第五十一話 砂漠の国サハルディアとの別れ
リリアはまだ、長く話せる状態ではありませんでした。
アステルはリリアの体力を見ながら、面会を最小限に抑えていました。
サフィーラ女王からは、毎日のように見舞いの言葉と必要な品が届けられています。
翌日に転送を控えたその日、アステルはようやく、短い面会だけを許可しました。
それは、リリアがサハルディア王国を離れる前に、どうしても会っておくべき者たちのため。
扉の前で、ラシードは一度だけ息を吐きました。
きちんと整えられていた髪に指を差し入れ、わざとくしゃっと乱します。
サライナでカリムとしてリリアたちの前に現れた時のように、少しだけ肩の力を抜きました。
ラシードは、扉を叩きました。
少し間を置いて、中からエレナの声が聞こえます。
「どうぞ」
扉を開けると、柔らかな光に包まれた部屋の中で、リリアが寝台に横たわっていました。
寝台のそばには蒼月が伏せ、エレナがラシードを迎えます。
ラシードは寝台のそばへ歩み寄り、声をやわらげて言いました。
「どうだ?」
リリアはゆっくりと瞬きをし、頭を上げようとしました。
「ラシード様」
ラシードは片手を軽く上げ、小さく笑いました。
「そのままでいい。それと、ラシードでいい」
リリアの顔には、戸惑いの色が浮かんでいました。
「でも……」
ラシードは少し苦笑しました。
「病人は言うことを聞くものだ」
「では、私のこともリリアとお呼びに……」
ラシードの眉が、少し上がりました。
「わかった」
ラシードは、リリアへ穏やかに語りかけました。
「リリア、明日出発だ。できるだけ負担を軽くするつもりだが、つらくなったら遠慮なく言うんだ。無理をしてはいけないよ」
「わかりました」
その時、扉の外から静かな声が聞こえました。
エレナが扉へ向かい、開きます。
そこに立っていたのは、サフィーラ女王。
ラシードはすぐに姿勢を正し、深く頭を下げました。
「女王陛下」
サフィーラ女王は小さく頷き、寝台のそばへ歩み寄りました。
リリアは起き上がろうとしましたが、女王は手を上げました。
「そのままで構いません」
リリアは動きを止め、寝台に身を預けたまま女王を見上げました。
「サフィーラ女王陛下……」
サフィーラ女王は、リリアの前で足を止めました。
「リリア公爵。改めて、礼を言わせてください」
そう言って、サフィーラ女王はリリアへ深く頭を下げました。
「あなたは、サハルディア王国を救ってくださいました。王都ハルディアも、前線の兵たちも、サライナの民も、この国の民は、あなたがいなければ、今ここにはいなかったでしょう」
リリアは驚いたように目を見開きました。
「女王陛下、どうか頭をお上げください」
サフィーラ女王は、ゆっくりと頭を上げました。
「本当に、ありがとうございました」
リリアは小さく息を吸いました。
「私は、できることをしただけです」
サフィーラ女王の瞳が揺れました。
「その言葉を、私たちは決して軽く受け取りません」
部屋の中に、沈黙が落ちました。
サフィーラ女王は、ラシードへ視線を向けました。
「それと、ラシード」
その声には、先ほどまでリリアへ向けていた柔らかさとは違う、女王としての響きがありました。
「あなたはしばらくリリア公爵に付き添い、グランヴァルド王国へ滞在しなさい。書状をしたためました。これをグランヴァルド国王へお渡しなさい」
ラシードは姿勢を正し、慎重に口を開きます。
「ですが、魔石に注ぐ魔力は……」
「その役目は、他の者に任せます」
サフィーラ女王は迷いなく告げました。
「サハルディア王国として、あなたがリリア公爵のお力になりなさい」
ラシードは、深く息を吸いました。
「承知いたしました」
そう答えると、ラシードは深く頭を下げました。
――ありがとうございます、叔母上。
サフィーラ女王とラシードが部屋を出たあと、しばらくして、ガレス、ルーク、ミラがリリアの部屋を訪れました。
ガレスは寝台のそばで足を止め、頭を下げました。
「リリア様。私たちは本日、帰国の途につきます」
ルークとミラも、その隣で姿勢を正しました。
ミラが短く言いました。
「どうか、ご無理はなさらないでください」
ルークはリリアの顔を見て、少しだけ唇を引き結びます。
けれど、すぐに表情を整えました。
「また、グランヴァルド王国でお会いしましょう」
リリアは小さく頷きました。
「はい。皆さまも、どうかお気をつけて」
ガレスはもう一度深く頭を下げました。
「必ず、無事に戻ります」
三人はそれ以上リリアに負担をかけず、部屋を後にしました。
その日のうちに、ガレス、ルーク、ミラは残った護衛兵たちを率いて城を発ち、砂漠を渡る帰国路につく。
翌日、リリアは担架に乗せられ、王宮地下の転送機まで運ばれました。
エレナがそばにつき、蒼月は担架の横を歩いています。
転送機の置かれた地下の一室には、すでにサフィーラ女王が来ていました。
その後ろには、サハルディアの軍総司令官や軍務官、王宮の幹部たちも並んでいます。
女王たちは、担架に横たわるリリアを前に、深く頭を下げました。
担架を支えていた者たちは、転送機の手前で足を止めました。
アステルとエレナが進み出て、リリアの乗せられた担架を受け取ります。
二人は揺らさないよう慎重に歩き、転送機の陣の中央へリリアを運び入れました。
蒼月も、そのすぐそばへ進みます。
ラシードが中央の台座へ歩み寄り、魔石に手を触れます。
刻まれていた古い術式が、淡く光を帯び始めました。
低く響くような音が、地下の一室に広がります。
床に刻まれた陣が、外側から順に輝いていきます。
光はリリアの担架を包み、アステル、エレナ、蒼月、ラシードの足元まで広がりました。
サフィーラ女王は、瞬きもせずにその光景を見守っていました。
やがて、陣の光がひときわ強くなる。
白い光が地下の一室を満たした次の瞬間、陣の中にいた者たちの姿は、消えていました。
残された転送機の魔石だけが、淡い余光を宿している。
光が薄れていく中、最初に声を出したのはラシードでした。
「着いたぞ」
アステルは、リリアの担架を支えたまま、思わず周囲を見回しました。
「もう、ですか」
エレナも息を呑み、同じようにあたりを確認しました。
そこには、先ほどまで見送りに立っていたサフィーラ女王の姿も、軍総司令官や幹部たちの姿もありません。
部屋の造りはよく似ていました。
けれど、壁に刻まれた紋様も、置かれている灯も、サハルディア王宮の地下とは少し違っています。
転送機の起動に気づいたのか、外から慌ただしい足音が近づいてきました。
扉が開き、アルディナの見張りの兵が中を覗き込みます。
兵はラシードの姿を見るなり、驚いたように目を見開きました。
「ラシード様。どうなさったのですか」
ラシードはすぐに顔を上げました。
先ほどまでリリアに見せていた柔らかな表情は消え、そこには領主としての顔が戻っています。
「詳しい話は後だ。まず、この方を休ませたい。すぐに客室を用意しろ」
兵の視線が、担架に横たわるリリアへ向きました。
そのそばには蒼月が立ち、エレナとアステルが担架を支えています。
ラシードは短く告げました。
「上客だ。失礼のないようにしろ」
兵はすぐに姿勢を正しました。
「はっ。ただちに手配いたします」
そう答えると、兵は足早に部屋を出ていきました。
ラシードは、その日のうちに次の手配へ移りました。
リリアをグランヴァルド王国へ送るため、すでにグランヴァルド側にも早馬を飛ばしています。
道中でリリアの身体に負担がかからないよう、馬車には寝台を固定し、揺れを抑えるための改造を施すよう命じてありました。
水、薬、清潔な布、毛布、そして万一に備えた護衛の配置まで、細かな指示が次々と出されていきます。
その夜、ラシードのもとへ、サライナの諜報員が一人呼ばれました。
諜報員は部屋に入ると、すぐに膝をつきます。
「お呼びでしょうか」
ラシードは机の上に広げていた書状から顔を上げました。
「おう。俺はしばらく戻れない」
諜報員の顔が引き締まりました。
「夜の方は、副頭に任せる。伝えておけ」
諜報員は短く頷きました。
「承知しました」
ラシードは続けます。
「ナーディルには、表を支えるように伝えろ。それだけであいつは分かる」
諜報員が頭を下げました。
「すぐに伝えます」
ラシードは、少し声を落としました。
「サハルディアは戦で傷んだ。王都も、サライナも、まだ落ち着いたとは言えない。俺がいない間に、余計な火種を出すなと、二人に伝えろ」
「はい」
ラシードは椅子にもたれず、まっすぐ諜報員を見ました。
「俺が戻るまで、街を頼む」
諜報員は一度深く頭を下げ、部屋を後にしました。
残されたラシードは、机の上に置かれた書状へ視線を落とします。




