第四十四話 外伝:ラシード編―見送り―
砂嵐に閉ざされて十日目。
ようやく外壁の外の砂が静まった。
砂嵐が収まった明け方から、ラシードは門前へ人を出しました。
探させたのは、街へ逃げ込む直前、砂の中に捨ててきた剣や槍です。
すべてを見つけるのは無理でも、まだ探せる可能性があります。
同時に、ラシードは一行の出立準備も命じた。
砂漠を越えるために必要な水、保存食、薬、外套、野営道具は、すでにそろえさせてあります。
そして、出立の前。
ラシードは、グランヴァルド王国の一行を謁見の間へ通すよう命じました。
その顔には、どうにも隠しきれない笑みが浮かんでいました。
肩まで小さく震えています。
それを見たナーディルは、深いため息をつく。
「ラシード様」
「いや、連中の顔を思い浮かべたら、笑いが止まらなくて」
「本当に、リリア様たちがお気の毒です。少しは自重してください」
ナーディルはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐きます。
「……仕方ありませんね」
「お前、本当にそればかりだな」
「ラシード様が仕方のないことばかりなさるからでございます」
「手厳しいな」
「事実でございます」
ラシードは小さく笑い、謁見の間へ向かいました。
程なく、グランヴァルド王国の一行が謁見の間へ入ってきました。
ラシードは上座の前に立ち、一行を待つ。
領主としての衣をまとい、髪を整え、礼を崩さずに立っている。
それだけで、皆がどんな顔をするかは分かっていました。
こみ上げる笑いを抑えているつもりでも、口元が緩みそうになります。
そして、リリアが足を止めた。
「カリム……?」
その声に、ラシードは内心で笑いをこらえる。
ルークが目を見開き、ラシードの顔と、そばに控えるナーディルの顔を何度も見比べていました。
砂漠で出会った盗賊の頭目が、領主の館の上座に立っている。
その事実を、どうにか頭の中で結びつけようとしているのが、手に取るように分かる。
ルークが隣で大きく息を呑みます。
「な、ななな……っ」
ガレスが反射的に剣の柄に手をかける。
「おっ、お前……」
「執政官殿、賊が入り込んでいます!」
ルークがようやく叫ぶと、ナーディルが深くため息をつく気配がしました。
ラシードはもうこらえきれず、声を上げて笑った。
実にいい反応だ。
「ふはははっ。驚いたか」
これを見るためだけでも、少し黙っていた甲斐があったというものです。
「カリムはもう一つの名だ」
ラシードは優雅に一礼した。
「サライナ領主、ラシード・アル=ハーリド。改めて、遠方より来られた客人を歓迎しよう」
蒼月は、驚いた様子もなくこちらを見据えていました。
おそらく、かなり前から気付いていたのでしょう。
あの銀狼は、やはり侮れません。
問い詰められれば、答えられる範囲では答えた。
部下が早とちりしたこと。
砂嵐が本当に迫っていたこと。
助けたのは本当だったこと。
盗賊かどうかは、内緒にしたこと。
すべてを明かすことはできません。
サライナには、明かせないものが多すぎます。
けれど、リリアと蒼月に死んでほしくなかったという言葉だけは、嘘ではありませんでした。
ラシードは懐から水色の珠を取り出し、リリアの手に置きました。
「これを差し上げよう」
珠の中で、清らかな水のような光が揺れる。
リリアは不思議そうに見つめています。
詠唱を教えると、リリアは両手で珠を包み込み、言葉を紡ぎました。
やがて、珠から澄み切った水が溢れ出します。
「わぁ……!」
その顔を見て、ラシードは少し満足した。
水は砂漠の命です。
それを手にした意味を、リリアはきっとすぐに理解するでしょう。
案の定、リリアは真剣な顔で尋ねてきました。
「カ……ラシード様、本当にこんな貴重なものをいただいてもよろしいのですか」
呼び直した声が少しおかしくて、ラシードは笑いそうになった。
けれど、そこは抑えます。
「いいのだ。砂漠の入口にある最初の街では、説明が足りていなかったようだ。案内人の見立ても甘かったらしい。この砂漠を預かる者として、すまぬな」
それは、領主として、そして、砂漠の裏側を知る者としての言葉でした。
「それと、騙してしまったお詫びだ。この大所帯だ、水はいくらあっても足りまい」
ラシードは目を細めます。
「リリア様と蒼月殿には、こんなところで死んでほしくないからな」
リリアは深く頭を下げました。
「では、大切に使わせていただきます」
その素直な礼に、ラシードはまた少し困った。
本当に、この娘の礼は受け止めづらい。
まっすぐすぎて、かわしにくいのです。
出立の時刻が近づいていました。
空は澄み、砂嵐の名残は薄くなっています。
これ以上引き止める理由はありません。
一行には、向かわなければならない場所があります。
城門の上に立つと、サライナの外に広がる砂漠がよく見えました。
砂嵐に削られた砂丘の向こうに、次の道が続いています。
――本当に、面倒な客人だった。だが、悪くなかった。
「リリア」
声をかけると、リリアがこちらを見上げました。
その隣で、蒼月も顔を上げます。
「蒼月」
ラシードは片手を上げ、にやりと笑う。
「楽しかったぞ」
リリアは少し驚き、それから柔らかく笑いました。
「私も、楽しかったです」
その返事だけで、十分だった。
「また、サライナへ来い」
「はい、また来たいです」
ラシードは満足そうに笑いました。
その言葉が、ただの礼儀でないことは分かります。
リリアはきっと、本当にそう思っているのでしょう。
この砂漠の街を。
水と灯を守るこの場所を。
強くて、優しい街だと言った、このサライナを。
やがて、出発の合図がかかりました。
一行が城門を抜け、再び砂漠へ向かいます。
リリアは一度だけ振り返り、大きく手を振った。
ラシードも、城門の上から手を振り返します。
砂漠の領主として。
カリムという名の怪しい男として。
そして、少しだけあの娘に救われた一人の男として。
一行の姿は、少しずつ遠ざかっていきました。
蒼月の銀色の毛並みが、陽射しの中で淡く光ります。
やがてその姿も、砂の揺らぎの向こうへ小さくなっていきました。
「……面白い」
ラシードは小さくつぶやいた。
声は、乾いた風にさらわれて消えていきます。
ふと、ラシードの脳裏に、あの夜の水盤の広場がよみがえりました。
小さな灯を両手で受け取り、水面へかざしていたリリアの横顔。
本物の火と、水に映る火。
二つの光に照らされたその表情は、祈りというにはあまりにも静かで、けれど願いというにはあまりにも真っ直ぐでした。
砂嵐が収まるように。
道が開くように。
待っている誰かを救えるように。
――きっと、あの娘は自分のためだけには願わなかったのだろう。
ラシードは城門の上で、もう一度だけ遠ざかる砂の道を見つめました。
サライナの城門は、ゆっくりと通常の静けさを取り戻していきます。
けれど、ラシードの胸の中には、あの夜の祈りの灯と、リリアの横顔が、いつまでも淡く残っていました。




