第四十五話 サハルディアの女王
やがて砂丘の色が少しずつ変わり、砂のうねりの向こうに低い岩山の影が見え始めます。
風に混じる熱も、サライナ近くの砂漠とはどこか違っていました。
案内人がラクダを止め、前方を指した。
「見えました。あの岩山を越えれば、サハルディア王国側の駐屯地です」
その言葉に、護衛兵たちの間にわずかな安堵が広がりました。
リリアもラクダの上から顔を上げます。
砂に揺れる空の下、遠くに旗が見えました。
先に送られていた知らせを受けて、サハルディア王国側の軍が迎えに来ていたのです。
一行が近づくと、騎馬の先頭にいた将校らしき男が馬を降り、胸に手を当てて深く礼をしました。
「グランヴァルド王国の皆様ですね。遠路、よくお越しくださいました」
アステルが前へ出て、落ち着いた所作で礼を返します。
「グランヴァルド王国星術院長官、アステル・フォン・セレスティアです。貴国より瘴気と魔物化の報せを受け、国王陛下の命により参りました。こちらは瘴気の浄化を担うリリア・フォン・ヴァイスベルク公爵。そして、護衛を務める第三騎士団隊長、ガレス・フォン・ヴァルドです」
リリアの名が告げられた瞬間、サハルディアの兵たちの視線が一斉に集まった。
リリアは熱の残る体を支えながら、丁寧に会釈しました。
「リリア・フォン・ヴァイスベルクです。できることを、精一杯いたします」
将校はもう一度深く頭を下げました。
「お待ちしておりました。馬はこちらで用意しております。ここから先は、我々がサハルディア王国の王都ハルディアまでご案内いたします」
その間に、案内人はラクダの手綱を集め、慣れた手つきで一頭ずつ落ち着かせていました。
「この先に、砂漠を渡る者たちが支度を整える町があります」
案内人は、集めた手綱を軽く握り直しながら言った。
「ラクダはこちらで預かっておきます。お帰りの際は、その町へお寄りください。また砂漠を渡れるよう、休ませて整えておきます」
アステルは頭を下げました。
「何から何まで、ありがとうございます」
「いえ、ラシード様の言いつけですから。どうかお気になさらず」
案内人がそう答えると、アステルは懐から小さな革袋を取り出した。
「それでも、こちらからの礼です。ここまで確かに導いていただきました」
差し出された革袋を受け取り、案内人は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……ありがとうございます」
ルークが荷を確認し、護衛兵たちが水袋と必要な物資を馬へ移していきます。
リリアはラクダのそばに立つ案内人へ、頭を下げました。
「ここまで案内してくださって、ありがとうございました」
案内人は照れたように笑いました。
「無事にお連れできて何よりです。どうか、お気をつけて」
サハルディアの兵に導かれ、一行は王都ハルディアへ向かいました。
遠くから見えていた白い城壁は、近づくほどに大きくなり、陽射しを受けて淡い金色を帯びています。
高い城壁の上には細長い旗が並び、乾いた風にあおられてはためいていました。
けれど、門の前に立つ兵たちの表情は硬く、出入りする人々の声もどこか低く抑えられています。
王都へ入っても、明るい賑わいより先に、沈んだざわめきと重い気配が肌に触れる。
瘴気と魔物化の報せは、すでにこの都にも深い影を落としているようでした。
一行は馬を降り、そのまま王都の中心にある王宮へ案内されました。
王宮は白い石と淡い砂色の柱で造られ、壁には細かな文様が彫り込まれています。
高い窓から差し込む光が、磨かれた床の上に幾何学模様の影を落としている。
砂漠の厳しさとは違う、冷たく整った美しさがそこにはありました。
王宮へ入ると、案内役の使者が一行に向き直りました。
「長旅でお疲れのところ恐縮ですが、まずは女王陛下にご謁見いただきます」
使者はそう告げ、廊下の一室を示した。
「身支度は、こちらの控室をご利用ください。清めの水もご用意しております」
長い砂漠越えを終えた旅装のまま、女王の前へ出るわけにはいきません。
控室には、水を張った器と清めの布が人数分用意されていました。
リリアはエレナとミラとともに奥の個室へ移り、手と顔を清め、砂を含んだ外套と頭布を外します。
サライナを発つ前、ラシードから、女王に謁見する時のためにと、全員分の衣装袋を渡されていました。
ラシードは、砂漠を越えた先のことまで考えていたのです。
慌ただしい出立の中で、中身までは確かめていませんでしたが、ミラが衣装袋を開き、中の衣を取り出した。
「まあ……綺麗ですね」
ミラが小さく息を呑む。
衣掛けに広げられたのは、リリアの金色の髪と翡翠色の瞳に合うようにあつらえられた、美しい礼装でした。
砂漠の国らしい薄く軽やかな布地に、金糸と淡い翡翠色の刺繍が細く走っています。
派手すぎることはなく、それでいて女王の前に立っても見劣りしない、品のある衣でした。
それぞれが身支度を整える中、蒼月はわざと大きく身を震わせ、残っていた砂を控室の床へ勢いよく散らした。
控えていた使者が、舞い上がった砂を避けるように、思わず顔の前に手をかざします。
「……蒼月」
リリアが困ったように名を呼ぶと、蒼月は不満げに鼻を鳴らしました。
――ふん。これぐらいいいだろう。
――こいつらの目が気に入らん。
リリアは小さくため息をつく。
王宮の者たちが蒼月に向ける目に、驚きだけでなく強い警戒が混じっていることは、リリアも気付いていたからです。
その空気を断ち切るように、アステルが口を開きました。
「現地の詳しい状況は、謁見の後に改めて説明を受けることになるでしょう」
やがて、扉の外から案内の声がかかった。
一行はサハルディアの官吏に導かれ、謁見の広間へ向かいました。
謁見の広間の前で、一行は足を止めました。
高い扉の前には、サハルディア王国の官吏が二人控えており、案内役の使者がアステルとリリアへ向き直った。
「アステル様、リリア様。女王陛下がお会いになります」
その言葉を受け、アステルが頷く。
使者が扉の前へ進み、内側へ声をかけます。
「グランヴァルド王国よりお越しの方々をお連れいたしました」
少しの間を置いて、扉の向こうから落ち着いた声が返りました。
「どうぞ」
次の瞬間、左右の扉が重々しく開かれた。
高い天井へ向かって白い柱が伸び、細かな文様を刻まれたその表面に、天井近くの窓から差し込む光が淡く触れていました。
一行は入口で深く礼を取り、許しを得て広間の中央へ進んだ。
その最奥に座していたのが、サハルディア王国の女王、サフィーラ・アル=ハルディアでした。
薄い金の衣をまとい、まっすぐに背を伸ばした姿は美しく、同時に刃のような鋭さを感じさせます。
女王の視線が、広間へ進んだ一行を見渡します。
蒼月はリリアの横に寄り添うように立ち、玉座を見据えている。
アステルが前へ進み、深く礼をしました。
「グランヴァルド王国星術院長官、アステル・フォン・セレスティアでございます。貴国より瘴気と魔物化の報せを受け、国王陛下の命により参りました」
女王が顎を引く。
アステルは続けて、隣に控える者たちを示します。
「こちらは瘴気の浄化を担うリリア・フォン・ヴァイスベルク公爵と、その護衛を務める第三騎士団隊長、ガレス・フォン・ヴァルドでございます」
女王の視線が、まっすぐにリリアへ向けられます。
「あなたが、リリア・フォン・ヴァイスベルク公爵」
静かな声でした。
けれど、その響きには、人を試すような硬さがあります。
「はい。リリア・フォン・ヴァイスベルクでございます」
リリアは丁寧に礼をしました。
女王は、その姿を上から下まで確かめるように見つめます。
「思っていたより、ずいぶん若いのですね」
広間の空気が、ほんの少し張りつめた。
リリアは顔を上げ、答えます。
「未熟なところは多くございます。けれど、できる限りのことを尽くすために参りました」
女王はリリアを見据えたまま、冷ややかに言葉を紡いだ。
「砂漠越えで体調を崩したと聞いています。四季のあるグランヴァルドで育ったあなたには、あの熱波はさぞ堪えたことでしょう」
続けて、淡々とした声が広間に落ちます。
「瘴気の浄化は、あなたにしか成せぬ尊い御業です。ゆえに、まずは我が軍が前線の魔物を討ち払い、安全を確保してから向かっていただくのが賢明でしょう。それまでは王宮の離宮で休養を。数週間でも、あるいは、ご自身が十分に回復したと感じるまで」
丁寧な気遣いを装いながら、リリアを王宮内に留めようとする提案でした。
リリアは胸の奥で、小さく息を吸い込みました。
組んだ指先が震えそうになるのを、きつく握りしめて抑え込みます。
――怖い。けれど、ここで言わなければ、何も変わらない。
そう思い、リリアは真っ直ぐに顔を上げた。
「陛下の深いお心遣い、心より感謝申し上げます」
リリアの静かな声が、広間に澄んで響きました。
「瘴気に苦しむ方々がいると知りながら、安全な離宮で羽を休めるような者であれば、私は公爵の爵位を賜ることはありませんでした」
女王の眉が動く。
リリアは言葉を続けます。
「できることを、言葉ではなく、結果でお示しします。どうか、前線へ向かう許可を」
広間に、静かな沈黙が落ちました。
女王はしばらくリリアを見つめ、やがて口元だけを動かします。
「よいでしょう。では、その言葉どおり働いていただきます。詳しい状況は、後ほど軍務官と星術師から説明させましょう」
アステルが礼をした。
「承知いたしました」
女王の視線が、今度はリリアの隣に立つ蒼月へ移りました。
「それから、その銀狼。王宮内で自由に歩かせるつもりですか」
リリアの背筋が強張った。
アステルが一歩前へ出ます。
「蒼月殿は、リリア公爵の守護者です。これまでの任務においても、彼の存在がリリア公爵の安全を支えてきました」
女王は、口元に冷たい笑みを浮かべました。
「守護者、彼……ですか。……しつけの行き届いた獣ではなく?」
女王がそう口にした、次の瞬間でした。
蒼月は、ただ、ゆっくりと一歩だけ前へ踏み出した。
その四肢が石の床を踏みしめた瞬間、広間を満たしていた空気が、まるで氷結したように重く沈み込みます。
銀色の毛並みが天井からの光を弾き、淡い魔力の残滓を漂わせた。
蒼い瞳が、玉座の女王をまっすぐに射抜きます。
そこにあるのは、獣のような怒りではない。
人間の浅はかな物差しを冷ややかに見下ろす、高位の存在としての絶対的な視線です。
カチャ、と音を立てて、玉座の脇に控えていた近衛兵たちが一斉に剣の柄に手をかけた。
しかし、誰も剣を鞘から引き抜くことができません。
圧倒的な捕食者を前にした本能の恐怖が、近衛兵たちの手足を金縛りにしていた。
女王は顔をこわばらせ、玉座の肘掛けを軋むほど強く握りしめていた。
額に冷たい汗がにじみます。
それでも、一国を治める為政者の矜持として、玉座から立つことも、蒼月から視線を逸らすことも決してしなかった。
――大人しくしておれば、ずけずけと。
――人間風情が、分をわきまえよ。
蒼月の声にならない重圧が、広間全体を支配したその時でした。
「……蒼月」
リリアの静かな声が響き、すっと手を伸ばし、その銀の首筋に触れます。
ただそれだけで、広間を埋め尽くしていた重圧が、ふわりと霧散しました。
蒼月は何事もなかったかのようにリリアの手の下で目を伏せ、女王にはもう興味がないというように、その場へ戻りました。
リリアが口を開く。
「蒼月は、私の大切な家族であり、友です。そして、誇り高き銀狼です」
そこには、一国の女王を前にも退かない、公爵としての確固たる意志がありました。
女王はしばらくリリアを見つめていました。
その表情には、まだ納得しきれない硬さが残っています。
それでも、やがて小さく息を吐きました。
「よろしい。ですが、王宮内で騒ぎを起こさぬように」
「はい」
リリアが答える。
蒼月の尾の先が、ほんの少し揺れます。
リリアは女王の前で頭を下げながら、胸の奥で息を整えました。
――ここから先は、砂漠の熱とは違う厳しさが待っている。
そう感じていました。
謁見を終えた一行は、サハルディアの官吏に案内され、王宮内に用意された客室へと通されました。
白い石造りの廊下はひんやりと静かで、足音だけが高い天井へと吸い込まれていきます。
先ほどの謁見の広間に満ちていた重さが、まだ胸の奥に残っているようでした。
客室へ入ると、王宮の女官が冷えた水と杯を用意し、声も立てずに一礼して下がっていった。
重厚な扉が閉まると同時に、ルークが堪えていた息を小さく吐き出します。
「……すごい方でしたね」
その言葉に、ガレスが低く答えた。
「まてっ……誰が聞いているか分からぬ」
ミラが、部屋の隅々まで調べて、皆に頷いた。
アステルが、窓の外へ視線を向けながら口を開きました。
「サハルディアの女王は、リリア殿を囲い込みたいのかもしれませんね」
エレナも、扉の方へ注意を向けたまま低く答えた。
「そのように見受けられます」
蒼月がリリアのそばへ寄り、リリアを見つめました。
――気にするな。
リリアは、少しだけ目を瞬かせます。
「女王陛下のこと?」
――あれは、己の恐れを隠し、こちらの力を測っているだけだ。
脳内に響く蒼月の声は低く、けれど不思議なほど落ち着いていました。
――だが、次に俺をただの獣と呼べば、身の程というものを少しは分からせてやる。
「……蒼月」
リリアが困ったようにたしなめて名を呼ぶと、蒼月は不満げに鼻を鳴らし、銀色の尾の先を揺らしました。
――人間は、言葉を選べと言っただけだ。
「でも、あれは良くなかったわ……」
蒼月は、納得していないように尾の先を小さく揺らした。
その様子に、リリアの表情が少しだけ和らぎます。
ルークもようやく安堵の息をつき、エレナも肩の力を抜きました。
部屋に張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩みます。
ミラはリリアの顔色を心配そうに確かめてから、控えめな声で言った。
「リリア様、少しだけでもお掛けになって水をお飲みください。お顔にまだ砂漠の疲れが残っておいでです」
「ありがとう、ミラ」
リリアは素直に頷き、部屋の中央に用意されていた豪奢な長椅子に腰を下ろしました。
翡翠色の刺繍が施されたドレスの裾が広がります。
サライナで整えられたこの衣は、気高き公爵として引き立ててくれていました。
ラシードは、ここで手強い女王と対峙することまで見越して、この衣を用意してくれていたのが分かった。
あの飄々とした、けれど底知れない砂漠の領主の笑みを思い出し、リリアは小さく息を吐きました。
「ラシード様には、帰ったらまたきちんとお礼を言わなければいけませんね」
そう口にしたあとも、リリアの胸には、あの街を案内してくれたカリムの顔が先に浮かんでいました。
アステルが、穏やかに目を細めます。
「ええ。あの方は、こちらが思っていた以上にずっと先を見通していたようです。さて、まもなくサハルディアの軍務官と星術師が状況説明に来るでしょう。そこで瘴気の広がり、魔物化の範囲、前線までの道筋を確認します」
「はい」
リリアは、まっすぐに顔を上げた。
「その上で、私にできることを考えます」
あの謁見の広間で女王に告げた言葉を、ただの強がりにしてはいけないのです。
窓の外では、王都ハルディアの旗が乾いた風に揺れていました。
リリアはその旗を見つめながら、膝の上で両手を握りしめる。
リリアがまず向き合うべきものは、迫り来る瘴気と、それに苦しむ人々でした。
――なんだ、あの女は。サフィーラ、といったか。この王宮にいる者たちの目も、気に入らない。
蒼月は低く息を吐きました。
――けれど、ここで自分が騒ぎを起こせば、その矛先はリリアへ向かうかもしれない。
――王宮で差し出された食事を口にし、用意された部屋で休む以上、どれほど気を張っていても、すべての悪意を防ぐことはできない。
――ならば、今すぐこの場から連れ出すか。
そう考えた瞬間、蒼月は首を振りました。
そんなことをすれば、リリアはきっと自分を許さないでしょう。
蒼月は、胸の奥に毒のような苛立ちを沈めたまま、窓の向こうに広がる空を見上げました。




