第五十話 リリアの願い
銀狼物語も、第五十話まで辿り着きました。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
第四十八話、第四十九話を経て、リリアたちの物語はまた大きな節目を迎えます。
第五十話も、どうか見届けていただけたら嬉しいです。
リリアが目を覚ましてから、数日。
水を少しずつ口にできるようになり、短い言葉なら交わせるまでに回復していました。
エレナとミラが献身的に身の回りの世話をしてくれたおかげで、重湯も喉を通るようになっています。
ルークもまた、何度もお見舞いに来ています。
ラシードはアステルを連れ、王宮地下の転送機へ向かいます。
王都ハルディアに戻り、衰弱したリリアの姿を見てから、サライナで見せていたカリムとしての顔は、ラシードの中で影を潜めていました。
その横顔には、いつもの軽やかさではなく、静かな緊張がありました。
薄暗い地下の一室に置かれていたそれは、古い祭壇のような形をしている。
中央には大きな魔石が据えられ、その周囲を囲むように、古代の文字と術式が刻まれています。
アステルは、その転送機を前にして足を止めました。
「……驚きました。王都グランリューネの地下神殿にも、これとよく似たものが保管されています」
ラシードが目を細めます。
「グランヴァルドにも、同じ系統のものが残っているのですね」
「はい。ですが、あちらは中央の魔石が砕けてしまっていて、長らく用途不明の古い遺物として扱われていました」
アステルの指先が、空中で古い文字をなぞるように動きました。
星術院長官としての知識が、目の前の術式を一つずつ拾っていきます。
「この魔石が膨大な魔力を受け止める核となり、周囲の術式が空間を繋ぐための座標を定めているのでしょう。もし王都側の魔石が無事であれば、グランリューネへ直接繋ぐこともできたかもしれません」
ラシードは、中央に据えられた魔石へ視線を向けました。
「ただし、転送には座標の設定と、転送先の転送機が稼働していることが必要です。現在、この転送機に登録されている座標は四か所ございます。今は、王族の避難場所であるサライナに設定されています」
そこで、ラシードはアステルへ向き直りました。
「これを、アルディナの街へ変更いたします」
アステルは、装置の中央にある魔石を見つめました。
「もし、この魔石が壊れていた場合は?」
「修理が必要になります。ですが、私たちにも修理まではできません」
ラシードの声が低くなりました。
「それに、一度使用すれば、転送した側の装置には、一年以上魔力を注ぎ込み続けなければなりません。それほど膨大な魔力を必要とするものなのです」
アステルは、刻まれた術式からゆっくりと視線を外しました。
「……これがいかにして作られ、なぜ両国に存在しているのか。星術師としては、時間をかけて調べたいところです」
アステルは息を整えました。
「ですが、今はリリア殿をグランヴァルドへ無事に帰還させること。それが最優先です」
その迷いのない声に、ラシードは深く頷きました。
その夜、部屋の明かりは落とされ、窓辺に置かれた小さな灯だけが淡く揺れています。
扉が開き、アステルが入ってきました。
リリアは寝台に横たわったまま、天井を見つめています。
「リリア殿、眠れませんか」
アステルは声を落として尋ねました。
リリアは、視線を天井に向けたまま、口を開きました。
「アステル様」
「はい」
短い間がありました。
「私は、あとどれくらい生きられるのでしょう」
アステルの足が止まりました。
その顔から、血の気が引いていきます。
すぐに言葉を返そうとして、けれど何も出てきませんでした。
「アステル様、そんな顔をしないでください」
リリアは小さく息を吸います。
それだけで胸が苦しくなり、言葉が少し途切れました。
「分かっているのです。私は、もう長くは生きられないのだと思います」
アステルは唇を引き結びました。
寝台のそばで、蒼月が顔を上げました。
リリアはその視線に気づき、ゆっくりと蒼月へ目を向けます。
蒼月も、きっと分かっているのだと思いました。
――リリア……。
アステルは深く息を吸います。
「……まだ、決まったわけではありません」
ようやく絞り出した声は、いつもの落ち着きを失っていました。
リリアはゆっくりと目を閉じました。
「そう言ってくださると思っていました」
アステルは寝台のそばへ歩み寄りました。
そして、掛布の上に置かれたリリアの手へ、自分の手を重ねました。
「リリア殿。あなたは、魂そのものを削って浄化を行いました。通常の魔力切れや、身体の消耗とは違います」
「はい」
アステルは、重ねた手に少し力を込めました。
「身体は少しずつ戻っています。傷も塞がりました。食事も、眠りも、時間をかければ整っていくでしょう」
そこで、アステルは一度言葉を切りました。
「ですが、削られた魂のすべてが戻るとは、私にも断言できません」
部屋の中に、重い沈黙が落ちました。
窓辺の灯が、小さく揺れています。
蒼月は、二人の会話を聞いていました。
リリアは天井へ視線を戻します。
「私は、怖くないと言えば嘘になります」
声はかすれていましたが、不思議なほど穏やかです。
「でも、あの場で浄化しなければ、もっと多くの人が消えていました。サハルディアの兵も、グランヴァルドから来た皆も、蒼月も」
アステルは何も返せず、目を伏せました。
「だから、後悔はしていません」
リリアは小さく笑おうとしました。
けれど、その表情はすぐに疲れに沈みます。
「ただ、少しだけ……悔しいです」
アステルの眉が痛みに歪みました。
「まだ、やりたいことがありました。母さまと、もっと話したかった。父さまとも、ルークとも、王妃様とも。エレナ様やミラ様に、もっと稽古を教えていただきたかった」
そこで、リリアの声が震えます。
「蒼月と、もっと一緒に歩きたかった」
蒼月が寝台のそばから、リリアへ顔を近づけました。
銀の毛並みが、灯の光を受けて淡く揺れています。
リリアは胸の奥にこみ上げるものを抱えたまま、蒼月の顔を見つめ続けました。
――リリア、俺もだ。
リリアの瞳が潤みます。
「……ごめんなさい、蒼月」
蒼月は、ずっとリリアを見つめていました。
アステルは息を吸いました。
「リリア殿。私は、最後まで探します」
その声には、苦しさがにじんでいました。
「星術院に戻れば、調べられることがあります。古い記録も、黒い結晶の性質も、必ず手がかりになるはずです」
アステルはまっすぐにリリアを見ました。
「あなたの命を支える方法を、私は必ず探します」
リリアはゆっくりと瞬きをしました。
「……ありがとうございます、アステル様」
そこで、リリアは蒼月へ目を向けました。
小さく息を吸います。
「アステル様」
「はい」
リリアの指が、掛布を握ります。
「蒼月の呪いを解いてくださいませんか」
アステルの表情が、かすかに強張りました。
蒼月もまた、寝台のそばでその言葉を受け止めていました。
「難しいことは分かっています。でも、私が消えてしまう前に、どうしても呪いを解いてあげたいのです」
部屋の空気が張りつめました。
窓辺の灯は、リリアの横顔を淡く照らしています。
リリアは蒼月を見つめたまま、続けました。
「蒼月は、ずっと私を守ってくれました」
リリアの声は弱く、それでもはっきりしていました。
「だから、今度は私が、蒼月を自由にしてあげたいのです」
――リリア。
蒼月の声が、心の奥に届きました。
アステルは息を整えます。
「リリア殿……。まったく、あなたという人は……。あなたの願い、確かに受け取りました。星術院に戻り次第、蒼月にかけられた束縛を調べ直します。必ず確認します」
リリアの瞳が、アステルへ向きました。
「ありがとうございます、アステル様」
「今は眠ってください。願いを叶えるためにも、まずは身体を戻していきましょう」
リリアは小さく頷きました。
それだけで疲れたのか、瞼が重く落ちていきます。
蒼月は寝台のそばで、眠りに落ちていくリリアを見守っていました。
――リリア。
今の蒼月にできることは、ただ名を呼び、リリアの近くにいることだけでした。
――この娘に、自分は何ができたのだろう。自分を守るために、生命力と魂までも削らせた。それなのにリリアは、さらに自分の呪いを解いてほしいと願った。
――俺は。いや、私は。この娘に、どれだけ恩を返せばよいのだろう。
どれだけ考えても、答えは見つかりませんでした。
窓辺の灯は、揺れ続けていました。




