第四十九話 代償
翡翠色の浄化の光が戦場を覆い尽くす直前、男の姿は音もなく掻き消えました。
次に男が現れたのは、瘴気の漂う城の中でした。
高い天井を持つ広間には、黒い靄が薄く満ちています。
壁に並ぶ燭台の炎は、赤黒く揺れていました。
広間の奥には、数段高くなった上座。
そこに、一人の男が腰を下ろしています。
長い黒髪は肩へ流れ、闇を映したような瞳が、戻ってきた男を見下ろしていました。
戦場から逃れた男は、すぐに片膝をつきます。
「戻りました」
上座の黒髪の男は、肘掛けに置いた指を動かしました。
「どうした? 地上を攻めていたのではないのか」
片膝をついた男は、深く頭を下げます。
「申し訳ございません。地上に、浄化を扱う女が現れました。その傍らには、女を守る銀狼がいて、それが厄介でございました。一か月かけて街の門前まで誘導し、追い詰めました」
男はそこで一度、言葉を切りました。
「銀狼に黒い結晶を突き刺し、あと一歩で、あの女を崩せるはずでした。ですが、あの女は限界を超え、魂を削るような浄化を行いました。あれほど巨大な浄化の陣など、見たことがありません」
上座の黒髪の男は、何も言わずに続きを促しました。
「陣は空を覆い、地上へ降りました。魔物も、瘴気も、我らが撒いた黒い結晶も、すべて力を失いました」
「そうか」
上座の黒髪の男は、うつむきました。
「しばらくは、一度退く。外に出ていた魔物を引き戻せ。お前が失った魔物も補充しなければならない」
男は、さらに深く頭を垂れました。
「申し訳ありません」
「よい。魔物の材料はいくらでもある。それに、こちらの時間は無限にあるのだからな」
男は顔を上げました。
「承知しました、魔王様」
「私は、まだ魔王ではない」
男は、上座を見上げたまま答えます。
「私にとってあなたは、すでに魔王様です」
その頃、サハルディア王国軍の戦場では、リリアの浄化の光が消え去り、深い静けさだけが残っていました。
その静けさの中で、誰かが震える声をこぼしました。
「勝った……」
「魔物が消えたぞ!」
その声をきっかけに、兵たちは互いに肩を抱き合い、歓喜の声を上げました。
「瘴気が晴れた!」
「リリア様が、救ってくださった!」
傷ついた兵たちの間に、リリアを称える声が広がっていきました。
「聖女様だ!」
けれど、ガレスはその声に応えることなく、気を失ったリリアを抱き起こします。
アステルがすぐに膝をつき、リリアの呼吸と脈を確かめます。
ヒールを唱えると、淡い光がリリアを包み、倒れた時に負った傷が塞がっていきました。
「外傷は塞ぎました。ですが、意識が戻りません」
ガレスが低く尋ねます。
「命は」
「あります。ですが、力を使いすぎています」
アステルは難しい顔のまま、リリアの様子を見つめていました。
蒼月も身を起こそうとしましたが、まだ身体に力が入りきりません。
それでもリリアの傍へ身を寄せます。
――リリア。
返事はありませんでした。
総司令官は、残った兵たちを見渡しました。
「伝令を出せ。王都へ知らせろ。魔物は消え、瘴気は晴れた。我らは勝利した」
総司令官は、担架に移されるリリアへ視線を向けました。
「リリア様が倒れられたことも伝えろ」
「はっ!」
伝令の兵が、早馬で王都へ向かいました。
残った兵たちは負傷者をまとめ、隊列を整え始めます。
リリアは、そのまま王都へ運ばれることになりました。
アステルは移動の間も、何度もリリアの状態を確かめていました。
やがて、数日をかけてリリア一行とサハルディア王国軍は、王都ハルディアへ向かって引き揚げていきます。
王都では、早馬の報せに人々が歓声を上げました。
瘴気が晴れ、魔物が消えた。
サハルディアは救われたのです。
けれど、軍務官たちや迎えに出た兵たちは、戻ってきた隊列の少なさに言葉を失いました。
王宮へ戻ると、リリアはすぐに寝台へ運ばれます。
浅い呼吸を繰り返すだけで、目を覚ます気配はありません。
蒼月は、片時もリリアから離れようとはしませんでした。
サフィーラ女王は、謁見の広間にて戻った者たちを迎えました。
「よく戻りました。サハルディアは、皆さまに救われました」
女王は、傷ついた兵たちへ深く頭を下げました。
「勝利を喜ぶだけでは足りません。命を落とした者たちのことも、国は決して忘れません」
アステルとガレスたちは黙って頭を下げました。
その夜、サフィーラ女王は、リリアの部屋を訪れました。
昼の間に、戻った兵たちへの労いと、負傷者の治療、亡くなった者たちの確認はすでに命じてあります。
部屋には、アステルとガレスが控えている。
蒼月は寝台の傍に伏せ、リリアを見つめていました。
女王は蒼月へ目をやり、それから寝台のリリアへ視線を向けました。
「報告は聞いています。リリア公爵は……」
アステルが答えました。
「身体の傷は治せました。ですが、あれほどの浄化を行うために、自分の魔力だけでは足りない分を、生命力と魂を削って補ったのでしょう」
女王の表情が沈みました。
「では……」
短い沈黙のあと、女王は息を整えました。
「こちらでも、できる限りのことをいたします。必要なものがあれば、何なりとお申し付けください。リリア公爵が目覚め、無事にお帰りになれるようになるまで、皆さまはどうか、この王宮にご滞在ください」
ガレスが頭を下げました。
「感謝いたします。グランヴァルド王国へも、勝利の報告を送ります。あわせて、リリア様がまだ目覚めておらず、帰国できないことも伝えます」
サフィーラ女王は頷きました。
「こちらからも使者を出します。サハルディア王国として、正式に事情をお伝えいたします」
蒼月の視線は、リリアから動きませんでした。
――リリア、俺のために……。
それから十日ほどが過ぎても、リリアは目を覚ましませんでした。
アステルは毎日状態を確認し、治療師たちもできる限りの手を尽くしている。
その日の午後、王宮にラシードが訪れました。
サライナから急ぎ駆けつけたラシードは、案内されるままリリアの部屋へ入ります。
寝台に横たわるリリアを見た瞬間、ラシードの足が止まりました。
頬は痩せ、顔色は白く、細くなった身体は、寝台の上であまりにも儚く見えました。
ラシードは、胸の奥を強く掴まれたように息を詰めます。
「……リリア」
ラシードは寝台の傍で膝をつき、拳を握りました。
――このままでは。
ラシードは、その足でサフィーラ女王への面会を求めました。
いつもの軽やかな笑みはなく、表情は真剣でした。
深く頭を下げたまま、口を開きます。
「サフィーラ女王陛下、いや、叔母上。これは、部下としてではなく、甥からのお願いです」
女王は、黙ってラシードを見つめました。
「リリア様を、国へ帰したいのです。せめて、グランヴァルド王国で治療と療養を受けさせてやりたい」
ラシードは顔を上げました。
「王宮の地下にある転送機を使わせてください」
女王の表情が険しくなりました。
「あれは、王族が危険に陥った時の最終避難のためにあります。それに、一度使用すれば、一年以上また魔力を注ぎ込まなければなりません」
「分かっています」
ラシードは、迷いなく答えました。
「条件として、その一年、私があの魔石に魔力を注ぎ込みます」
女王は、すぐには答えませんでした。
――あの天真爛漫なラシードに、ここまで言わせるリリアとは。
「叔母上。あれなら、リリア様の身体に負担をかけず、グランヴァルド王国の入口のアルディナの街まで戻れます。そこから王都までは、そう遠くありません」
ラシードは、もう一度深く頭を下げました。
「お願いします。リリア様を、どうか帰してあげてください」
サフィーラ女王は、しばらく黙ってラシードを見つめていました。
やがて、小さく息を吐きます。
「分かりました。リリア公爵は、この国の救世主です。せめて自国で治療と養生を受けられるよう、手配しましょう」
ラシードの口元が、少しだけ緩みました。
「ありがとうございます」
「ただし、行先の変更と準備には十日ほどかかります」
女王は続けました。
「それと、案内にはあなたがついてあげなさい。その方が、向こうに着いた時も話が通りやすいでしょう」
ラシードは、深く頭を下げました。
「ありがとうございます。叔母上」
ラシードは、すぐにアステルとガレスへ事情を話しました。
王宮の地下にある転送機を使う許可が下りたこと。
準備には十日ほどかかること。
そして、その転送機で一度に移動できるのは五人までだということ。
アステルが目を見開きました。
「転送機……そのような物が、この王宮にあるのですか?」
ラシードは頷きました。
「最古の魔法機具です。サライナの結界と同じように、この国には、古くから伝わる魔法機具がいくつか存在しております。私にも詳しい仕組みまでは分かりませんが、あれは王族が危険に陥った時の、最終避難用です。女王陛下の許可はいただいています。転送先の案内役として、私が同行します」
アステルは少し考え、指を折って数えました。
「では、付き添いは蒼月、エレナ、私、そしてラシード様でよろしいでしょうか」
ラシードは頷きました。
「はい。それでお願いします」
ガレスは、すぐに口を開きました。
「では、私とミラ、ルークは、残った護衛兵を率いて砂漠を渡り、帰国します。ラシード様、リリア様をよろしくお願いいたします」
迷いのないガレスの言葉に、ミラが凛とした顔つきで姿勢を正します。
「我々も、必ず生きて王都へ戻ります」
ルークは一瞬だけ悔しそうに目を伏せましたが、すぐに顔を上げ、自分に言い聞かせるように力強く頷きました。
「……リリア様のこと、お願いします。私も、残る皆さんが無事に砂漠を越えられるよう、自分の役目を果たします」
ラシードが、三人へ向き直ります。
「砂漠を越える準備は、すでにこちらの部下にも命じてあります。皆さまの帰路に支障が出ないよう、できる限り手配いたします」
そこで、ラシードはリリアの眠る部屋の方へ視線を向けました。
「そして、リリア様は、必ずグランヴァルド王国へお送りします」
その日から、それぞれの支度が始まりました。
リリアが王都ハルディアに運ばれてから、十五日。
その日の朝、リリアの指先がかすかに動きました。
最初に気づいたのは、蒼月でした。
蒼月の目が、大きく見開かれます。
――リリア。
閉じられていたまつ毛が、ゆっくりと震えました。
リリアは浅く息を吸い、時間をかけて目を開きます。
ぼんやりとした翡翠の瞳が、天井を見上げました。
「……ここは……」
かすれた声でした。
すぐにアステルが寝台へ歩み寄ります。
「リリア殿、分かりますか」
リリアは声の方へ視線を向けました。
けれど、まだ意識ははっきりしていないようでした。
蒼月が、顔を寄せます。
リリアの瞳が、その銀色の毛並みを捉えました。
「……蒼月」
その名を呼んだ瞬間、蒼月の身体から張り詰めていた力が抜けました。
――目を覚ましたか。
リリアは小さく瞬きをしました。
「よかった……生きてる……」
「それはこちらの言葉です、リリア殿」
部屋の入口近くにいたラシードも、息を止めたままリリアを見つめていました。
やがて、深く頭を下げます。
「リリア様、お目覚めになられて、本当によかった」
リリアはゆっくりとラシードへ視線を向けました。
まだ力の入らない表情のまま、かすかに微笑みます。
「カリム……」
ラシードの表情が、一瞬揺れました。
すぐにアステルが、手で制します。
「まだ話してはなりません。今は、目を覚ましただけで十分です」
リリアは小さく頷きました。
蒼月は、リリアの呼吸を見守っていました。




