第五十八話 地下神殿 紡がれる願い三
王都ハルディアの夜は、砂漠の熱をまだ壁の奥に残していました。
ラシードは与えられた客室の長椅子に身を沈め、片腕で目元を覆っていました。
転送機を使い、女王陛下の前に立ち、許しを得た。
目的は果たしたはずなのに、身体の奥に残った疲労だけが、重い砂のように沈んでいました。
その時、扉の向こうで、控えめな衣擦れの音がしました。
ラシードは目元を覆ったまま、息だけを落とします。
「……入れ」
扉が開きました。
薄い香油の匂いが、夜気に混じって流れ込んできます。
扉の向こうに立っていたのは、王都へ戻るたび、何度か夜を共にしたことのある女でした。
女は慣れた様子で扉を閉め、柔らかく微笑みました。
「お戻りになったと聞きました」
「耳が早いな」
女は、くすりと笑いました。
「あなたは目立つ方ですし、女官たちの間でも噂になっていましたから」
「そうか」
女は、ラシードのそばへ歩み寄ります。
以前なら、その距離を拒む理由はありませんでした。
疲れた夜に、何も考えず身を預けることもありました。
けれど今は、甘い香油の匂いさえ、どこか遠いもののように感じます。
女の指が、ラシードの胸元に触れます。
薄い布が肩から滑り、白い肌が夜の灯に淡く浮かびました。
ラシードは、その手を止めました。
「悪いが、今はそういう気分じゃない」
女は少しだけ目を細めました。
「珍しいことをおっしゃいますね」
「そうかもしれないな」
ラシードは掴んだ手を放しました。
「何か、ございましたか」
「……少し、面倒なことになってる」
女は、首を傾げます。
「私では、紛らわせられませんか」
女はしばらく黙ってラシードを見つめました。
ラシードは短く息を吐き、長椅子の背へ身体を預けました。
「今は無理だ」
女は、ラシードの瞳が自分ではなく、遥か遠い異国の地を見つめていることに気づいたのでしょう。
やがて、滑り落ちた布を肩へ戻し、深くは踏み込まないまま微笑みました。
「では、眠れるように香だけ焚いておきます」
「余計な気を回すな」
女は、首を横に振りました。
「これくらいは、夜の相手でなくてもできます」
ラシードは返す言葉を失いました。
女は小さな香炉に火を移し、静かな香りだけを部屋に残します。
その香りは甘すぎず、砂漠の夜に似た乾いた温かさを持っていました。
女が扉へ向かう背を、ラシードは目だけで追いました。
――俺も、変わったな。
翌朝、ラシードは夜明けとともに身支度を整えました。
女王陛下への正式な拝謁は願わず、執務官から預かった書簡と魔石の扱いに関する指示だけを受け取ります。
長く留まれば、それだけリリアたちのもとへ戻る時が遅れる。
今のラシードには、王都の空気に身を休めている余裕などありませんでした。
「女王陛下には、戻り次第、改めて礼を申し上げると伝えてくれ」
執務官へそう告げると、ラシードは外套を翻しました。
王宮の奥に残る朝の静けさを背に、彼は転送機の置かれた部屋へ向かいます。
魔石に満ちた光は、完全なものではありませんでしたが、サライナまで飛ぶだけの力は残されています。
ラシードは迷わず、転送機の中央へ足を進めました。
「……待ってろよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりとは分かりませんでした。
次の瞬間、淡い光が足元から立ち上がりました。
砂漠の朝の匂いも、王宮の冷えた空気も、すべてが白くほどけていきます。
ラシードの姿は、光の中へ消えました。
サライナの地下の転送の間を守っていた兵が、最初に異変に気づきました。
静まり返った石室の奥で、転送機の文様が淡く光を帯びていたのです。
兵は息を呑み、壁際に置かれた灯を手に取りました。
次の瞬間、古い石床に刻まれた線が、まばゆい光を放ちます。
砂色の外套をまとった男が、光の名残の中に立っていました。
「ラシード様……?」
兵の声が、思わず裏返りました。
ラシードは外套の乱れを軽く払い、転送機の奥に据えられた魔石へ一度だけ視線を向けました。
「ナーディルを呼べ。急ぎだ」
「は、はい!」
兵は慌てて一礼し、転送の間を飛び出しました。
石造りの階段を駆け上がる靴音が、地下の通路に遠ざかっていきます。
ラシードはその音を聞きながら、壁際へ寄りました。
王都ハルディアの冷えた空気は、もうどこにも残っていません。
代わりに、サライナ特有の乾いた砂の匂いが、肺の奥へ戻ってきました。
しばらくして、地下へ下りる足音が聞こえました。
先ほどの兵よりも、ずっと重く、乱れの少ない足音です。
扉が開きました。
入ってきたナーディルは、転送の間に立つラシードを見た瞬間、眉間に深い皺を刻みました。
「ラシード様!」
低く抑えた声でした。
けれど、その奥には、隠しきれない怒りがありました。
「あなたは、相変わらず何をしているのですか」
ラシードは片眉を上げました。
「久しぶりだな、ナーディル」
「久しぶりだな、ではありません。一言、伝言を残しただけで、どれだけこちらが――」
ラシードは、ナーディルの言葉を遮りました。
「悪いが、愚痴を聞いている暇はない」
その声音に、ナーディルの目が細くなります。
いつもの軽口ではないと、すぐに分かったのでしょう。
「急ぎ、砂漠越えの準備をしてくれ。明後日には出たい」
「明後日、ですか」
ラシードは、肩をすくめました。
「できるなら明日でもいい」
「無茶をおっしゃらないでください」
ナーディルは即座に返しました。
ラシードは短く笑いましたが、その目は少しも笑っていませんでした。
「分かっている。だから明後日と言っている」
ナーディルは黙りました。
「この魔石を持って、リリアのいるグランヴァルド王国へ戻る」
その名を聞いた瞬間、ナーディルの表情から、苛立ちが引きました。
「……リリア様の件ですか」
「ああ」
ラシードは転送機の奥に据えられた魔石へ視線を向けました。
「あの方が救った国のものだ。今度は、こちらが差し出す番だ」
ナーディルは、ラシードの命じた通り、わずかな時間で砂漠越えの装備を整えました。
水、食料、薬、替えの外套、夜営の道具。
さらに、信頼できる部下を九名選び、護衛として同行させます。
明後日の朝、ナーディルは魔石を携えたラシードを、グランヴァルド王国へ向けて送り出しました。
その夜、グランヴァルド王国では、リリアが寝室の寝台に身を預けていました。
熱は下がっていましたが、身体の奥にはまだ重い疲労が残っています。
寝台の端には、蒼月が身を伏せています。
銀の毛並みは夜の薄明かりを受け、淡く光を含んでいるように見えました。
リリアはしばらく、その姿を見つめていました。
やがて、手を伸ばします。
蒼月は首を寄せ、その指先を受け止めました。
温かい。
「……蒼月。蒼月は、私がこんなことになったのを、全部、自分のせいだと責めていませんか」
蒼月の蒼い瞳が揺れました。
――……。
リリアの胸の奥に、深い沈黙だけが届きました。
リリアは小さく笑おうとして、けれどうまく笑えませんでした。
「何も言わなくても、分かるよ」
その声が震えた瞬間、涙がひとつ、頬を伝いました。
「私は、蒼月に会えて、とても幸せだよ。今も」
蒼月は、ただリリアだけを見ていました。
「あの森で過ごした日々も、王都に来て、一緒に浄化できたことも、砂漠を越え、異国の地に行ったことも。すべて、あの日、蒼月に出会えなければなかった日々です。そして何より、蒼月がそばにいてくれたことが、とても嬉しいの」
胸がいっぱいになって、次の言葉が少しだけ遅れました。
「全部、よかったと思っているよ」
蒼月の瞳の奥に、夜の光が揺れました。
リリアは涙を拭わないまま、ゆっくりと言葉を続けました。
「だから、後悔しないで」
蒼月の耳が伏せられました。
「私がいなくなった後も、ちゃんと生きて」
その言葉を口にした途端、胸の奥が崩れました。
本当は、そんな未来を認めたくありませんでした。
蒼月のいない明日など考えられないように、蒼月にも、自分のいない世界を歩いてほしいなど、願うだけで苦しかった。
それでも、言わなければならないと思いました。
蒼月が、いつか自分を責め続けることだけは、どうしても嫌でした。
「私のために、止まらないで」
涙に濡れた声で、リリアは言いました。
「蒼月は、ちゃんと生きて」
蒼月は、瞳を伏せました。
蒼月は、リリアの指先を受け止めたまま、首を低くしました。
近づいた銀の毛並みに、リリアは額を寄せます。
大きな銀狼の温もりが、寝台の上に満ちていました。
声を殺して泣くリリアを、蒼月はその場で受け止めていました。
「お願い……」
リリアは蒼月の毛並みに指を絡めました。
「私がいなくなっても、ひとりで、暗いところへ行かないで」
蒼月の蒼い瞳が、リリアを映しました。
胸の奥に、言葉にならない思いが触れます。
苦しいほど深く、優しい沈黙でした。
リリアはその温もりに縋るように、小さく言いました。
「生きてね、蒼月。私がいなくなった後は、森へ帰って」
声にした瞬間、胸の奥が小さく震えました。
「蒼月は、自由に生きて」
それは、蒼月を手放す言葉でした。
本当は、ずっとそばにいてほしい。
この先も、明日も、その次の日も。
リリアは涙に濡れた瞳で、蒼月を見つめました。
「だから、あと少しだけ……私のそばにいてね」
蒼月は、リリアの指先を受け止めたまま、深い蒼い瞳を細めました。
それは返事と呼ぶにはあまりにも静かな仕草。
この夜、寝室にあるのは、まだ届かない救いを待つ時間と、互いを失いたくない二つの魂だけでした。
リリアは蒼月の温もりに頬を寄せたまま、涙が乾くまで、泣き続けました。




