第四十二話 外伝:ラシード編―ラシードとカリム―
領主館へ戻った時には、ラシードの外套も髪も砂にまみれていました。
裏門をくぐるなり、待っていた執政官ナーディルが深く一礼します。
「おかえりなさいませ、ラシード様」
「おう」
ラシードは短く返した。
その声には、いつもの軽さがほとんどありませんでした。
ナーディルはラシードの姿を一目見て、眉間の皺を深くする。
「まずは砂を落とし、お着替えを」
「後だ」
ラシードは外套の砂を払うこともせず、そのまま廊下を進みました。
足元から細かな砂が落ちていきます。
ナーディルは小さく息を吐き、後を追った。
「ずいぶんとご機嫌が悪いようでございますね」
「悪くもなる」
ラシードは低く吐き捨てた。
「なんだ、あの体たらくな行軍は」
ナーディルは黙って聞いています。
「砂漠に入るのに、ラクダじゃなく馬だ。しかも荷馬車まで引いていた。案内人がついていながら、あの有様だぞ」
ラシードの声に、抑えきれない怒りが滲む。
「砂漠を知らない客人を、あんな形で奥へ進ませるなど、案内人のすることじゃねぇ」
「前の街で雇った者でございますか」
「ああ。高い金だけ取って、まともな支度もさせていない。あれでは、砂嵐に遭わずとも全滅していたかもしれない」
ラシードは足を止め、窓の外を見ました。
外壁の向こうでは、砂嵐がまだ荒れているはずだ。
ほんの少し到着が遅れていればどうなっていたか、嫌でも頭に浮かびました。
「しかも、部下は命令違反だ」
ラシードの声がさらに低くなる。
「見つけて、つけておけ。俺が行くまで何もするな。そう命じたはずだ」
「その一行の有様を見れば、彼らが獲物だと思ったのも無理はございません」
ナーディルは言った。
「大所帯。荷馬車。水と薬。護衛はいても、砂漠の歩き方を知らない。盗賊から見れば、これ以上ないほど分かりやすいカモでございましょう」
「それにしたってだ」
ラシードは鋭く振り返った。
「命令を破っていい理由にはならねぇ。まして、娘の天幕へまで押し入るなど論外だ」
ナーディルはそこで初めて、目を細めました。
「……そこまでいたしましたか」
「ああ」
短く答えたラシードの目には、はっきりと怒りが宿っていました。
「銀狼が押さえ込んでいなければ、俺が裁いていた」
それが正しいことではないと分かっていても、誰かが線を引かなければ、砂漠の道はただの殺し場になります。
ラシードは、その一線だけは越えさせないようにしてきました。
砂漠に必要悪があるのなら、その線を越えさせないためです。
「命はなるべく取らせない。子供には手を出させない。砂漠を越えるだけの最低限の水や食べ物は残す。奪い尽くさせない」
ラシードは低く言う。
「その線を越えたら、ただの野盗だ。俺の下に置く意味がない」
「処分を?」
「ああ、懲罰を。あと裏ルートを知られた。厳重に口止めしておけ」
「たとえ知ったからとはいえ、あのルートをまっすぐに最短で迷わず来られるのはラシード様しかいませんが……」
「それでもだ」
ラシードは吐き捨てるように答えた。
「はっ。副頭へ伝えておきます」
「今は先に、客人の扱いだ。しかも砂嵐は長い」
「一週間以上は続きそうでございますね」
「あの重さならな」
ラシードは外壁の方へ視線を戻す。
「荷は全部捨てさせた。砂嵐が収まるまでに、王都ハルディアまでの道中に必要な荷と、到着後に使う荷をそろえろ。ラクダと水と食料も手配しろ。薬も確認しておけ」
「承知いたしました」
ナーディルはすぐに頷いた。
「ただし、ラシード様」
「なんだ」
「そのお姿で表へお出になられるのは、おやめください。今のあなた様は、どう見ても領主ではなく盗賊でございます」
ラシードはようやく、自分の外套と髪に視線を落としました。
砂まみれの外套。
乱れた髪。
腰に差した使い込まれた短剣。
たしかに、領主ラシード・アル=ハーリドの姿ではありません。
「それもそうだな」
「まずは砂を落とし、お着替えを」
今度は有無を言わせぬ声でした。
ラシードは面倒そうに肩をすくめたが、逆らう気はない。
「はいはい。分かったよ」
「『はい』は、一度で結構です」
「手厳しいな」
「事実でございます」
ナーディルは淡々と返した。
そのやり取りに、ようやくラシードの口元へいつもの薄い笑みが戻ります。
けれど、その瞳の奥に残る怒りは消えていませんでした。
その夜。
どうにも気にかかったラシードは、領主の衣を脱ぎ、再びカリムとして迎賓館へ向かいました。
リリアの部屋は、二階の奥だと聞いている。
カリムは外壁の影を伝い、身軽に窓辺までたどり着いた。
窓辺から中をのぞくと、リリアは短剣を握り、こちらを待ち構えていました。
「起きてるか?」
刃を向けられているというのに、カリムは気にした様子もなく声をかけました。
安全な街の中にいるはずなのに、リリアの背筋は固く、翡翠色の瞳の奥には焦りが沈んでいます。
公爵。
聖女。
サハルディアを救うために呼ばれた娘。
――まいったな……。
ラシードは胸の内で小さく呟く。
あのまま放っておけば、この娘は休むことさえ自分に許さないのでしょう。
「明日、街を案内してやる。朝、迎えにくるからな」
そう口にした瞬間、リリアの瞳が少しだけ明るくなりました。
そのわずかな変化を見て、ラシードは内心で苦笑した。
――簡単に顔に出るな。本当に、危なっかしい娘だ。
けれど、その顔の方がいいとも思いました。
せめてサライナにいる間くらい、それでいい。
それくらいの時間なら、くれてやっても罰は当たらないだろうと思いました。
翌朝、ラシードは迎賓館の庭の外れに立っていました。
約束を守っただけです。
少なくとも、本人はそういう顔をしています。
リリアが窓を開け、驚いたようにこちらを見下ろします。
「来たぞ」
「本当に来たのですか」
「俺が来ると言ったら来る」
「行くなら今だ。昼を過ぎると市場が混む」
ラシードは軽く笑い、持っていた布包みを投げて渡す。
「その前に、これに着替えてこい」
「え?」
リリアは慌てて布包みを受け取りました。
「その格好のまま歩いたら、遠目にもお貴族様だって分かる。街着に着替えてこい」
わざと雑に言った。
丁寧に扱えば、また公爵の顔に戻ってしまう気がしたからです。
リリアは少しだけむっとした顔をしましたが、素直に頷きました。
戻ってきたリリアは、砂色の布に身を包んでいました。
金の髪はやわらかな布で隠され、外套が肩から落ちています。
けれど、隠しきれてはいません。
翡翠色の瞳も、白い肌も、歩き方も、どうしたって人目を引きます。
「悪くない」
ラシードが言うと、リリアは少し疑わしそうに見た。
「……褒めているのですか」
「一応な」
本当は、よく似合っていると言ってもよかったのかもしれない。
けれど、ラシードはそれ以上は言わず、すぐに背を向けました。
「行くぞ。市場が混む前に回る」
街着を身につけたリリアの表情は、先ほどより少しだけ明るくなっていました。
――それでいい。今くらい、公爵の顔なんざ忘れていろ。
市場へ出ると、リリアはすぐに足を止めた。
右を見て、左を見て、少し歩いてはまた立ち止まる。
そのたびに、蒼月も面倒そうに歩調を緩めています。
ラシードにとっては見慣れた朝の市場です。
リリアは、その一つ一つを初めて見るもののように見つめていました。
昨日まで張り詰めていた肩が、少しだけ下がっている。
それを見て、ラシードは胸の内で小さく笑う。
――やっぱり連れ出して正解だったな。
布屋の前で、リリアが足を止めました。
並んだ布を、ただ眺めています。
欲しがっているわけではないのかもしれない。
ただ、自分で選ぶという行為に慣れていないのだろうと、ラシードは思う。
王都で与えられるものは、おそらく上等だろう。
けれど、用意された美しさばかりでは息が詰まる。
「貴族様ってのは、布も自分で選べないのか?」
からかうように言うと、リリアはすぐに振り向いた。
「選べます」
「なら選べ」
ラシードは店先からリリアがじっと見ていた一枚の布を手に取る。
淡い砂色の生地に、翡翠色の細い刺繍が入っています。
派手ではありませんでしたが、リリアの瞳にはよく合いました。
「お前には、こういう色の方が似合う」
布を肩へかけると、リリアは目を丸くした。
それから、指先で刺繍に触れます。
その顔を見て、ラシードは少し言葉に詰まる。
ただの布です。
サライナでは珍しくもない品です。
それなのに、リリアはまるで大切な贈り物でも受け取ったように見つめていました。
「……私に、ですか?」
「他に誰がいるんだよ」
「ありがとうございます」
リリアは嬉しそうに微笑む。
「大切にします」
ラシードは、リリアのあまりにも真っ直ぐな礼にすぐに返事ができませんでした。
領主として向けられる礼とも、盗賊頭として差し出される媚びとも違います。
ただ嬉しかったから礼を言う。
それだけのものが、妙に胸の内へ入り込んできました。
「そんな大げさなもんじゃねぇよ」
ラシードは照れ隠しのように視線を逸らした。
「街歩きのついでだ」
屋台で果実酒を買ったのは、半分は悪戯心でした。
赤い飲み物を渡すと、リリアは疑いもせず口をつける。
甘い香りに安心したのか、少しだけ表情を緩めます。
「……甘い。美味しいです」
「だろ」
「でも、酒だ」
「えっ」
リリアの頬が、分かりやすく赤くなりました。
その瞬間、蒼月が低く唸った。
周囲の空気が一気に冷えたような気がして、ラシードはすぐに両手を上げる。
「おっと、少しだ。少しだけだって」
「先に言ってください」
「言ったら飲まなかっただろ」
「……飲みませんでした」
「ほらな」
思わず笑うと、リリアは困ったように眉を寄せました。
怒っているようで、それでもどこか楽しそうでした。
それが分かるから、ラシードもつい余計なことをしたくなります。
試しに杯を蒼月へ向ける。
「蒼月も飲んでみろ」
蒼月は鼻先を近づけ、それからすぐに顔を背けました。
分かりやすすぎる拒絶だ。
「分かった、分かった。もう勧めねぇよ」
ラシードは笑って杯を引っ込めた。
リリアはまだ頬を赤くしたまま、両手で杯を持っています。
その顔は、昨夜の張り詰めた顔とは違っていました。
ただ楽しいと思っている顔。
――ああ。こういう顔もできるのだな。
ラシードは、ほんの少しだけ満足した。
サライナの領主としてでも、盗賊頭としてでもなく、ただラシードという男として、その顔を見られたことが少し面白かったのです。
けれど、そのままでは済みませんでした。
夕刻、リリアが迎賓館へ戻る頃には、護衛たちが相当慌てていたことをラシードは知っていました。
街には、カリムの耳があります。
迎賓館の中で誰がどんな顔をしていたかまでは見ていなくとも、リリアが黙って出たことで大騒ぎになったことくらいは伝わってきました。
領主館へ戻ると、裏門の先でナーディルが待っていた。
いつものように背筋を伸ばし、いつものように静かな顔をしています。
――ああ、もう知っている顔だ。
ラシードは胸の内でそう呟き、何食わぬ顔で片手を上げました。
「おう」
「お戻りですか、ラシード様。本日、グランヴァルド王国のリリア様が迎賓館から姿を消され、一時、館内が大変な騒ぎになったと報告を受けております」
「知ってる」
ラシードは悪びれもせずに答えた。
「今頃、あの娘もこっぴどく怒られてるだろうな」
「では、その件にラシード様が関わっておいでだという認識でよろしいですね」
「街を案内しただけだ」
「それを、護衛にも告げずに行ったのでございますね」
ナーディルの声は静かでした。
静かな分だけ、余計に逃げ場がありません。
ラシードは面倒そうに頭をかく。
「蒼月もいた。危険はなかった」
「危険があったかどうかを判断するのは、連れ出した側ではございません」
即座に返され、ラシードは口を閉じた。
ナーディルはいつものように穏やかな顔をしていましたが、その声音には少しの緩みもありませんでした。
「相手は、グランヴァルド王国より来られた公爵様です。しかも、サハルディア王国へ向かう重要な客人でございます」
「分かってる」
「分かっておいでなら、なおさらでございます」
ナーディルは淡々と続ける。
「たとえ善意であっても、護衛に告げず連れ出せば、問題にならないはずがございません」
「善意だと分かってるならいいだろ」
「よくありません」
返答は早かった。
ラシードは肩をすくめた。
「手厳しいな」
「当然でございます」
ナーディルの声に、わずかなため息が混じりました。
「ラシード様。あなた様は、領主でございます」
「今はカリムだ」
「どちらのお名前でも、なさったことは変わりません」
ラシードはしばらく黙っていた。
言い返す言葉はありました。
――サライナを見せたかった。リリアにただの娘として笑う時間をやりたかった。
けれど、それを口にしたところで、ナーディルの説教が短くなるとは思えませんでした。
「……悪かったよ」
ようやくそう言うと、ナーディルは少しだけ眉を動かした。
「私にではございません」
「分かってる」
ラシードは小さく息を吐く。
「次は、ちゃんと護衛に言わせる」
「言わせる、ではなく、事前に許可を取ってください」
「はいはい」
「『はい』は、一度で結構です」
「はい」
ナーディルはようやく小さく息を吐きました。
ラシードはその横を通り過ぎながら、ふと迎賓館の方角を振り返りました。
今頃、リリアも護衛たちに囲まれて、しゅんと肩を落としているのでしょう。
少しだけ悪いことをしたと思う。
けれど、後悔はしていませんでした。
今日一日、リリアは確かに笑っていました。
公爵でも、聖女でもなく、砂漠の街を歩く一人の娘として。
それを見られただけで、ラシードには十分でした。




