第五十七話 地下神殿 紡がれる願い二
リリアが目を覚ました時、部屋には柔らかな朝の光が差し込んでいました。
薄い布越しに落ちる光は白く、熱で重くなった瞼の奥に滲んでいきます。
しばらく、自分がどこにいるのか分かりませんでした。
けれど、そばにある大きな気配に気づいた瞬間、リリアの胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけほどけました。
蒼月が、寝台のそばに伏せています。
銀の毛並みは朝の光を受け、淡く輝いています。
その蒼い瞳が、リリアを見つめています。
「……蒼月」
かすれた声で名を呼ぶと、蒼月の耳が動きました。
そして、ゆっくりと頭を上げます。
――目が覚めたか。
その声は、いつものようにリリアの心に届きました。
低く、穏やかで、けれどどこか安堵を含んでいるように感じられました。
「私……ずっと眠っていたのね」
――熱があった。
リリアは、掛布の端を握りました。
「ごめんなさい。心配をかけてしまって」
蒼月は答えず、ただリリアを見つめていました。
その沈黙が、いつもより少し重く感じられます。
リリアはゆっくりと身体を起こそうとしましたが、すぐに額の奥が鈍く痛みました。
「っ……」
蒼月が大きな身体を起こし、寝台のそばへ身を寄せました。
――無理をするな。リリア。お前が寝込んでから、三日経っている。
――……伝えたいことがある。だが、まずアステルから聞いた方がいい。あの者が見たことと、調べたことがある。
心に届いた声は、静かでした。
けれど、その奥には、言葉を選ぶようなためらいがありました。
リリアは指先に力をこめます。
「……分かったわ」
リリアは小さく頷きました。
ほどなくして、扉の外から控えめな声がかかりました。
「リリア殿。お目覚めでしょうか」
アステルの声でした。
リリアは顔を上げました。
「はい。入ってください」
扉が開き、アステルが部屋へ入ってきました。
その後ろには、薬湯を持ったセシリアが控えています。
アステルはリリアの顔色を確かめると、少しだけ眉を寄せました。
「まだ熱が残っていますね」
「もう大丈夫です」
アステルは、小さく首を振りました。
「その言葉を、何度聞いたか分かりません」
アステルの声は穏やかでしたが、そこにはいつもの柔らかさだけではない厳しさがありました。
リリアは小さく視線を落としました。
「……すみません」
「責めているわけではありません。ただ、今は本当に休むべきです」
アステルはセシリアから薬湯を受け取り、リリアへ差し出しました。
湯気の中に、薬草のほろ苦い香りが立ちのぼります。
リリアは両手で器を受け取り、少しずつ口に含みました。
温かな苦みが喉を通ると、身体の奥に残っていた冷えが、ゆっくりとほどけていきます。
アステルは、蒼月へ視線を向けました。
その姿は静かでしたが、地下神殿で見た黒い鎖の影が、アステルの脳裏から離れませんでした。
「リリア殿」
アステルは、ゆっくりと口を開きました。
「あなたが眠り続けていた間に、地下神殿で確かめたことがあります」
リリアの手が、器を持ったまま止まりました。
「地下神殿で……?」
「はい」
アステルは言葉を選ぶように、一度だけ息を整えました。
「蒼月が一人で地下神殿の最奥の石室にいました」
リリアは蒼月を見ました。
蒼月は視線をそらさず、ただリリアを受け止めています。
「どうして……」
――……リリア。俺は正直、自分にかけられた呪いなど、自覚もなく、どうでもよかったのだ。だが、お前がこの呪いを解きたいと願うのなら、俺も解きたいと思った。
心に届いた声は、低く、かすかに痛みを含んでいました。
リリアは掛布を握りしめ、あふれそうになる涙をこらえるように、小さく、何度も頷きました。
その様子を見守っていたアステルが、やがてゆっくりと説明を続けます。
「私が見つけた時、蒼月は魔法陣の中央にいました」
「中央に……」
アステルの声が、少し低くなります。
「はい。陣は光を放ち、その光の中で、蒼月の身体に黒い鎖が見えました」
部屋の空気が張り詰めました。
「黒い、鎖……」
「身体の表面に巻きついているものではありませんでした。もっと深い場所に絡みついているものが、陣の光によって一時的に見えていたのでしょう」
リリアは蒼月を見ました。
「蒼月は……痛かったのですか」
「少なくとも、本人に異常は確認できませんでした。痛みも、身体の変調もないようでした」
アステルは、言葉を選んで答えました。
「ですが、見えた鎖に私が触れようとしても、触れることはできませんでした。指先はすり抜けました」
「触れられない……」
リリアの声が、かすかに震えました。
「はい。物質として存在している鎖ではありません。呪いそのもの、あるいは魂に絡むものが、陣によってこちら側に見えているだけなのでしょう」
リリアは、蒼月を見つめました。
蒼月の魂に、黒い鎖が絡みついている。
想像しただけで、呼吸が浅くなりました。
アステルは少し間を置き、説明を続けました。
「その後、魔法陣の清掃も進めました。中央に隠されていた円形の蓋のようなものが見つかり、その下に丸いくぼみがありました」
「くぼみ、ですか」
アステルは、手元の写しへ目を落としました。
「はい。ラシード様とも確認しましたが、おそらく魔石をはめ込み、その魔力を使って動かす魔法陣なのだと思います」
リリアはゆっくりと息をのみました。
「魔石……」
「くぼみの大きさが、転送機に使われていた魔石に似ていると、ラシード様がおっしゃっていました。ラシード様は、女王陛下から借用の許可をいただくため、まずアルディナへ向かわれました。転送機で王都ハルディアへ戻り、許可を得たうえで、サライナへ向かわれる予定です」
リリアは、掛布を握る指先に力をこめました。
「ただ、戻ってくるには時間がかかります。リリア殿も、体調が戻ってから地下神殿を確認しましょう」
そう言って、アステルはリリアの住む離宮を後にし、王宮へ向かう道を歩いていました。
アステルは、リリアの魂を救う方法を探すとリリアに告げ、それからずっと調べ続けていました。
けれど実際には、魂に関わる文献はあまりにも少なく、星術院に残された記録をどれほど辿っても、確かな手がかりには届きません。
起きていられる時間が短くなり、リリアが望むことを思うように叶えられなくなっていること。
あの美しい金髪の一部が、銀色へと変わってしまったこと。
そして、リリアの魂が少しずつ拡散していく様子。
それらを見れば、残された時間は長くても数年なのだろうと、アステルには痛いほど分かっていました。
アステルは足を止め、空を見上げました。
握りしめた手の爪が、手のひらに深く食い込みます。
――くそっ。
決して表には出さないその言葉を、アステルは胸の奥へ深く沈めました。
だからこそ、リリアが残された時間の中で望むことなら、できる限り叶えたい。
蒼月の呪いに関わるかもしれないこの魔法陣に、全力を尽くそうと決めていました。
そのころ、ラシードは早馬を乗り継ぎ、アルディナへ到着していました。
休む間もなく、ラシードはアルディナを治める領主のもとへ向かいます。
「転送機を使わせてもらう」
領主は、驚いたように目を見開きました。
「ラシード様。いくらあなた様でも、それはあまりに横暴です。女王陛下の許可もなく、転送機を動かすことはできません」
「こういう緊急事態で使わずに、いつ使うのだ」
ラシードの声は、いつになく鋭いものでした。
「お前も、リリア様には世話になっただろう。いや、この国そのものが、あの方に救われた。今、私たちがここにあるのは、リリア様のおかげだ」
領主は言葉を失いました。
ラシードは、その沈黙を逃さず続けます。
「感謝しているなら、今は迷うな」
領主はしばらく迷っていましたが、やがて深く息を吐きました。
「……分かりました」
「私が使ったあとは、ただちに魔力を補充しておいてくれ。どうせ怒られるからな……」
ラシードは苦笑し、転送機へ向かいました。
「では、怒られに行ってくる」
そう言って、ラシードは光の中へ消えていきました。
ラシードは王都ハルディアの王宮に着くと、着替える間もなく女王の執務室へ向かいました。
長い廊下を進むラシードの後ろから、女王の側近たちが慌てて追いかけてきます。
「ラシード様、まだ謁見の許可が下りておりません。お待ちください」
「それに、そのお姿では……」
ラシードはそんな声を聞き流し、執務室の扉を叩きました。
「どうぞ」
中から返ってきた声を聞くなり、ラシードは扉を開けました。
サフィーラ女王は、執務室で書類の山に囲まれています。
先の戦いの事後処理は、まだ片づく気配もありませんでした。
「相変わらず、騒がしいわね。あなたの務めはどうしたのですか」
サフィーラ女王は呆れたように言いましたが、すぐに表情を変えました。
「まさか……リリア公爵に、何かあったのですか」
その時、後を追ってきた側近たちが、慌てた様子で部屋へ入ってきました。
「申し訳ございません。お止めしたのですが……」
サフィーラ女王は、片手を軽く払うようにして、下がるよう合図しました。
側近たちは一礼し、部屋を出ていきました。
「叔母上、ありがとうございます。リリア公爵は、こちらにいた時よりは、だいぶお元気になられました。ですが、根本的なことは何も解決していません」
「そうですか……」
サフィーラ女王の表情が沈みました。
「では、あなたは何をしにここへ来たのです」
「まず、お詫びします。アルディナの転送機を使用しました」
サフィーラ女王の眉が動きました。
ラシードはその反応を受け止めながらも、言葉を続けました。
「そのうえで、お願いがあります。サライナに残されている転送機の魔石を貸してください」
「サライナの魔石を?」
ラシードは、まっすぐに女王を見ました。
「はい。リリア様の願いの一つです。蒼月――あの銀狼の呪いに関わることで、使わせていただきたいのです」
サフィーラ女王は、しばらく黙っていました。
やがて、深く息を吐きました。
「……分かりました」
サフィーラ女王は、頷きました。
「あなたの責任で、好きに使いなさい」
「ありがとうございます」
女王は、首を横に振りました。
「リリア公爵には、礼を尽くしても尽くしきれません。どうぞ、お体を大切になさるようお伝えください」
そう言ったサフィーラ女王の瞳に、涙が滲みました。
サフィーラ女王はしばらく黙ったのち、机の上に積まれた書類へ視線を落としました。
「あれから魔物も瘴気も全く現れなくなりました。そのことをまとめた書簡を用意させています。出立前に、執務官から受け取っておきなさい」
「分かりました」
女王は、さらに言葉を継ぎました。
「それと、サライナまでは転送機を使いなさい」
ラシードは、思わず顔を上げました。
「ですが、一年は経っていません。魔力はまだ戻りきっていないのでは……」
「何かあるかもしれないと思い、普段より多く魔石に魔力を注がせていました。完全ではありませんが、サライナまでなら使えるでしょう」
ラシードは、深く頭を下げました。
「はい、ありがとうございます」
ラシードが部屋を出ようとした、その時でした。
「ラシード」
サフィーラ女王の声が、背中に届きました。
「あなた自身も少しは休みなさい。髪は乱れ、目は落ちくぼみ、顔色もよくありません。服装はともかく、ろくに眠っていないのでしょう」
ラシードは、扉の前で足を止めました。
「サライナまでの日程は短縮できます。出発は明日にしなさい」
「分かりました」
そう言って、ラシードは用意された客室へ向かいました。
湯浴みを終え、ようやく鏡の前に立つと、思わず苦笑がこぼれます。
「我ながら、ひどいな。はは」
けれど、その笑いはすぐに消えました。
ラシードは長椅子に腰を下ろし、明日向かうサライナのことを考えていました。




