第五十三話 儚い魂の果てに
王都グランリューネへ戻った翌朝、ラシードは王宮の謁見室へ通されました。
砂漠の国の衣をまとい、ラシードは歩を進めます。
その手には、サフィーラ女王の封蝋が押された書状。
玉座にはアレクシス王が座し、傍らには王太子レオンと第二王子セドリック、少し離れてハインリヒ、ローガン、ヴィクトル、アステルが並んでいました。
ラシードは玉座の前で膝をつき、深く頭を下げました。
「サハルディア王国サライナ領主、ラシード・アル=ハーリド、サフィーラ女王の命により参上いたしました」
差し出された書状には、リリアの容体が落ち着くまでラシードをグランヴァルド王国に留め置きたいという、サフィーラ女王の願いが記されていました。
サハルディア側で見聞きしたことを伝え、必要があれば今後の連絡役を務めさせるためでした。
アレクシス王は書状を閉じ、ラシードを見つめます。
「サフィーラ女王の御心、確かに受け取った。リリアを王都まで送り届けてくれたこと、グランヴァルド王国として礼を言う」
「礼を受けるべきは、私ではございません」
ラシードの声は低く、静かでした。
「サハルディア王国を救ったのは、リリア様です」
その言葉に、謁見室の空気が沈みました。
アレクシス王は深く頷き、ラシードの滞在を許すと、アステルへ視線を向けました。
「このあと、詳しく報告せよ。ラシード殿にも同席してもらう」
王宮奥の会議室には、すぐに人が集められました。
卓上にはサハルディア周辺の地図が広げられ、アステルが報告に立ちました。
「今回の戦場で最も異常だったのは、魔物の動きです。単なる群れではなく、指揮を受けた軍のように動いていました。我々の進軍速度、浄化範囲、陣の展開に要する時間まで測られていたと思われます」
アステルは、地図上の一点を指しました。
「結果として、我々は閉ざされた門の前まで誘導され、完全に包囲されました。気づいたのは、すべてが終わったあとです」
魔物は負傷兵を生きたまま瘴気へ引きずり込み、魔物へ変えて、こちらへ差し向けてきたこと。
兵を救うには、瘴気の濃い地域へ進むしかなかったこと。
敵はそれすら理解して、待ち構えていたこと。
報告が進むほど、会議室の空気は重くなっていきました。
「包囲後、敵は本陣へ黒い結晶を投げ込みました」
ハインリヒが問いました。
「リリアは、その近くにいたのか」
「はい。本陣中央で浄化を続けておられました。そして魔物は、明らかにリリア殿一人を狙っていました」
誰も、すぐには言葉を発しませんでした。
「黒い結晶をリリア殿へ突き立てようとした魔物を、蒼月が弾き飛ばしました。ですが攻撃はさらに激しくなり、蒼月はとうとう魔物に足を掴まれました。それでも、その魔物が再びリリア殿へ迫った瞬間、蒼月は自ら足を引き裂いて飛び込み、その身で黒い結晶を受けたのです」
ローガンの眉間に、深い皺が刻まれました。
「あの銀狼が……」
「その瞬間、リリア殿の中で、抑えていたものが外れました。天を覆うほどの巨大な浄化の陣が展開され、全ての魔物が一瞬にして消え去りました。翡翠色の光の波紋は、サハルディア王国全域へ広がっていきました」
レオンが、拳を握りました。
「それで、リリア殿は」
「本来の魔力量、身体の耐久、魂への負荷。どれを取っても、人が扱える範囲を超えていました」
アステルは、一度言葉を切りました。
「リリア殿は、生命と魂を削られました。眠り続けているのは、身体を休めているだけではありません。失われたものを、残された力でつなぎ止めている状態に近いと思われます」
ハインリヒの手が、卓の下で強く握られました。
ラシードが、そこで初めて口を開きました。
「サハルディアの兵たちも、同じものを感じておりました。こちらが助けに動く場所へ、必ず次の危機が起きた。リリア様が誰を見捨てられないのか、それすら見透かされていたように思います」
会議室に、重い沈黙が落ちました。
アレクシス王が、静かな声で告げます。
「リリアを守る体制を見直す。離宮、星術院、騎士団、すべてだ。敵はリリアの力を知った。次に何を狙うか、こちらも考えねばならぬ」
騎士団は警備を組み直し、星術院は敵の目的の分析と黒い結晶の報告の見直しを始めることになりました。
ハインリヒが口を開きました。
「離宮の見舞いは、私からも制限を徹底させます。リリアには、今度こそ休ませねばなりません」
アレクシス王は、深く息を吐きました。
「サハルディア王国を救った者を、今度は我らが守る」
会議室の全員が、頭を下げました。
けれど、あれほど各地から届いていた魔物被害の報告は、ぷつりと途絶えたまま、数か月が過ぎました。
離宮の窓から、やわらかな朝の光が差し込んでいます。
その向こうの薬草畑は、リリアが戻った日とは違う色の葉を広げていました。
窓辺に添える葉を、セシリアはもう何度摘み替えたか分かりません。
リリアはようやく寝台を離れ、鏡の前の椅子に座れるようになっていました。
まだ長く歩くことはできません。
けれど、自分の足で立てるようになっただけで、離宮の者たちは皆、胸を撫で下ろしていました。
セシリアは、リリアの後ろに立ち、金色の髪に櫛を通しています。
その手が、ふと止まりました。
金色の髪の奥に、一房だけ淡い銀色に変わった髪が混じっている。
光の加減ではありません。
その一房だけが銀糸の束のように、朝の光を受けています。
セシリアの指先が、かすかに震えました。
リリアは鏡越しにそれを見て、小さく首を傾げました。
「ねえ、セシリア。これはこれで、蒼月とおそろいみたいで素敵じゃない?」
その声は、いつもより少しかすれていました。
けれど、リリアは穏やかに笑っています。
セシリアの瞳から、涙がこぼれました。
それでもセシリアは、震える手で櫛を握り直しました。
「そうですね」
涙声でした。
けれど、その言葉だけは、まっすぐでした。
「とても、お綺麗です。リリア様」
リリアは、鏡の中の自分を見つめます。
金色に混じった淡い銀色の一房は、失ったものの証のようでもありました。
それでもリリアは、微笑みました。




