第五十五話 地下神殿 魔法陣
ラシードに抱えられながら奥へ進むと、石壁のそばに立っていた人物が振り返りました。
「ルーク!!」
リリアの声が、思わず弾みました。
ルークは驚いたように目を見開き、それからすぐに表情を和らげました。
「お久しぶりです。リリア様」
「ルーク、どうしてここに?」
ルークは、少しだけ肩をすくめました。
「今はアステル様の下で、調査のお手伝いをしております。リリア様のお世話は、すっかりセシリア様に取られてしまいましたので」
少しだけ冗談めかした声でした。
リリアは思わず笑いました。
「そんなことないよ。ルークに会えて嬉しい」
ルークは一瞬だけ、リリアを抱えているラシードへ視線を向けました。
少し羨ましそうな色が浮かびましたが、すぐに小さく首を振ります。
「リリア様、今日はお加減がよいのですか」
「うん。少し見に来たの」
転送機の前では、アステルと星術師たちが作業をしています。
ラシードは、まず転送機を見せてくれました。
それは、サハルディア王国で見た転送機とよく似ている。
ラシードは、床に刻まれた古い線を見下ろしながら、ふっと息を吐きました。
「もし、これが使えるようになれば、ここからサハルディアまで行き来できるようになる。まあ、膨大な魔力は必要だろうがな。俺が帰っても、一年に一度くらいは会えるぞ」
リリアは、目を伏せました。
「そうですね」
短く答えた声は、少しだけ沈んでいました。
ラシードはそれに気づいていながら、あえて気づかないふりをしました。
「それとも、俺のところに嫁に来るか? 俺はまだ独身だ」
「いやです」
リリアは、きっぱりと首を横に振りました。
「ははははは。即答か」
リリアも、つられて小さく笑います。
「ふふ」
ラシードは、リリアを抱えたまま最奥の部屋へ進みました。
そこには、古代文字が刻まれた壁がありました。
淡い灯りに照らされた文字は、長い年月を経てもなお、はっきりと石の表面に残っています。
「ここが、地下神殿の最奥だ」
ラシードは壁を見上げながら言いました。
「この文字も、まだ半分も解析できていない。王宮の記録にも、詳しいことはほとんど残っていないんだ」
リリアは、ラシードの腕の中から壁を見つめました。
意味の分からない文字が、幾重にも連なっています。
けれど、その文字を見た瞬間、蒼月が足を止めました。
蒼月は、壁に刻まれた文字を心の中で読み上げていました。
――大地の女神よ。月の光を受けし水よ。我が名を呼ぶ者の声を聞け。その絆に応じ、魂を縛る古き鎖を緩めたまえ。
蒼月の声は、低く、どこか遠い響きを帯びています。
まるで、蒼月自身が唱えているというより、そこに刻まれた言葉をなぞっているようでした。
リリアは息を呑みました。
今の言葉が何を意味するのか、すぐには分からない。
けれど、最後の一文だけが、胸の奥に深く残りました。
魂を縛る古き鎖。
それは、蒼月を縛っているもののことではないのか。
そう思った瞬間、蒼月の前足が、床に刻まれた細い線へ触れました。
次の瞬間、床の古い文様が淡く光り出しました。
「下がって!」
アステルの声が響きました。
蒼月はとっさに身を翻し、光の中心から飛び退きました。
リリアを抱えていたラシードも、一歩後ろへ下がります。
光は、蒼月が離れた瞬間、ふっと消えました。
石室に静けさが戻ります。
アステルが、ゆっくりと床へ視線を落としました。
「今の反応は……」
ラシードの表情が強張りました。
「蒼月に反応したのか」
蒼月は、光の消えた床を見つめたまま動きませんでした。
リリアもまた、胸の奥に残る不思議な震えを感じています。
アステルが、床に浮かんだ魔法陣の跡を見つめたまま問いかけました。
「今、何が起きたのですか」
リリアは、蒼月を見ました。
蒼月は壁に刻まれた古代文字を見上げています。
「蒼月の心の中に、何か古い詩のような言葉が浮かんでいました」
「蒼月が?」
アステルの視線が、蒼月へ向きました。
その場にいた星術師たちも、息を呑んだまま蒼月を見つめています。
――俺は、この文字が読める。
蒼月の声が、リリアの胸の奥に届きました。
「えっ」
リリアは思わず声を漏らしました。
ラシードが、リリアの顔を覗き込みます。
「どうした」
「アステル様、蒼月はこの文字が読めるそうです」
アステルの表情が変わりました。
「なんと……信じがたいことですが、何と書かれているのですか」
リリアは、もう一度蒼月を見ました。
蒼月は壁の文字を追うように、視線を動かしています。
リリアは、蒼月の言葉をそのまま声にしました。
「大地の女神よ、月の光を受けし水よ。我が名を呼ぶ者の声を聞け。その絆に応じ、魂を縛る古き鎖を緩めたまえ」
リリアは小さく息を吸いました。
「最後に……、これは、鎖を解き放つもの、と書かれているそうです」
石室の空気が張り詰めました。
アステルは、床の魔法陣と、壁の古代文字を見比べています。
「鎖を、解き放つもの……」
その声は、ほとんど独り言のようでした。
けれど、リリアにはそれ以上聞き続ける余裕がありませんでした。
瞼が、ゆっくりと重くなっていきます。
ラシードに抱えられているはずなのに、身体の奥から力が抜けていくようでした。
「リリア様」
ルークがすぐに近づきました。
リリアは返事をしようとしましたが、声がうまく出ません。
視界の端で、蒼月の銀の毛並みがかすかに揺れました。
アステルが、小さく息を吐きました。
「続きは明日にしましょう」
その声には、はっきりとした判断がありました。
「今は、リリア殿を休ませることが先です」
翌朝、リリアは驚くほど早く目を覚ましました。
「蒼月、蒼月」
寝台から身を起こしたリリアは、すぐそばにいた蒼月へ声をかけました。
「昨日の文字、どうして読めたの?」
蒼月は、寝台のそばからリリアを見上げました。
「しかも、魔法陣が光ったよ」
――分からぬ。
蒼月の声が、リリアの胸の奥に届きました。
――読める理由も分からぬ。
リリアは、膝の上で両手を握りました。
「蒼月にも、分からないの?」
――ああ。
蒼月は少しだけ目を伏せました。
――俺は……。
そこで、蒼月の声は途切れました。
リリアはそれ以上問い詰めることができず、ただ黙って蒼月を見つめることしかできませんでした。
昼頃、アステルとラシードがリリアを訪ねてきます。
セシリアが、二人を迎えます。
「申し訳ございません。リリア様は朝早くからお目覚めになり、蒼月様のことをずっと気にされておりました。今はお休みになっております」
アステルは寝台の方へ目を向けました。
「では、目を覚ますまで待ちましょう」
ラシードも頷きます。
「そうだな。無理に起こす話ではない」
二人は客室へ移り、話し始めました。
ラシードが低く問いかけました。
「あれは、いったい何だったのでしょう」
アステルは懐から小さな水晶を取り出し、手をかざしました。
透明な水晶の奥に、淡い光が揺れます。
やがて、その中に蒼月の姿が映りました。
蒼月の身体には、幾重にも黒い鎖のようなものが巻きついています。
それは身体の表面にあるのではなく、もっと深いところ、魂そのものに絡みついているように見えました。
ラシードの表情が強張ります。
「これは……」
「これが、蒼月にかけられている呪いです」
アステルは水晶を見つめたまま答えました。
その声は静かでしたが、重みがありました。
ラシードが呟きます。
「鎖のようですね」
「そうです。鎖です」
アステルは頷きました。
「昨日、壁に刻まれていた古代文字にも、鎖という言葉がありました。蒼月が読んだ通りなら、あの魔法陣は、この鎖に干渉するものです」
ラシードは水晶の中の蒼月を見つめました。
「つまり、地下神殿に眠っていたものは、蒼月の呪いに反応した」
「その可能性が高いです」
アステルは慎重に言いました。
水晶の中で、黒い鎖は蒼月の身体に絡みついたまま、かすかに揺れている。
その後、リリアが目を覚ましたため、アステルはもう一度地下神殿へ向かうことを提案しました。
「蒼月に、壁の文字を読んでもらえませんか」
アステルの声は慎重でした。
「どの文字がどの言葉に当たるのか分かれば、我々にも他の壁の文字を読めるようになるかもしれません」
リリアは蒼月を見ました。
「蒼月、お願いできる?」
――ああ。
そうして、一行は再び地下神殿へ向かいました。
最初に確認したのは、転送機の周囲に刻まれていた文字でした。
蒼月が文字を読み、リリアがその声を聞き取ります。
リリアが言葉にした内容を、アステルと星術師たちが紙に書き留めていきました。
次に、通路の壁に刻まれた古代文字。
さらに、控えの間に置かれていた石板。
蒼月は一つ一つ視線を動かしながら、読める文字をリリアへ伝えました。
リリアはそれを声に出し、星術師たちは文字の形と意味を照らし合わせていきます。
長い時間をかけて、いくつもの言葉が記録されました。
すべてを読み終えた頃には、アステルの手元に厚い記録の束ができていました。
「ありがとうございます、リリア殿、蒼月」
アステルは深く息を吐きました。
「ここまで分かれば、あとは我々で照合して読める部分も増えるはずです」
星術師たちも、緊張した面持ちで記録を抱えています。
リリアはほっと息をつきました。
けれど、すぐに最奥へ続く通路の方を見ました。
昨日、魔法陣が現れた部屋は、この先にあります。
「アステル様」
リリアは小さく声を上げました。
「もう一度、あの部屋に行きたいのです」
アステルの表情が強張りました。
「リリア殿、それはいけません。何が起こるか分かりません」
「でも、鎖を解くと書かれていました」
リリアは蒼月を見ました。
「蒼月、私もいるわ。行きましょう」
――リリア。
蒼月の声には、ためらいがありました。
リリアは頷きます。
「危険だと分かったら、すぐにやめます」
そう言いながらも、リリアは抗えない睡魔に襲われました。
瞼がゆっくりと落ちていき、立っていることさえ難しくなっていきます。
ラシードが言い、リリアを抱き上げました。
「今日はここまでだな。部屋へ戻そう。この話は、また後日だ」
アステルも頷きました。
「今は、リリア殿を休ませることが先です」
リリアは何かを言おうとしましたが、声になる前に、ラシードの腕の中で目を閉じました。
――蒼月。
眠りに落ちる直前の声が、かすかに蒼月へ届きました。
ラシードはリリアを抱えたまま、地下神殿の通路を戻っていきます。
蒼月は、その少し後ろを歩きます。
腕の中で眠るリリアの顔は、まだどこか不安そうでした。
蒼月は、リリアを抱えるラシードの背を見つめていました。
――もし、自分にも人間のような腕があったなら。リリアを抱き上げ、その震えを包み込むように抱きしめ、安心して眠るまでそばで慰めることができたのに。
己の生存や本能のためではない願い。
長い時を生きてきた蒼月が初めて抱いた、誰かのための願いでした。




