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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第四章 呪いと地下神殿

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第六十話 地下神殿 紡がれる願い五

ラシードたちは、かつてリリアたちが砂漠越えの途中で身を休めた泉のそばに天幕を張りました。

昼の熱を失った砂は冷たく、泉の水面には、夜空に散る星の光が細く揺れています。

護衛の兵たちは交代で休み、駱駝も静かに膝を折っていました。

ラシードは天幕の外に腰を下ろしたまま、しばらく夜の砂漠を見上げていました。

雲ひとつない空の下で、胸の奥に浮かぶのは、水盤の広場で祈っていたリリアの横顔でした。


リリアは今ごろ、どうしているだろうか。

また熱を出していなければいい。

魔石は、もうすぐ持って帰れる。

そうすれば、リリアは少しでも安心した顔を見せてくれるだろうか。

ほんのわずかでも、嬉しそうに笑ってくれるだろうか。


――俺も、たいがいリリアに参っているな。


その時、泉を囲む静けさの奥で、別の気配が動きました。

護衛の兵とは違う、浅く忍んだ足音です。

砂丘の陰を回り込むように、いくつかの気配が夜に紛れて近づいてきます。

ラシードの目が、静かに細められました。


「まさか、この俺が盗賊に出くわすとはな」


低く呟くと、ラシードは外套を肩に掛け、音もなく立ち上がりました。

冷えた砂を踏む足音は夜風に紛れるほど小さく、やがて闇の中へ溶けていきます。


水場へ近づいていた男たちは、砂丘の影に身を寄せるようにして進んでいました。

その先頭にいた男の背後へ、ラシードは一息で回り込みます。

次の瞬間、男の腕を後ろへ捻り上げ、首筋へ短剣の冷たい刃を添えました。


「声を立てるな」


男の身体が強張りました。

わずかに顔を横へ向けた瞬間、その目が月明かりの中で大きく見開かれます。


「……お頭?」


ラシードは短く息を吐きました。


「しっ。少し来い」


男は慌てて仲間へ手を振りました。

退け、という合図でした。

砂丘の陰にいた男たちは、すぐに身を低くし、闇の中へ下がっていきます。


ラシードは男の腕を離すと、天幕から少し離れた岩陰へ顎をしゃくりました。


「歩け」


男は素直に従いました。

水場の灯りが届かないところまで来ると、男はようやく振り返り、まだ信じられないという顔でラシードを見ます。


「お頭、こんなところで何をなさっているんです。長くお姿が見えなかったもんで、皆、気にしておりました」


「今は手が離せん」


「まさか、大きな獲物でも探っておいでで?」


ラシードは一瞬だけ黙り、それから面倒そうに肩をすくめました。


「まあ、そんなところだ」


男の顔に、妙な納得が広がります。

ラシードはその表情を見て、声を少し低くしました。


「副頭の言うことを聞け。掟を守れ」


「承知しました」


ラシードが短く手で示すと、男はもう一度深く頭を下げ、仲間たちの待つ砂丘の陰へ駆け戻っていきました。

やがて、複数の気配が水場から遠ざかり、夜の砂漠に溶けて消えます。


ラシードはしばらくその方向を見ていました。

それから短剣を収め、何事もなかったように天幕へ戻ります。

泉のほとりには、再び静けさだけが降りていました。


ラシードは、転送機を使えたこともあり、ひと月も経たずにグランヴァルド王国へ戻ってきました。

王宮へ戻ったラシードは、まず旅装を解き、砂にまみれた外套を脱ぎ、乾いた風に擦れた服を着替えます。

伸びた髭を剃り、乱れていた髪を整えると、長い砂漠を越えてきた疲労はまだ目元に残っているものの、そこにはいつものラシードの姿が戻っていました。

軽く香を移した外套を羽織り直し、彼は魔石と報告書を携えて、星術院へ向かいました。


「早かったですね」


アステルが言いました。


「もう少しかかると思っていました」


「女王陛下が、サライナまでの転送を許してくださいましたので」


ラシードは、外套の裾を軽く整えました。


「おかげで、半分ほどの日数で戻ることができました」


アステルの視線が、ラシードの腕の中へ落ちます。

ラシードは、厚手の布と革で包まれた魔石を両手で慎重に抱えていました。

台座から外されたそれは、大きめの水晶ほどの大きさがあり、布越しにも確かな重みを感じさせます。


「これが魔石です」


アステルの表情が引き締まりました。

ラシードは近くに用意された布の上へ、魔石をゆっくりと置きました。


続けて、ラシードは一通の報告書を差し出します。

魔物討伐後にまとめられた正式な報告書で、そこにはサフィーラ女王の印が押されていました。


「こちらが、魔物討伐後の正式な報告書です」


「確かにお預かりします」


アステルは報告書を受け取りました。

それから、布と革に守られた魔石へ目を落とします。


「ラシード様」


アステルは、魔石から視線を上げました。


「あなたが戻られるまでの間に、こちらでも分かったことがあります」


ラシードの表情が、わずかに変わりました。


「分かったこと、ですか」


「リリア殿が、蒼月に絡む黒い鎖に触れました」


「……触れた、というのは」


「私たちが触れようとしても、指先はすり抜けました。ですが、リリア殿だけは、あの鎖に触れることができたのです」


ラシードは短く息を呑み、それからほんの一瞬だけ視線を落としました。


「……体に、負担はなかったのですか」


アステルは静かに首を横へ振りました。


「ご安心ください。熱も、乱れもありませんでした」


ラシードは短く息を吐きました。


「それで、鎖は」


アステルは首を横へ振りました。


「解けてはいません。ですが、触れられたという事実は大きい」


地下へ続く通路に、短い沈黙が落ちました。

ラシードは布に包まれた魔石を見下ろし、それからアステルへ視線を戻します。


「では、あとは方法ですね」


「ええ」


アステルは頷きました。


「その方法を探るために、私ももう一度、魔法陣を確かめました」


ラシードの目が、わずかに細められます。


「魔法陣を、ですか」


「はい。壁に刻まれていた文字を正しく唱えれば、魔法陣そのものは反応するようです。実際、私が唱えた時も、陣には淡い光が走りました」


「誰でも、ですか」


「おそらく。ただ、私の身体には呪いがありませんから、鎖は現れませんでした。ですが、蒼月の身体には黒い鎖が浮かび上がった。つまり、あの陣に現れるものは、そこにある呪いに反応しているのだと思います」


「なるほど」


ラシードは短く息を吐きました。


「リリア殿と蒼月を呼ぶ前に、一つだけ確認しておきたいことがあります」


「魔石が、本当に合うかどうかですね」


「ええ」


アステルは、厚手の布と革に包まれた魔石へ目を落としました。


「これからやりますか」


「ええ」


アステルは頷きました。


二人は魔石を携え、地下神殿の石室へ向かいました。

石段を下りるにつれて、空気は少しずつ冷たくなっていきます。

奥の石室に足を踏み入れると、床一面に刻まれた魔法陣は、以前と同じように眠っていました。


円形石板の前に立つと、アステルはしばらくくぼみを見下ろしました。

深さ、縁の丸み、中心に刻まれた細い溝。

前に見た時には空白に見えた場所が、今は何かを待つ器のようにそこにありました。


「置きます」


アステルは低く告げ、魔石を包んでいた布を開きました。

淡い光を帯びた石の面が、地下神殿の灯りを受けて、かすかに艶を返します。

ラシードは息を殺すように、その手元を見ていました。

魔石は、ゆっくりと円形石板のくぼみへ下ろされました。

縁に触れた瞬間、硬い音が小さく響きます。

アステルが指先で角度をわずかに整えると、魔石は石板の中心へ沈むように収まりました。


カチリ、と音がしました。


次の瞬間、魔石の奥に宿っていた光が、石板の中央から細い溝へ流れ込みました。

淡い光は、床に刻まれた線をなぞるように、中心から外側へ向かって静かに走り広がっていった。

長いあいだ沈黙していた陣に、ほんの一瞬だけ魔力が通ったようでした。

ラシードが、わずかに息を呑みました。

やがて、光は薄れていきました。

床に刻まれた線から淡い輝きが失われ、地下神殿の奥は再び深い静けさに包まれます。


アステルはしばらく、光の消えた魔法陣を見つめていました。


「……魔石は、合っています」


低い声でした。


「そして、魔力も通りました。今の反応で、それは確認できました」


ラシードは、石板の中心に収まった魔石を見下ろしました。


「では、次は」


アステルは、魔石の収まった円形石板を見つめたまま答えました。


「リリア殿と蒼月をお呼びします」


淡い光は消えていました。

けれど、石室の空気は、先ほどまでとは違っていました。

長く眠っていた魔法陣が、確かに一度、魔力を受け入れた。

その事実だけが、冷たい石室の奥に残っていました。


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