第四十三話 外伝:ラシード編―ラシードの思い―
砂嵐に道を閉ざされて三日目の夕刻。
迎賓館に隣接する広間では、グランヴァルド王国の一行を迎える歓迎会の支度が、慌ただしく整えられつつありました。
執政官ナーディルは、その報告を携えて領主の私室へと足を向けた。
「ラシード様」
厚い木扉の前で声をかけると、中から気のない、低く短い返事が戻ってきます。
「入れ」
ナーディルが扉を開けると、主は夕闇が迫る窓辺に佇んでいました。
窓枠に置かれた指先が、退屈を紛らわすように不規則な音を刻んでいます。
その背中を一目見ただけで、ナーディルには分かる。
あれは、また何か余計な悪巧みを思いついている時の姿です。
「歓迎会の準備が整いました。まもなく、グランヴァルド王国の皆様を広間へお迎えいたします」
「ああ」
「それで、ラシード様。そろそろお召し物のご準備を」
「必要ない」
「必要ございます」
「俺は出ない」
ナーディルの眉が、跳ね上がった。
「今、何と仰いましたか」
「だから、俺は今夜の歓迎会には出ないと言ったのだ」
ラシードは至極当然のことのように、視線すら動かさずに告げる。
「お前が代わりに迎えろ」
「私は執政官でございます。この街の領主ではございません」
「分かっているさ」
「分かっておられるなら、なぜそう簡単に私を代理に立てようとなさるのですか」
ラシードはようやく振り返りました。
その顔には、カリムの悪戯めいた笑みが浮かんでいました。
「今、俺が偉そうに領主として出ていったら面白くないだろ」
「面白いかどうかで、領主の公式行事を判断なさらないでください」
ナーディルの冷ややかな指摘を、ラシードは軽い手つきで受け流す。
「俺があの場に出れば、どれほど贅を尽くそうが、ただの『領主を迎える席』になる。料理も、舞も、ともされる灯りも、すべて俺という権力への追従や礼として消費される。……それは、俺の好みに合わない」
ラシードは再び窓の外、少しずつ夜の帳が下りていく街並みへ目を向けました。
「まずはサライナという街そのものを見てほしいんだ。水がどれほど貴重で、旅人に道を願う舞がどれほど美しいか。余計なものを通さず、そのまま受け取ればいい」
ナーディルはすぐに言い返さず聞いた。
主の言葉の奥にある、冷徹なまでの観察眼と、領主としての奇妙な配慮を値踏みするように、目を伏せます。
「それが、領主としてのお考えでございますか」
「そうだ」
ラシードは少しだけ口の端を上げる。
「……まぁ、今ここで正体を明かしてしまうのは、純粋に惜しい」
「そちらが本音でございますね」
「全部本音さ。俺の言葉に嘘はない」
「都合よく並べ替えているだけでございます」
「否定はしない」
ナーディルは、諦念を込めて深く息を吐き出した。
「……仕方のない方だ」
「お前、本当にそればかりだな」
「ラシード様が、仕方のないことばかりなさるからでございます。ただし、歓迎会の間、本当に余計な真似はなさらないでくださいよ」
「余計な真似というのは?」
「途中で突然広間へ乱入し、正体を明かして驚かせることです。あるいは、客人の反応を見るためだけに使用人に妙な演出を仕込むことです」
「お前、俺を何だと思ってるんだ」
「日頃の行いから推測される、最も可能性の高い暴挙を申し上げております」
ラシードは呆れたように肩をすくめた。
「分かった、分かった。今夜はただ、影から見ているだけだ」
「本当でございますね」
「くどいぞ、ナーディル。俺は二言はない。たぶんな」
「最後の一言が余計でございます」
ラシードは、卓の上に置かれていた布包みへ視線を移しました。
淡い砂色の礼装。
過酷な砂漠を行くあの娘の翡翠の瞳を際立たせるため、細く同色の刺繍を入れさせた、リリアのための衣装です。
「それも持っていけ」
ナーディルは布包みへ目を落とし、少しだけ声音を落とす。
「こちらを、リリア様へお渡しするのですね。……ですが、まだ正式に対面すらしていない客人へ、瞳の色に合わせた特注の礼装を贈るのは、少々不自然ではございませんか」
「気の利く領主からの歓迎の品だと思えばいい。……それに、絶対に似合う」
「主観の問題ではございません」
「歓迎会に出ない代わりの、領主としての最低限の礼儀だ。これなら文句はないだろう」
「それなら、ご本人が出席なされば万事解決するのですが」
「だから、それは面白くないのだ」
「やはり、そこに戻るのですね」
ナーディルはもう一度深く息を吐き、主の我儘が詰まった布包みを、しかし恭しく丁寧に受け取りました。
「では、歓迎会の件とあわせて、リリア様へお渡しいたします」
「ああ。無理に着ろとは言うなよ」
「承知しております。贈り物としてお渡しするだけでよろしいのですね」
「それでいい。理由まで並べるとかえって怪しまれる」
ナーディルは、布包みへ視線を落とした。
「……すでに十分、怪しまれる品かと」
「気のせいだ」
「気のせいではございません」
ラシードは、悪びれる様子もなく不敵に笑う。
「似合う。それだけは間違いない」
「……本当に、仕方のない方でございます」
ナーディルは布包みを抱え、深く一礼しました。
そして、グランヴァルド王国の一行が滞在している迎賓館へ向かうため、部屋を出ていきました。
扉が閉まると、主の私室には完全な静寂が戻る。
ラシードは小さく声を立てて笑った。
「あの衣装を見て、どんな顔をするか」
その夜。
ラシードは、歓迎会の広間を見渡せる上部の壁に張り巡らされた精緻な装飾格子の陰から、眼下に広がる宴の様子を見下ろしていました。
ナーディルは何事もなかったかのように、完璧な所作で客人たちをもてなしています。
運ばれる珍しい料理、しなやかに舞う踊り手たち。
宴は滞りなく進んでいます。
その喧騒の中心に、淡い砂色の礼装をまとったリリアの姿がありました。
細く施された翡翠色の刺繍は、計算通り、リリアの瞳の色を鮮やかに引き立てています。
サライナの柔らかな絹布が、広間の灯りを受けて波打ち、リリアが動くたびに美しく揺れます。
「よし。思った通り、よく似合っている」
その独白は、広間に響き渡る楽の音にかき消されていった。
リリアは見慣れない異国の料理に目を丸くし、舞に息を呑み、時折隣の長官や騎士へ小さく笑いかけていました。
そのすぐ傍らには、銀色の大きな体をした蒼月が控えています。
周囲への警戒を一切怠らぬまま、誰よりも自然にリリアの背を守っています。
ラシードは、装飾格子の陰で小さく笑いました。
――あれでいい。領主の顔を見る前に、まずはサライナを見ればいい。
やがて、リリアの視線が舞へ向く。
ただ珍しいものを眺めている顔ではありません。
言葉にされないものまで受け取ろうとしているような、静かな目でした。
「面白い娘だ」
領主としてあの場に出ていれば、この表情は見られなかったでしょう。
礼を尽くし、言葉を選び、ただの公式な歓迎として受け取られて終わっていたはずです。
――だから、これでいい。ラシードとしてではなく、カリムとしてなら、もう少し近くでこの娘の反応を見られる。整えられた広間ではなく、サライナの民が夜にともす祈りの灯を見せた時、どんな顔をするのか。
そう思うと、ラシードの口元には自然と笑みが浮かびました。
砂嵐に閉ざされて七日目の朝、ナーディルは外壁の見張りから届いた報告を持って、ラシードのもとを訪れました。
砂の勢いは弱まっていません。
「今しばらく、出立は難しいかと」
「そうか」
ラシードは短く答えた。
表情は大きく変わりませんでしたが、指先が卓の上を軽く叩きました。
「迎賓館へは伝えたか」
「先ほど、皆様へご報告いたしました」
「反応は」
「当然ながら、焦りはおありのようでした。特にリリア様は、サハルディアのことを気にかけておられるご様子でした」
「だろうな」
ラシードは椅子の背にもたれ、目を伏せました。
遠方から来た一行は、ただ砂漠を越えるために旅をしているわけではありません。
その先には、瘴気に沈みかけた国がある。
そして、あの娘はそこへ向かおうとしている。
「今夜は灯の日だな」
「はい」
ナーディルは頷いた。
「砂嵐が長く続く時、街では水盤の広場に祈りの灯をともします。皆様にも、ご覧になってはいかがかとお伝えしておきました」
「そうか」
ラシードは小さく笑う。
「なら、今夜は出る」
ナーディルの眉が、はっきりと動いた。
「どちらへ」
「水盤の広場だ」
「領主としてですか」
「まさか」
ラシードは当然のように言う。
「カリムとしてだ」
ナーディルは、深く息を吸いました。
その沈黙は、言葉にする前から十分すぎるほど重いものでした。
「ラシード様」
「何だ」
「前回、勝手に連れ出した件で、グランヴァルド王国の護衛の方々がどれほど警戒を強めたか、ご存じのはずですが」
「今回は勝手に連れ出さない」
「本当でございますか」
「本当だ。あの娘に、ちゃんと護衛を付き添わせるよう言わせる」
「言わせる、という時点で、すでに妙な誘導が含まれております」
「細かいな」
「細かくならざるを得ないのは、ラシード様の行動が大雑把すぎるからでございます」
ラシードは肩をすくめた。
「祈りの灯は、領主が見せるものじゃない」
「では、誰が見せるものだと」
「街を知っている者だ」
ラシードは言った。
「カリムなら、あの娘は構えない。領主ラシードが案内すれば、礼を言い、姿勢を正し、言葉を選ぶ。だが、カリムなら文句も言うし、少しは素の顔を見せる」
「それを見るためですか」
「それもある」
「それも、ですか」
「ああ」
ラシードは窓辺へ歩き、夜を待つ街を見下ろす。
昼のサライナは、砂嵐に閉ざされていても淡々と息をしていました。
けれど、夜になれば水盤の広場には灯が集まる。
あれは、領主家が整えたもてなしとは違います。
この街に生きる者たちが、自分たちのためにともす灯です。
「リリアに今夜の灯を見せたらどうなるか、少し気になる」
「やはり、好奇心でございますね」
「領主としての判断でもある」
「便利な言葉でございます」
「否定はしない」
ナーディルはしばらく黙っていた。
やがて、諦めたように息を吐きます。
「……仕方ありませんね」
「お前、本当にそればかりだな」
「ラシード様が、仕方のないことばかりなさるからでございます」
「それでいい」
「よくはございません」
ナーディルは冷静な声で返す。
「今夜は、迎賓館の外で待つだけにしてください。窓から勝手に手を引くような真似は、絶対におやめください」
「分かっている」
「リリア様が護衛へ報告し、護衛が同行すること」
「ああ」
「蒼月殿も同行なさるでしょう」
「むしろ、その方がいい」
「なぜですか」
「蒼月がいれば、周りも下手なことはしない」
「蒼月殿に警備を任せるような言い方はおやめください」
「頼もしいだろう」
「論点が違います」
ラシードは楽しげに笑いました。
「心配するな。今夜はただ、灯を見せるだけだ」
「その『ただ』が、毎回ただで済まないのですが」
「今度こそ済む」
「信用はしておりません」
「正直だな」
「事実でございます」
その夜。
ラシードは豪奢な領主の衣を無造作に脱ぎ捨てると、カリムとして街を歩く時の軽い装いに着替えました。
目立つ飾りは外し、洗い晒しの布を肩にかけ、いつものように身軽な姿になります。
鏡に映る男は、サライナ領主ラシード・アル=ハーリドではありません。
砂漠の道を知り尽くした、どこか胡散臭い盗賊のカリムだ。
「では、行ってくる」
「くれぐれも、余計な真似はなさらないように」
「分かっている」
「本当に分かっておられますか」
「今夜のお前は、しつこいな」
「今夜も、でございます」
ラシードは声を上げて笑い、部屋を出た。
迎賓館の庭へ向かう道は、昼間よりも静かでした。
街の奥からは、低い楽の音がかすかに流れてきます。
人々が水盤の広場へ向かっているのでしょう。
灯を手にした者たちの気配が、夜の通りに少しずつ集まり始めていました。
迎賓館の庭の外れで足を止めると、ラシードは窓の方を見上げる。
あの娘は、きっと外の気配に気付いている。
いや、先に気付くのは蒼月の方かもしれません。
「起きてるか?」
ラシードは、声を抑えて呼びかけました。
姿を見せたリリアは、案の定、驚いたように目を丸くしています。
その顔を見て、ラシードは内心で笑う。
――やはり、領主として会うより、この方が面白い。
「今度は、勝手に連れ出したりしない」
先にそう告げると、リリアは言葉に詰まりました。
前回のことを思い出したのでしょう。
それもまた、ラシードには少しおかしかった。
「この前、だいぶ怒られただろ」
リリアの表情が、分かりやすく揺れた。
素直な娘です。
隠そうとしても、すぐに顔に出ます。
――だからこそ、見ていて飽きない。
ラシードは、街の奥へ視線を向けました。
「街の灯を見に行く」
今夜見せるのは、砂嵐が続く夜に、サライナの民が自分たちのためにともす祈りの灯です。
――あの娘が、それをどう見るのか。
ラシードは、ただ純粋にそれを確かめたかったのです。




