第六十一話 地下神殿 紡がれる願い六
離宮の庭には、柔らかな光が満ちていました。
朝露を残した草葉が淡く光り、薬草畑のそばを渡る風には、青く澄んだ匂いが混じっています。
リリアは庭の中央で、蒼月と向き合っていました。
熱はすでに下がり、頬にも少しずつ色が戻っています。
まだ長く動き回れるほどではありませんでしたが、寝台の上でばかり過ごしていた頃に比べれば、ずいぶん身体は軽くなっていました。
「蒼月、待って」
リリアが手を伸ばすと、蒼月はわずかに身を引きました。
銀の毛並みが風に揺れ、蒼月は静かに目を細めます。
その仕草はどこか楽しげで、けれど大きな銀狼としての気高さは少しも損なわれていませんでした。
「もう。届きそうで届かないわ」
リリアが少しだけ頬をふくらませると、蒼月はゆっくりと尾を揺らしました。
――無理をするなと言ったはずだ。
「これは無理ではありません」
――庭に出ただけで、十分に無理だ。
「蒼月は心配しすぎです」
そう言いながら、リリアは蒼月の首元へ手を伸ばしました。
今度は蒼月も避けず、静かにその手を受け止めます。
リリアの指先が銀の毛並みに触れると、温かな感触が掌に広がりました。
リリアは嬉しそうに微笑み、そのまま蒼月へ身を寄せました。
その時、庭へ続く小道の方から足音が聞こえました。
リリアが顔を上げると、アステルとラシードがこちらへ歩いてくるところでした。
「アステル様、ラシード、おはようございます」
それからリリアは、ラシードへ明るく微笑みました。
「ラシード、おかえりなさい。早かったのですね」
リリアの声が、嬉しそうに弾みました。
ラシードはその声を聞き、少しだけ表情を緩めました。
「ただいま、リリア。急いだ甲斐があったな」
「本当に、こんなに早く戻ってこられるとは思いませんでした」
「女王陛下と転送機のおかげだ。あれがなければ、まだ砂漠の上だっただろうな」
そう言ってから、ラシードはリリアの顔をじっと見ました。
「リリアも、だいぶ顔色がよくなったな」
「はい。もうずいぶん楽になりました」
「どれ。少しは戻ったか」
ラシードはそう言うと、蒼月のそばにいたリリアへ歩み寄りました。
そして、蒼月から取り上げるように、ひょいとリリアを抱き上げ、片腕に軽く乗せました。
「きゃっ」
リリアは驚いて、思わずラシードの肩に手を置きます。
すぐ近くで、陽に乾いた衣と、かすかに移った香の気配がして、リリアはなぜか頬の奥がほんのり熱くなるのを感じました。
「も、もう。私、子どもではありません」
「分かっている。だが、まだ軽いな」
ラシードはリリアを抱えたまま、わずかに眉を寄せる。
蒼月が不満そうにラシードを見ました。
その視線を真正面から受け止め、ラシードはむしろ満足そうに口角を上げました。
「蒼月、たまにはいいだろう。俺が砂漠を越えている間、お前はずっとリリアと一緒にいたのだ」
蒼月は、ただラシードを見つめていました。
「たまには、俺にも少しくらい分けてくれ」
その言葉に、リリアは困ったように目を伏せました。
けれど頬には、かすかな笑みが浮かんでいます。
アステルが静かに息を吐きました。
「ラシード様だけではありません。皆、同じように思っていますよ」
リリアは驚いたようにアステルを見ました。
「アステル様まで」
「当然です」
アステルはいつもの穏やかな声で答えました。
「ここ数日は、あなたの体調を最優先にしておりましたので、皆、かなり遠慮していました」
「……ご心配をおかけしました」
リリアが小さく頭を下げようとすると、ラシードの腕の中で身体が揺れました。
「今は頭を下げなくて結構です」
アステルがすぐに言いました。
「はい」
リリアは少し恥ずかしそうに頷きました。
ラシードはようやくリリアを下ろし、蒼月のそばへ戻しました。
蒼月はすぐにリリアへ身を寄せ、その場所を取り戻すように静かに立ちます。
――やはり、こいつは油断ならない。
リリアは蒼月の声を聞き、少し困ったように眉を下げました。
ラシードはその様子を見て、小さく笑います。
「本当に油断も隙もないと思っているのは、お互い様だろう」
リリアは驚いたように顔を上げました。
「ラシード、蒼月の声が聞こえたのですか?」
「いや、見れば分かる」
蒼月は尾を一度だけ揺らしました。
まるで当然だと言っているようでした。
リリアは二人を見比べ、笑いました。
それからアステルへ視線を向けます。
「アステル様。今日は何か分かったのですか」
アステルの表情が、そこで少しだけ改まりました。
「はい。ラシード様が魔石を持ち帰ってくださったことと、今後についてお話しさせてください」
リリアの瞳が揺れました。
蒼月も静かに顔を上げます。
「魔石が……」
「詳しい話は、座ってからにしましょう」
リリアは少しだけ不満そうにしましたが、すぐに小さく頷きました。
「では、お茶を飲みながらお話を聞かせてください」
リリアは庭の端に控えていたセシリアへ視線を向けました。
「セシリア。お茶の用意をお願いします」
「かしこまりました」
セシリアは静かに一礼し、離宮の中へ戻っていきました。
庭には、薬草の香りを含んだ風が穏やかに流れていました。
やがて庭先の卓に茶器が並べられ、焼き菓子と果実の砂糖漬けが添えられました。
リリアは蒼月のすぐそばに座り、アステルとラシードは向かい側に腰を下ろしました。
蒼月はリリアの椅子の横に静かに身を置き、二人の話を聞くように顔を向けています。
茶の香りが落ち着いたところで、アステルが口を開きました。
「では、本題に入ります」
リリアは背筋を伸ばしました。
「ラシード様が持ち帰ってくださった転送機の魔石は、地下神殿の魔法陣にある円形のくぼみに、ぴたりとはまりました」
アステルは言葉を選びながら続けました。
「そして、魔力も陣へ通っています。そこまでは確認できました」
リリアの顔が、ぱっと明るくなりました。
「では……っ」
けれど、アステルは静かに首を横へ振りました。
「まだです」
リリアの声が、そこで止まりました。
「魔石が合い、魔力が通ったことは大きな前進です。ですが、それで何が起こるのか、まだ確かめきれていません」
「……何が起こるのか」
「はい。蒼月の呪いが見えるようになり、リリア殿だけが鎖に触れられることは分かりました。ですが、触れられるからといって、それを解けるとは限りません」
リリアはそっと膝の上で手を握りました。
「魔力が満たされた時、その力がどこへ向かうのか。鎖を緩めるのか、浮かび上がらせるだけなのか。あるいは、別の反応を起こすのか。今の段階では未確定の部分が多すぎます」
アステルの声は穏やかでした。
けれど、その言葉は慎重で、少しの期待にも流されまいとする強さがありました。
「おそらく、解呪に関わるものだとは思います。ですが、断定はできません」
リリアの顔が、分かりやすくしゅんと沈みました。
さきほどまで明るく揺れていた翡翠の瞳が、少しだけ伏せられます。
その様子を見て、ラシードがこらえきれないように小さく息を漏らしました。
リリアはすぐに顔を上げました。
「ラシード」
「いや、失礼」
ラシードは口元を押さえながら、楽しそうに目を細めました。
「あまりに可愛らしくてな」
「もう」
リリアは困ったように眉を寄せましたが、頬にはかすかな赤みが差していました。
蒼月がじっとラシードを見ます。
ラシードはその視線を受け止め、肩をすくめました。
「怒るな、蒼月。少し和ませただけだ」
それから、ラシードはリリアへ視線を戻しました。
先ほどまでの軽さを少しだけ収め、声を落ち着かせます。
「未確定のところは、アステル様と俺で調べる」
リリアはラシードを見つめました。
「だから、もう少し待て。今度は、焦って触れようとするなよ」
「……分かりました」
「調べている間、ただ待っているのも退屈だろう」
リリアが顔を上げると、ラシードは少しだけ口元を緩めました。
「ほかに、リリアがやりたいことはないのか。俺なら、リリアが望む場所へ、連れていってやれる」
リリアは思いがけない言葉に、しばらく瞬きをしました。
それからしばらく考えていましたが、すぐには答えられませんでした。
やりたいこと。
行きたい場所。
そう聞かれて初めて、自分がいつも、誰かのための願いばかりを選んできたのだと気づきました。
「……海を」
リリアは小さく呟きました。
ラシードが、少しだけ目を細めます。
「海?」
「はい。見たことがないのです」
リリアは恥ずかしそうに笑いました。
「本で読んだことはあります。どこまでも水が広がっていて、空とつながっているように見えるのだと」
蒼月が静かにリリアを見ました。
ラシードはしばらく黙っていましたが、やがて口元を緩めました。
「いいな」
その声は、いつもの軽さより少しだけ柔らかかった。
「でも海は、さすがに今のリリアには遠すぎるな」
ラシードはそう言って、ふっと口元を緩めました。
「その代わり、湖ならどうだ」
「湖……ですか」
「ああ。王都からそう遠くない場所に、静かな湖があると聞いた。水面に空が映って、夜になれば月も映る」
リリアの瞳が、少しだけ明るくなりました。
「月が……」
「蒼月と一緒に見るには、悪くない場所だと思うぞ」
蒼月が静かに顔を上げました。
リリアは蒼月を見て、それから少し恥ずかしそうに笑いました。
「……行ってみたいです」
ラシードは満足そうに頷きました。
「なら決まりだ。無理のない日に、俺が連れていってやる」
リリアが海を見てみたいと言った時、ラシードは本当なら、すぐにでも連れ出してやりたかった。
海でも、知らない街でも、どこまでも続く道でもいい。
リリアと旅ができたなら、どれほど素晴らしいだろう。
けれど、その考えはすぐに胸の奥で止まりました。
ラシードは小さく首を横に振ります。
今、できることをするのだ。
遠い海ではなく、今のリリアが見に行ける水辺へ。
リリアの身体に少しでも負担がかからないよう、馬車にも手を入れさせました。
座席を柔らかく整え、長い道の揺れができるだけ伝わらないよう、細かなところまで工夫させたのです。
さらに、向かう湖のほとりには、リリアのための小さな小館まで建てさせていました。
万が一、体調が崩れてすぐに王都へ戻れなくなっても、数日なら静かに滞在できるように。
ラシードにとって、それは大げさな準備ではありませんでした。
今のリリアを外へ連れ出すなら、そこまでしてようやく許されることだったのです。




