。痛くはありません。ただ、くすぐったいような、不思議な感じがします」
リリアは一歩、また一歩と砂の上を歩きました。
蒼月はそのすぐ横を進み、リリアの歩幅に合わせるように寄り添っています。
ラシードも少し後ろからついてきました。
やがて、リリアは水辺までたどり着きました。
湖の水は、砂浜に寄せては引いていきます。
波というにはあまりに穏やかで、けれど確かに、水は息をしているように揺れていました。
リリアは身をかがめ、そっと指先を水へ伸ばしました。
「冷たい……」
触れた水は春の光を含みながらも、まだ冬の名残を残していました。
リリアは驚いたように目を細め、それから嬉しそうに微笑みました。
「でも、綺麗です」
水面に映った空が、リリアの指先で小さく揺れました。
春の湖は光り、リリアの笑顔をやわらかく映していました。
「リリア、夜に備えて少し休もう。また明日も楽しもう」
ラシードがそう言うと、リリアは名残惜しそうに湖を振り返りました。
「……はい。分かりました」
蒼月が寄り添い、リリアの歩みに合わせるように小館へ戻っていきます。
「どうだ。かなり急いで作らせたわりには、よくできているだろう」
ラシードは小館を見上げながら、少し得意げに笑いました。
「リリアのための小館だ。来たくなったら、いつでも使えばいい」
リリアは言葉を失ったように、小館を見つめていました。
白い壁には春の木漏れ日が揺れ、窓辺には湖から渡る風が静かに触れています。
ここが、自分のために用意された場所なのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなりました。
「ラシード」
リリアはゆっくりと振り返りました。
「本当に、ありがとうございます」
「礼を言うほどのことじゃない」
ラシードは軽く肩をすくめました。
「リリアが少しでも楽に過ごせるなら、それでいい」
リリアはその言葉を聞き、微笑みました。
「私、ラシードがそばにいてくれて、本当に嬉しいです」
何気なくこぼれたリリアの言葉に、ラシードは一瞬だけ動きを止めました。
それから、視線を逸らします。
「……そういうことを、急に言うな」
その声はいつもより少し低く、照れを隠しきれていませんでした。
リリアは不思議そうに首を傾げます。
「急でしたか?」
「急だ」
ラシードは短く答えました。
その日の夕方、リリアは久しぶりに母と食卓を囲みました。
小館の食堂には温かな料理が並び、窓の向こうでは、春の夜風が湖面を揺らしています。
ラシードはリリアの体調を確かめるように一度だけ視線を向けると、少し離れた席へ下がりました。
蒼月はリリアの椅子のそばに身を置き、目を伏せていました。
「今日は、よく笑っていたわね」
母の言葉に、リリアは少し驚いたように顔を上げました。
「そうでしたか」
「ええ。とても楽しそうだったわ」
母は湯気の向こうで、穏やかに微笑みました。
リリアは少し恥ずかしそうに目を伏せます。
「砂の上を素足で歩いたのは、初めてでした。少し変な感じがして……でも、とても楽しかったです」
「そう」
母の声が、やわらかくなりました。
「あなたがそんなふうに話してくれるのを、久しぶりに聞いた気がするわ」
リリアの指先が、茶器の縁に触れました。
「私も、自分で少し驚いています」
「驚くことではないわ」
母は首を横へ振りました。
「綺麗なものを見て、嬉しいと思うこと。楽しいと思うこと。そういう気持ちは、あなたの中にちゃんと残っていたのよ」
リリアは黙って、その言葉を聞いていました。
窓の向こうで、湖の水面が月明かりを受けて小さく揺れています。
「私は、ずっと誰かのために願うことばかり考えていました」
リリアはゆっくりと言いました。
「蒼月のこと。瘴気のこと。傷ついた人たちのこと。どれも、私にとって大切なことです」
蒼月がリリアへ視線を向けました。
リリアはその気配を感じながら、少しだけ笑います。
「でも今日、湖を見て……自分のために嬉しいと思ってもいいのだと、少しだけ思えました」
母の瞳が、やわらかく揺れました。
「いいに決まっているでしょう」
その声は静かでした。
けれど、リリアの胸に深く届きました。
「あなたは、公爵である前に、誰かを救う人である前に、私の大切な娘なのだから」
リリアは息を止めました。
母は手を伸ばし、卓の上に置かれていたリリアの手を包みました。
「お母さん」
「湖を見て、砂を踏んで、水に触れて……まるで小さな子どものように目を輝かせていた」
リリアの瞳が、少しだけ潤みました。
「私も……お母さんと一緒に来られて、嬉しかったです」
母は何も言わず、リリアの手を包む指に少しだけ力を込めました。
その沈黙は、寂しいものではありませんでした。
長く離れていた時間を急いで埋めようとするのではなく、今ここにある温かさを確かめるような沈黙でした。
やがて母は、視線を蒼月へ向けました。
「蒼月も、ありがとう」
蒼月は母を見ました。
「いつも、この子のそばにいてくれて」
蒼月は目を細め、尾を一度だけ揺らしました。
リリアはその仕草を見て、やわらかく笑いました。
「蒼月も、嬉しいと言っています」
少し離れた席で、ラシードが楽しそうに口元を緩めました。
「本当か?」
リリアはラシードを見ました。
「本当です」
蒼月が今度はラシードへ視線を向けました。
ラシードは肩をすくめます。
「分かった。疑ってない」
母はそのやり取りを見て、くすりと笑いました。
「リリアの周りは、温かい人たちばかりね」
リリアは少しだけ驚いたように母を見ました。
そして、ゆっくりと頷きます。
「はい」
その返事は小さなものでした。
けれど、迷いはありませんでした。
「私は、たくさんの人に支えられています」
母は嬉しそうに目を細めました。
「なら、あなたも少しずつ甘えなさい」
「甘える……ですか」
「ええ。全部を一人で抱えなくていいの。今日みたいに、綺麗なものを見たいと言っていい。疲れたら休みたいと言っていい。嬉しい時は、嬉しいと笑っていいのよ」
「少なくとも、私の前では娘でいてちょうだい。私にも、母でいさせてね」
リリアはしばらく黙っていました。
それから、窓の外の湖へ視線を向けます。
月の光が水面に映り、揺れていました。
「……また、見たいです」
母がリリアを見つめました。
リリアは少し恥ずかしそうに、けれど確かに微笑みました。
「今日の湖も、とても綺麗でした。でも、朝の湖や、雨の日の湖も見てみたいと思いました」
母の表情が、ふっとやわらぎました。
「ええ。また見ましょう」
その言葉に、リリアは胸の奥が温かくなるのを感じました。
また。
その一言が、今はとてもまぶしいもののように思えました。
蒼月がリリアのそばへ身を寄せます。
リリアはその銀の毛並みに指先を触れ、微笑みました。
湖畔の小館には、穏やかな灯りがともっていました。
外では春の夜風が水面を渡り、窓の向こうで月明かりが揺れています。
その夜、リリアは母の声を聞きながら、自分が確かにこの春の中にいることを、胸の奥で確かめていました。




