第四十六話 瘴気の向こう側
客室の扉が叩かれたのは、リリアが杯へ指を伸ばした瞬間でした。
指先が水面へ触れる前に、伏せていた蒼月が顔を上げます。
その目は、扉へ向けられていました。
扉の向こうから、官吏の声が届きます。
「サハルディア王国軍務官ならびに王宮星術師が、状況説明のため参りました」
先ほどまで部屋に残っていたわずかな緩みが、音もなく消えていきました。
ガレスが扉へ目を向け、エレナはリリアの斜め前へ立ち、アステルは卓上の報告書を閉じます。
「お入りください」
扉が開き、白い長衣の官吏に続いて軍装の男と藍色の外套をまとった星術師が入室しました。
軍務官の頬には日差しを浴び続けた影が刻まれ、星術師の指先には疲労が残っています。
軍務官が深く礼をしました。
「リリア公爵、ならびにグランヴァルド王国の皆様。お待たせいたしました。女王陛下の命により、前線の状況をご説明いたします」
アステルが礼を返します。
「グランヴァルド王国星術院長官、アステル・フォン・セレスティアです。状況を確認させていただきます」
軍務官は卓へ歩み寄り、大きな地図を広げました。
厚い紙が石の卓の上で低く鳴ります。
王都ハルディアから東へ伸びる街道、南東へ下る道、古い巡礼路。
いくつもの街や村の名が並んでいましたが、その多くには赤い印が重ねられ、さらに奥は黒い墨で塗り潰されていました。
リリアはその黒い一帯を見つめます。
知らない土地の名が、墨の下へ沈んでいくようでした。
「現在、瘴気へ続く街道はすべて封鎖しております」
軍務官の声は乾いていました。
「東街道、南東街道、旧巡礼路。いずれも通行禁止です。瘴気に侵された者、あるいは魔物化した者が王都方面へ流入する恐れがあるためです」
ガレスの目が地図の上で止まりました。
「すべて、か」
「はい」
軍務官は赤い印をなぞりながら続けます。
「封鎖線の先にある街や村とは連絡が途絶えました。地図の黒い部分……あの一帯は、すでに瘴気に呑まれたと見ています」
客室の中で、誰もすぐには言葉を返しませんでした。
窓の外で王都ハルディアの旗が乾いた風に揺れ、その音だけが遠く薄く聞こえます。
「この黒く塗られた街や村は……」
「はい。おそらくは」
軍務官は黒い一帯から視線を離さず答えました。
「グランヴァルド王国へ報せを出してから皆様が到着されるまでの間に、さらに広がってしまいました」
その言葉に、卓を囲む者たちの表情から色が引きました。
リリアは地図の街や村の名を見つめ、膝の上で指先を強く握りました。
アステルが口を開きます。
「これは小規模な討伐では済みません。軍を整え、封鎖線の内側まで部隊を進める必要があります」
軍務官が、地図の上に指を置きました。
「討伐と防衛で道を開きながら、リリア公爵の浄化を段階的に進めます。無理に奥へ踏み込めば、こちらが呑まれます」
アステルが、地図の東街道を指でなぞります。
「まずは東街道から瘴気を浄化します。瘴気が薄まれば、その中に潜んでいた魔物が押し出される可能性があります」
ガレスが、地図を見下ろしたまま低く言いました。
「だが、問題はどこから出てくるか分からないことだ。街道か、廃屋か、低地か……瘴気の中に隠れている以上、こちらからは見えん」
軍務官は顔をさらに硬くし、地図の赤い印の周辺を指しました。
「そのため、各封鎖線の周辺には兵を厚く置きます。魔物がどこから現れても、王都や他の街方面へ抜けさせるわけにはいきません」
その方針で、作戦の大枠は定まりました。
女王の許可を得たうえで、軍の配備は急ぎ整えられることになった。
王都に残す最低限の兵を除き、動かせる部隊はすべて前線へ出陣します。
準備が整うまでの間、リリアは避難所へ運ばれた者のうち、瘴気に侵された者の浄化を行うことになりました。
先遣隊が東街道の封鎖線へ向かい、その後にリリアとアステルを含む本隊、後続隊が順に配置されます。
すべての部隊配置と退避路の確認が整ったのち、前線での浄化を始める予定でした。
その頃、黒く濁った瘴気の奥に、一人の男が佇んでいました。
褐色の肌、長い白い髪、金の瞳、背には漆黒の翼。
やがて瘴気を帯びた魔物が一体、男の前へ膝をつきます。
「王都ハルディアと周辺の街で、人間どもが軍の準備を進めております」
男は目を細めました。
「そうか」
低い声が瘴気の中へ沈みます。
「では、こちらも軍を作るとしよう。くくくっ……格好の餌だな」
その言葉に、魔物の中でもひときわ大きな個体たちが反応しました。
瘴気の奥から次々と姿を現します。
列を作り、前へ出るものと後ろへ控えるものを分け、巨大な影を中心に集まっていく。
かつて人間だった頃の記憶をなぞるように――軍の形を成していた。
それから数日後、サハルディア王国軍の編成が整い、先遣隊が東街道の封鎖線へ到着した頃でした。
黒く濁った瘴気の奥で、いくつもの影が動き始める。
その報せはすぐに本隊へ届けられました。
「瘴気の中より、魔物の軍勢が現れました」
伝令の声に、周囲の兵たちが一斉に息を呑みます。
アステルが聞き返しました。
「軍勢、ですか」
「はい。群れではありません。隊列を組み、前衛と後続に分かれて進んでおります」
魔物に意思があるなど、誰も考えていませんでした。
瘴気に侵され、人を見れば襲いかかるだけの存在――そう捉えられていたのです。
アステルは地図へ視線を落とします。
東街道、南東街道、旧巡礼路。
そのすべてが、いま魔物の軍勢にさらされようとしていました。
本隊は進軍速度を上げ、東街道の封鎖線で防御陣を敷いていた先遣隊に合流しました。
魔物の軍勢は、瘴気の中に陣取ったまま動かない。
ただ威圧するように、瘴気の境界に立ちはだかっています。
その中には、人間だった頃に身につけていたと思われる鎧や服をまとったものもいました。
その夜、前線では緊張が続いていました。
夜襲に備えて防衛陣を崩さず、交代で見張りを立てたうえで、兵たちには休息が命じられた。
天幕では、サハルディア王国軍の総司令官と軍務官、各部隊長、アステル、ガレス、リリアが集まり、翌朝からの作戦を練っていました。
アステルが口を開きます。
「我々を見ても、瘴気の境界を越えてこないということは、魔物にも意思がある、あるいは軍を率いている魔物がいる可能性があります」
アステルは、黒く塗られた一帯を指しました。
「その場合、魔物は瘴気の外へは出てこないでしょう。瘴気の中こそ、向こうが有利です。視界も数も、こちらからは読めません。さらに、こちらが焦れて瘴気の中へ踏み込めば、兵は侵され、新たな魔物を増やすことにもなります。わざわざその利を捨てて外へ出てくるとは考えにくい」
サハルディア王国軍の総司令官が、低く頷きました。
「ならば、こちらから引きずり出すしかありませんな」
「はい。浄化の力が届くぎりぎりまで、本隊を進めます」
アステルの指が黒い一帯の手前で止まりました。
「そこでリリア殿の浄化を私の術式で広げます。浄化の範囲に入った魔物は消えるでしょう。ですが、その外側にいる魔物は、瘴気を押し返されるように前へ出てくるはずです」
総司令官が、封鎖線へ目を落とします。
「そこを軍が討つ、ということですな」
「はい。こちらが定めた場所へ引きずり出し、封鎖線の内側で討ちます」
アステルは卓を囲む者たちを見渡しました。
「どの部隊も、瘴気の中へは絶対に踏み込まないでください。追撃も禁止です。兵が瘴気に侵されれば、こちらの戦力を失うだけでなく、新たな魔物を増やすことになります」
総司令官の表情が険しくなりました。
「つまり、一歩でも線を越えれば、味方が敵に変わるということですか」
「その可能性があります。だからこそ、浄化で押し出し、こちらの陣で討つ。それ以外の戦い方はできません」
アステルは少し難しい顔をしました。
「もう一つ、残酷な指示を出さなければなりません」
視線が集まります。
「魔物に倒された兵の遺体は、必ず回収してください。救護班を作り、前線の隙を見て、できる限り早く後方へ運びます」
軍務官の喉が小さく動きました。
「遺体まで、ですか」
「はい。瘴気の近くに残せば、さらに侵される危険があります。亡くなった者を、そのまま魔物の側へ渡すことはできません。死してなお、兵を辱めるわけにはいきません」
天幕の中に重い沈黙が落ちました。
総司令官は地図の封鎖線を見つめたまま答えます。
「分かりました。救護班を外周に置きます。前衛が崩れぬ範囲で、倒れた者を後方へ運ばせましょう」
アステルが頷きました。
「お願いします。追撃は禁止。瘴気の中へは入らない。倒れた者は可能な限り回収する。この三つは、必ず徹底してください」
その夜のうちに部隊の再編が進められました。
前衛には盾兵と槍兵、左右には街道を塞ぐ部隊。
リリアの周囲には、グランヴァルド側の護衛と星術師に加え、サハルディア王国軍の精鋭部隊が配置された。
後方には負傷者と遺体を運ぶ救護班が置かれることになりました。
リリアは、自分の天幕に戻っても横になれずにいました。
意思を持った軍勢。
かつて人だったもの。
明日、自分の浄化で消えてしまうかもしれないもの。
隣にいた蒼月が、リリアへ視線を向けました。
――やめて逃げるか。
リリアは首を横に振りました。
「逃げません。やります」
――そうだな。
蒼月は天幕の外へ出て、瘴気の中に陣取る魔物の軍勢を見据えました。
――たとえリリアに嫌われることになっても、俺はリリアを守り抜く。
それは、リリアには聞こえぬ声でした。




