第五十六話 地下神殿 紡がれる願い一
無理を重ねてきた代償は、熱となってリリアの身体を苛みました。
抗えない眠りに落ちたあとも、その青白い表情にはかすかな不安の影が残っています。
蒼月はしばらく、眠るリリアを見つめていました。
――リリア。
心の中で呼びかけても、深い眠りの底にいるリリアには届きませんでした。
蒼月は身を起こします。
そして、誰にも気づかれぬよう部屋を出ました。
地下神殿の最奥の石室に着くと、蒼月は足を止めました。
そこには、昨日、淡く光を放った魔法陣があります。
床に刻まれた古い線だけが闇の中に沈んでいます。
――魂を縛る古き鎖を緩めたまえ。
壁に刻まれた言葉が、胸の奥で響きました。
蒼月は魔法陣へ近づこうとして、足を止めます。
――触れれば、また光るかもしれない。何かが変わるかもしれない。けれど、それが呪いを緩めるものなのか、さらに深く縛るものなのか……。
――リリアは、あの弱った身体で、また俺のために無理をしようとする。
その姿を思い出した瞬間、蒼月の胸の奥が、きしむように痛みました。
――俺のせいで、リリアの生命力と魂を削らせてしまった。こんなことになるのなら、森で出会わなければよかったのか。リリアの優しい心に宿った浄化の力に、手を貸さなければよかったのか。根本にある原因は、すべて俺なのではないか。
――それでもリリアは、残り少ない時間の最後の願いとして、俺の呪いが解けることを望んだ。その願いに報い、リリアの笑顔が見たい。リリアのそばに、もっと近い形で在りたい。泣きそうな顔をしたリリアを、ただ見つめているだけではなく、その痛みごと抱きしめてやりたい。
蒼月は、陣の中央に進み、壁に刻まれた古代文字を見上げました。
――大地の女神よ。月の光を受けし水よ。我が名を呼ぶ者の声を聞け。その絆に応じ、魂を縛る古き鎖を緩めたまえ。
心の中で文字を読み上げた瞬間、床の魔法陣が淡く光りました。
光は蒼月の足元から広がり、銀の毛並みを下から照らします。
次の瞬間、蒼月の身体に絡みつく黒い鎖が、闇の中に浮かび上がりました。
幾重にも重なった黒い鎖が、蒼月の魂そのものに絡みついているようでした。
光の中で、それは揺れている。
「蒼月!」
鋭い声が、石室に響きました。
蒼月が振り返ると、通路の入口にアステルが立っていました。
その後ろには、灯りを手にした星術師たちが控えています。
「何をしているのですか」
アステルの声は、これまでになく厳しいものでした。
蒼月が魔法陣の外へ出ると、床の光はふっと消えました。
同時に、黒い鎖も闇に溶けるように見えなくなります。
アステルは、蒼月へ近づきました。
「どこか痛みはありませんか。身体に異常は?」
蒼月は、顔を伏せました。
その声を聞けるリリアは、ここにはいません。
けれど、その静かな仕草だけで、アステルはある程度察したようでした。
「よかった。異常はない、ということですね」
アステルは魔法陣を見下ろしました。
その瞳には、強い警戒と、抑えきれない探究心が同時に宿っていました。
「蒼月。もう一度だけ、できますか。ただし、少しでも異変があれば、すぐに外へ出てください」
蒼月は、銀の尾をふわりと揺らしました。
そして、もう一度魔法陣の中央へ進みます。
壁の文字を見上げ、先ほどと同じように心の中で読み上げました。
――大地の女神よ……その絆に応じ、魂を縛る古き鎖を緩めたまえ。
魔法陣が再び光りました。
淡い光が床を走り、蒼月の身体に絡みつく黒い鎖が、今度ははっきりと浮かび上がります。
アステルは杖を構え、慎重に魔法陣の内側へ先端を差し入れ、異常がないことを確認しました。
「……陣そのものは、外から触れても害を及ぼすものではない」
そう判断したアステルは、さらに慎重に一歩踏み込みました。
そして、蒼月の身体に絡みつく黒い鎖へ手を伸ばします。
けれど、指先は鎖をすり抜けました。
アステルの眉が動きました。
もう一度、角度を変えて触れようとします。
しかし、結果は同じでした。
「実体がない……いえ、こちら側には存在していないのか」
アステルは低く呟きました。
「見えているのは、呪いそのものの姿。ですが、物質として触れられる鎖ではない」
蒼月は、黒い鎖をまとったまま、アステルを見ました。
アステルはその視線を受け、厳しい表情で頷きます。
「分かりました。今日はここまでです。これ以上は危険です」
魔法陣の光が、まだ蒼月の足元で揺れていました。
黒い鎖は、淡い光の中に浮かび上がっています。
アステルは魔法陣へ視線を戻しました。
「まずは、この陣を正確に確認する必要があります」
アステルは、そばに控えていた星術師たちへ指示を出しました。
「床に積もった石片と土を取り除いてください。ですが、刻まれた線を傷つけてはいけません。少しずつ、慎重に」
星術師たちは頷き、魔法陣の周囲へ散っていきました。
布と細い筆を使い、床に積もっていた砂埃や小さな石を丁寧に取り除いていきます。
長い年月の間に沈んでいた古い線が、少しずつ姿を現しました。
蒼月は魔法陣の外へ出て、その様子を見つめている。
やがて、床に刻まれていた円と線が、はっきりと見えるようになりました。
複数の円が重なり、その間を古代文字が囲むように刻まれています。
壁に刻まれていた文字と似た形も、いくつか混じっていました。
アステルは膝をつき、魔法陣をじっと見つめました。
「ここまで見えれば、解析は進められます」
アステルは顔を上げ、蒼月を見ました。
「蒼月。リリア殿が心配します。あなたは戻った方がよいでしょう」
蒼月はそのまま、眠るリリアのもとへ戻っていきました。
アステルは、魔法陣の中心に近い部分へ目を凝らします。
床に積もっていた石片と土を取り除いたことで、先ほどまでは見えなかった魔法陣の中央に、細い切れ目があることに気づきました。
「……ここだけ、線が切れている」
円を描くように、意図して彫られた溝でした。
アステルは息を潜め、指先をその溝へ添えました。
少しだけ力を込め、円に沿って石を回します。
カチリ。
冷たい石の奥から、小さな音が響きました。
次の瞬間、はめ込まれていた円形の石板が、隠されていた蓋のように少しだけ浮き上がりました。
「外せるかもしれません」
星術師に細い金属の器具を持ってこさせ、切れ目に差し込ませます。
「無理にこじ開けないでください」
アステルは声を抑えました。
「少しずつです」
数人が慎重に作業を進めると、円形の石の蓋のようなものが、ゆっくりと外れました。
その下には、丸いくぼみがありました。
くぼみの内側には、細かな古代文字が刻まれています。
形は、何かを納めるために作られたもののようでした。
アステルは、くぼみをじっと見つめました。
「これは……魔石をはめるための受け口かもしれません」
星術師たちの間に、緊張が走りました。
その時、控えの間で石板を調べていた星術師が、写しを手に近づいてきました。
「アステル様」
星術師は、手元の紙と魔法陣を見比べながら言いました。
「先ほど解析していた石板ですが、もしかすると、この魔法陣の使い方に関わる記述があるかもしれません」
アステルの表情が変わりました。
「読めるのですか」
「まだ断片です。ですが、円、光、石、鎖という語が並んでいます」
石室に、重い沈黙が落ちました。
アステルは、魔法陣の中央に開いた丸いくぼみを見下ろしました。
「やはり、この陣を正しく動かすには、魔石が必要なのかもしれませんね」
星術師たちは、すぐに石板の写しと魔法陣の線を照らし合わせ始めました。
アステルはしばらく黙ってそれを見守っていましたが、やがて口を開きます。
「リリア殿には、体調が戻ってからお伝えしましょう」
その声に、星術師たちが顔を上げました。
「今、無理に起こすべきではありません。蒼月の鎖が見えたこと。我々には触れられなかったこと。そして、この陣に魔石をはめる受け口らしきものが見つかったこと」
アステルは、眠っているはずのリリアがいる方角へ、目を向けました。
「すべて、リリア殿が回復してから話します。それまでに、どうしたら起動できるのか考えましょう」
翌朝、アステルは昨夜の出来事をラシードへ伝えながら、再び地下神殿へ下りました。
魔法陣の中央には、昨夜見つかった丸いくぼみが口を開けている。
アステルはその前に膝をつき、内側に刻まれた細かな古代文字を確かめました。
「ここに魔石をはめるようにできています」
ラシードは、くぼみを見下ろしたまま目を細めました。
「……大きさは、王都ハルディアの転送機に使われていた魔石に近いですね」
アステルが顔を上げました。
「王都ハルディアの転送機に使われていた魔石ですか」
「ええ。ただ、あれは転送に使えば魔力が空になります。ここで使うなら、サライナに残された魔石を確かめる必要があります」
ラシードは、言葉を続けました。
「その前に、女王陛下へ許可をいただかなければならない」
ラシードは、そこで小さく息を吐きました。
「いったん、私はアルディナの転送機を使って、陛下のもとへ戻ります。そこで許可をいただいてから、砂漠を越えてサライナへ向かう。サライナに残された魔石を持って、またここへ戻ってくる」
アステルは、思わずラシードを見ました。
「確かな話ではないのに、ラシード様はそこまでしてくださるのですか」
「可能性があるなら、すべて試した方がいい。リリア様のためにも」
ラシードは、少しだけ苦笑しました。
「ただ、帰りは砂漠越えです。私の足でも、一か月半から二か月。砂嵐次第ってところですね」
アステルが眉を寄せました。
「それと、転送機を勝手に使ってしまって大丈夫なのですか」
「怒られるでしょうね」
ラシードは、軽く肩をすくめました。
「ですが、王宮のものほど重要ではありません。多分、大丈夫です」
いくらリリアのためとはいえ、他国の者であるラシードにそこまで負わせてよいものなのか。
アステルはしばらく沈黙したあと、尋ねました。
「それでも、罰せられるのではありませんか」
ラシードは少しだけ視線をそらし、観念したように小さく息を吐きました。
「……女王陛下は、私の叔母です。多分、私には甘い……」
アステルが目を見開きました。
「なんと、ラシード様は王族の親戚なのですか」
「一応……」
ラシードは、ばつが悪そうに頬をかきました。
「迷っている時間も惜しい。私はすぐに発ちます」
ラシードは旅支度を整えると、アルディナへ向かうため、王宮をあとにしました。
――リリアのために、できる限りのことをする。
ラシードは、砂漠へ続く道へ歩き出しました。




