第五十九話 地下神殿 紡がれる願い四
リリアが起き上がれるほどに回復したこの日、地下神殿の最奥にある石室には、リリアと蒼月、アステル、アレクシス王、王妃ヴィクトリア、そしてハインリヒの姿がありました。
自国の地下に眠っていた魔法陣が反応した以上、王と宰相も、その場を見届けなければなりません。
「まったく、リリアに会うにも許可がいるとはな」
アレクシス王が、低く息を吐きました。
「陛下。リリア殿の回復を最優先した結果です」
アステルは、少しも表情を変えずに答えました。
「それは分かっている。だが、顔を見ることもままならぬのは、さすがに落ち着かん」
ヴィクトリアも、蒼月の背に身を預けているリリアを見つめながら、頷きました。
「私もです。目を覚ましたと聞いても、こうして自分の目で見るまでは、胸の奥がずっと冷たいままでした」
「ご心配をおかけしました」
リリアが小さく頭を下げようとすると、アステルの声がすぐに届きました。
「リリア殿、無理に姿勢を正さないでください」
「……はい」
そのやり取りを見て、ハインリヒが穏やかな声で言いました。
「アステル殿」
「はい」
ハインリヒは、にこやかなまま続けます。
「私は父なのですが」
アステルは一瞬だけ沈黙しました。
「存じております」
「父であるはずなのですが、ここ数日、リリアの顔を見ることも許されませんでした」
アステルの返事は短いものでした。
「リリア殿は病み上がりです」
「ええ。理解しております」
ハインリヒは微笑みました。
「理解しているからこそ、少しだけ嫌味を申し上げています。アステル殿が、ほとんど独り占めしておられましたので」
石室の床一面に描かれた魔法陣は、以前よりもはっきりと見えています。
幾重にも重なる円と文字は、凪いだ水面のように美しい陣でした。
リリアは蒼月の背からおりて、魔法陣の中央へ視線を向けました。
そこには、魔石を収めるための丸いくぼみがあります。
リリアはゆっくりと膝を折り、丸いくぼみの縁をなぞりました。
冷たい石の感触が、指先に伝わります。
蒼月はリリアのすぐそばに立ち、魔法陣と壁の古代文字へ視線を向けています。
リリアは顔を上げました。
「蒼月」
蒼月の瞳が、リリアへ向けられました。
「壁の文字を、読んでみて」
その声は、石室の壁に淡く響きました。
アレクシス王も、ヴィクトリアも、ハインリヒも息を潜めています。
アステルは蒼月の視線の先を見つめていました。
蒼月は壁へ視線を戻しました。
その瞳が、刻まれた古代文字をゆっくりとなぞるように動きます。
――大地の女神よ。月の光を受けし水よ。我が名を呼ぶ者の声を聞け。その絆に応じ、魂を縛る古き鎖を緩めたまえ。
次の瞬間、床の魔法陣に淡い光が走りました。
線の一部が細く光り、石室の底に沈んでいたものが呼吸を取り戻すように、反応しました。
ヴィクトリアが、息を呑んで呟きます。
「……まぁ、光ったわ」
魔法陣の光の中で、蒼月の身体を縛るように、黒い鎖が浮かび上がっていました。
首元から、胸へ。
そして見えない奥底へ絡みつくように伸びる、黒い鎖。
報告で聞いていたものが、今、リリアの目の前にありました。
「これが……蒼月を、縛っているもの……」
石室には、誰も声を挟めないほどの静けさが満ちていました。
リリアは、ゆっくりと手を伸ばしました。
指先が、黒い鎖へ近づいていきます。
触れられるはずのないもの。
報告ではアステルたちが触れられなかったと聞いていました。
その鎖の輪郭が、淡い光の中でかすかに揺れました。
ちり、と指先に痺れが走る。
黒い鎖が、確かにリリアの指先に触れていました。
見えているだけではありません。
そこにあるものとして、冷たく硬い感触が指先に残っています。
「アステル様」
リリアは息を詰めたまま、黒い鎖を見つめました。
「私には、この鎖が……触れます」
石室の空気が、張り詰めました。
「見てください」
リリアは手を伸ばし、蒼月に絡まる鎖の一つを握りました。
黒い鎖は、リリアの細い指の中に確かに収まっています。
けれど、力を込めても、鎖はびくりとも動きませんでした。
「なんと……」
アステルの低い声が、石室に落ちました。
アステルはすぐにリリアの手元へ視線を向け、自らも鎖へ指を伸ばしました。
けれど、その指先は黒い輪郭をすり抜けていきます。
鎖は見えているのに、アステルの手には何の感触も残りません。
「……私には、触れません」
アステルは小さく息を吐き、もう一度、リリアの手を見ました。
リリアの指は、確かに鎖を握っています。
「これは、どういうことですか」
ハインリヒの声には、抑えた緊張が滲んでいました。
アレクシス王が、黒い鎖から目を離さないまま呟きました。
「リリアだけが触れる鎖とは……」
アステルは、魔法陣の光とリリアの指先を見比べました。
「もしかすると、ソウルリンクが関係しているのかもしれません」
ハインリヒが問いかけました。
「魂の繋がりが、鎖に触れる道になっているということですか」
「断定はできません。ですが、リリア殿と蒼月の魂が繋がっているからこそ、リリア殿だけがこの鎖に干渉できている可能性があります」
ヴィクトリアは、リリアと蒼月を見つめました。
その瞳には、驚きと祈るような光が重なっていました。
「お互いを思いやる気持ちも、関係しているのでしょうか」
アステルはすぐには答えませんでした。
けれど、リリアの手の中にある鎖を見つめたまま、頷きました。
「そうかもしれません」
アステルは、魔法陣のそばに置かれていた石板へ視線を落としました。
それは、この魔法陣の使い方が記されていると考えられている石板でした。
中央の丸いくぼみや、魔石の扱いに関わるものと思われる古代文字が刻まれています。
アステルは石板を手に取り、リリアに見せました。
「リリア殿。最後にこれだけ、蒼月に読んでもらえないでしょうか」
リリアは石板へ視線を落とし、それから蒼月を見ました。
「蒼月、これを読める?」
蒼月は石板へ目を向けました。
蒼い瞳が、刻まれた古代文字をゆっくりとなぞります。
リリアの胸の奥に、途切れながらも確かな言葉が届きます。
――環の心に光石を置きしその刻、巡る光は道を成し、封ぜられし業を解き放つ。顕れし鎖は、契りし魂のもとへ帰らん。
リリアは、蒼月から届いた言葉を一つも違えないよう、アステルへ伝えました。
アステルは石板と魔法陣を見比べ、息を整えました。
「今日は、新しい発見がありました」
アステルは黒い鎖から視線を離し、リリアへ向き直りました。
「この先は、私どもが詳しく調べます。ここは冷えます。リリア殿、戻りましょう」
「……分かりました」
リリアは小さく頷きました。
リリアたちが石室を出たあとも、アステルは魔法陣の前に残っていました。
アステルは床に刻まれた線を見つめ、リリアから聞き取った言葉を胸の内で反芻します。
確かめるべきは、言葉そのものが陣に作用するかどうかでした。
アステルは息を整え、低く唱えました。
「大地の女神よ。月の光を受けし水よ。我が名を呼ぶ者の声を聞け。その絆に応じ、魂を縛る古き鎖を緩めたまえ」
その瞬間、床に刻まれた魔法陣の線が、淡く光を帯びはじめました。
光は細く、弱く、それでも確かに陣の内側を巡っていきます。
アステルはその反応を見つめ、目を細めました。
「……なるほど」
声は、石室の静けさに低く落ちました。
「言葉を正確に唱えれば、誰にでも反応は可能ということか」
淡い光は、しばらく床の線をなぞるように揺れていました。
やがてアステルが魔法陣の外へ出ると、その光は消えていきました。




