第四十一話 外伝:ラシード編―砂漠の領主と盗賊の掟―
サライナの領主館には、砂漠を見渡せる高い窓がありました。
その窓辺に立ち、ラシード・アル=ハーリドは遠く霞む砂丘を眺めています。
昼の光を一身に受けた砂漠は、どこまでも明るく、そしてどこまでも乾ききっています。
その残酷なほどの美しさの下に、どれほどの飢えと渇き、そして人間の底知れぬ欲が沈んでいるかを、ラシードは誰よりもよく知っていました。
「ラシード様」
背後から執政官ナーディルの声がした。
振り向かなくとも、ナーディルがいつものように眉間に皺を寄せていることが分かります。
「グランヴァルド王国の一行が砂漠の入口を越えました」
「ああ。思ったより早いな」
ラシードは軽く応じ、机の上に置かれた書状へ目を落とす。
それはサハルディア王国から届いた急報の写しであり、瘴気や魔物化、救援要請、そして遠方から来るという聖女と銀狼についての記載がありました。
書面だけを見れば、まるで古いおとぎ話のような内容です。
けれど、過酷な砂漠に入ってくる一行は紛れもない現実です。
しかも、砂漠に慣れていない大所帯です。
荷も水も人もそろったその一行は、飢えた盗賊たちから見れば、格好の獲物にしか見えないでしょう。
ラシードは壁に掛けられていた外套を手に取った。
「ちょっと出かけてくる」
「……カリムとして、でございますね」
ナーディルが眉を動かして問うと、ラシードは悪びれることなく答えた。
「ああ。砂漠の空も気になる」
このサライナと周辺の砂漠地帯を守るためには、強固な城壁の内側だけを見ていればよいというわけではありません。
水を運ぶ商隊、砂漠を渡る旅人、道を外れた者、飢えた者、奪う者、奪われる者。
そのすべての危うい均衡の上に、サライナの平穏は成り立っています。
物資の乏しい砂漠から、盗賊の存在を完全に消し去ることは不可能です。
しかし、盗賊たちを野放しにすれば商隊は途絶え、水も薬も食料も届かなくなり、サライナだけでなく、周辺の街、ひいてはサハルディア王国そのものもたちまち干上がってしまいます。
だからこそ、サライナの当主は代々、表では領主として街を治め、裏では盗賊たちを束ねるという二つの顔を持っていました。
その事実を知る者は、ほんのわずかしかいません。
万が一知られれば、サライナの信用そのものが砂のように崩れ去ってしまうからです。
「では、お手柔らかにお願いいたします」
「俺はいつでも優しいだろう」
「ラシード様の優しさは、後始末をする者にあまり優しくありません」
「手厳しいな」
「事実でございます」
ナーディルの言葉に、ラシードは肩をすくめて笑い返した。
そして奥の部屋へと歩みを進め、上質な絹の衣を脱ぎ捨て、砂に紛れる色の外套を羽織ります。
きちんと結ばれた髪を無造作に崩し、きらびやかな装飾を外し、腰に使い込まれた短剣を差す。
鏡の中から領主ラシードの姿は少しずつ消え去り、代わりにそこに立ったのは、砂漠の盗賊たちが『頭』と呼んで畏怖する男、カリムでした。
領主館の裏門を抜けると、乾いた風が容赦なく頬を打ちました。
城壁の暗い影には、数人の男たちが息を潜めて待っている。
布で口元を隠し、砂よけの外套をまとった男たちは、街の表通りでは決して見かけない顔ぶれです。
「頭」
「高貴なお貴族様一行が、砂漠に入りました。獲物ですぜっ」
「ああ、聞いている」
男たちの目が獲物を前にした獣のように光りました。
しかし、ラシードの目に笑みはない。
「先に言っておく」
乾いた風が、足元の砂をさらっていきます。
「見つけて、つけておけ。俺が行くまで、何もするな」
「頭が、直々に?」
「ああ」
ラシードは低く、しかし絶対の威圧を込めて命じた。
「情報じゃ、かなり高位の貴族らしい。護衛も厚いだろう。勝手に手を出すな。命令を聞けない奴に、砂漠の掟は預けられん」
その冷ややかな宣告に、場の空気は凍りつきました。
砂漠の盗賊にとって、頭目であるラシードの掟を破ることは、この砂漠で生きる場所を失うことを意味します。
「行け」
カリムの合図とともに、男たちは一斉に砂丘の影へと音もなく散っていきました。
その背を見送りながら、カリムは遠く続く砂漠を見つめる。
砂嵐の気配はまだ薄いものの、砂漠の機嫌は恐ろしいほど変わりやすいのです。
数日後、配下の盗賊から、一行を見つけたという知らせが入りました。
夜の帳が下りた砂漠を駆け、野営地に近づいたラシードは、微かに漂う荒事の気配に舌打ちをした。
己の厳命を破り、血気にはやった部下たちが、一行の野営地に侵入し、あろうことか荷馬車や天幕へ押し入ろうとしていたのです。
暗がりから様子を窺うラシードの視線の先で、一人の部下が砂の上に縫い付けられていました。
その部下を押さえ込んでいたのは、月明かりを弾くような銀色の毛並みを持つ、大きな狼。
夜の砂漠に張り詰めるその冷ややかな殺気は、離れた場所にいるラシードの肌さえも粟立たせるほどです。
「蒼月、殺さないで!」
張り詰めた空気を切り裂いたのは、凛とした女の声でした。
月明かりにうっすら浮かぶ金髪の娘は、護身用の短剣を握る指先を震わせながらも、真っ直ぐに銀狼を見つめていました。
その声に応えるように、圧倒的な力を持つ銀狼が、前脚の力を緩めたのです。
ラシードは暗闇の中で目を細めた。
――あれが報告書にあった、聖女と呼ばれるリリアか。ただ守られているだけの、泣き叫ぶような脆弱な貴族の娘ではないらしい。
そしてあの銀狼も、ただの獣ではありませんでした。
本当は一行を見つけて、これほど護衛が厚く、大人数の相手に手を出すのは無謀だと愚かな部下を諭し、ただ遠くからサライナまで見守るつもりでいました。
それなのに、部下はよりにもよって早々に荷馬車を襲い、娘にまで手を出していた。
さらには最悪なことに、巨大な砂嵐の兆候まで表れ始めていました。
ラシードを呆れさせたのは、それだけではありません。
一行の野営の有様もまた、砂漠を知る者から見れば目を疑うものでした。
陣立てを見れば、砂漠の旅に必要なラクダの姿はなく、いるのは馬ばかり。
しかも、砂に足を取られる重い荷馬車まで並んでいます。
――なんだ、この素人丸出しの編成は。
――前の街で雇った案内人が、意図的に手を抜いたとしか思えない。おそらく高額な報酬だけを巻き上げて経費を削減し、いざとなれば自分たちだけが生き残り、このお貴族様の一行は砂漠でのたれ死んでも構わないと踏んだのだ。
――こうなった以上、正面から事情を話したところで、すぐに信じてもらえるとは思えない。部下もいる手前、本当のことも話せない。
――一芝居打つか。
ラシードは小さく舌打ちをし、薄く口の端を上げた。
部下たちが護衛兵に取り押さえられたのを見届けると、ラシードは薄い雲の切れ間から月がのぞいた瞬間に、焚き火の光が届く場所へと歩み出ました。
「その銀狼を止めるのか」
隊長らしき、鋭い目つきの護衛の男が何者かと問いかける中、ラシードは「この者たちを率いる者だ」と名乗りました。
捕らえられた部下たちは、頭の姿を確認しても声を上げない。
掟を破った後ろめたさと、普段から叩き込まれた沈黙のせいです。
銀狼が剣呑に目を細める中、リリアは「蒼月は獣ではありません。私の大切な者です」とはっきりと告げました。
その強い瞳に、ラシードは純粋な興味を惹かれた。
自らの部下の軽率な行動を認めつつも、ラシードは部下たちを見殺しにはできませんでした。
「……取引をしよう」
ラシードは楽しげに唇の端を上げる。
「そいつらを放してくれたら、俺がサライナまで案内してやろう」
泉の水音だけが響くその沈黙は、背後から巨大な砂嵐が迫っているという決定的な前兆でした。
この危険を、この場ですぐに理解できる者がいるかどうか。
それだけが、ラシードにとっては賭けだった。
幸い、報告書にあったアステルらしき星術院長官は、砂漠の空に出ている不吉な兆しを見落としませんでした。
「星見に、何か厄災の兆しが出ています」
その一言で、場の空気が変わり、ラシードは内心で小さく息を吐く。
どうやら、この一行には、ただのお貴族様ばかりが揃っているわけではないらしい。
武器を預けることを条件に交渉が成立すると、ラシードは冷酷な真実を口にします。
「もうすぐ砂嵐が来る」
その言葉に、前の街から同行していた案内人の顔色が変わりました。
砂漠の空と風の変化に、ようやく気付いたのでしょう。
けれど、それはあまりにも遅すぎる。
本当に砂漠を知る案内人なら、もっと早く異変を読んでいたはずでした。
案内人が示した砂嵐の予兆と、アステルの星見による厄災の兆し。
その二つが重なったことで、ようやく一行にも砂嵐の危険が現実のものとして伝わったようでした。
正規の道ではサライナまで丸一日かかりますが、ラシードの知る道ならば半日でたどり着けます。
けれど、それでも間に合うかどうかは分かりません。
巨大な砂の壁は、おそらく半日ほどで一行に追いつくでしょう。
――我ながら、とんでもない賭けに出たものだ。まったく、割に合わない。
「これから、すぐに出発する。荷馬車は捨てろ」
ラシードは機動力を優先させるため、水や薬、最低限の食料だけを残してすべてを捨てるよう命じました。
過酷な決断を受け、慌ただしく動く一行を見つめながら、ラシードはリリアと銀狼に視線を向けた。
「俺は、その銀色の狼と嬢ちゃんを気に入った」
それは決して嘘ではありませんでした。
ラシードは傍らに控えさせていたラクダを引き寄せ、周囲を鋭く見渡しました。
一行が雇っていた前の案内人の姿が消えている。
砂嵐の気配を察して、混乱に乗じて真っ先に泉にある祠へ逃げ出したのでしょう。
砂漠の恐ろしさを知らぬ一行を、文字通り砂の中に置き去りにして。
「急げ。砂嵐は待ってはくれない」
すべてを飲み込む死の嵐が迫る中、砂漠の掟を背負う男は、奇妙な縁で結ばれた一行を導くため、暗黒の砂の海へと足を踏み出したのです。
それから半日近く、ラシードは一行の先頭を駆け、砂の道へ導き続けた。
――さすが、選ばれた騎士たちだ。疲れてはいるが、誰一人として遅れていない。あのアステルとかいう星術院長官も、大したものだな。
ラシードは胸の内でそう呟き、口の端を上げました。
夜明けが近づいた頃、ラシードは背後から迫る異様な気配に、舌打ちを堪えていました。
空は、不吉な砂の色に濁り始めています。
視界の先にはサライナの城壁が捉えられています。
砂嵐の侵入を防ぐため、重い門扉がゆっくりと内側へ引かれ始めていたのです。
――ああ、だから騎士というものは……。
ラシードは胸の内で低く毒づいた。
馬も人もすでに体力の限界だというのに、まだ剣や荷物に執着していました。
騎士にとって剣が命なのは分かりますが、砂漠の掟では、命より重い荷など存在しません。
「走れ! 全ての荷物を捨てろ! 馬が潰れるまで鞭を使え! 全速力だ!」
苛立ちと焦燥に任せ、ラシードは砂混じりの風へ怒号を叩きつけた。
その声に押されてようやく荷や剣が捨てられていきますが、それでも隊列の速度は足りない。
死の壁が、すぐ後ろまで口を開けて迫っていた。
――もう間に合わないかもしれない。
ラシードがそう覚悟しかけた瞬間だった。
背後から、夜明けの砂漠を震わせるような深く力強い遠吠えが響き渡ったのだ。
それは、恐怖や疲労に呑まれかけていた隊列の空気を、一変させた。
何かに背を強く押されたように、馬やラクダたちが最後の力を振り絞って砂を蹴り始める。
――なんだ。めちゃくちゃ格好いいじゃねえか。
驚きに目を見開いたラシードの横を、一つの銀色の閃光が追い抜いていった。
あの娘を背に乗せた、美しい銀狼だ。
その蒼い瞳は閉まりかける城門だけを見据え、一直線にそこへ飛び込んでいく。
銀狼と娘だけの速度なら、誰よりも早く安全な門の内側へ逃げ込めたはずだ。
けれど、銀狼は門をくぐったその場所で身を翻し、閉じようとする門番たちへ低い唸り声を上げて立ち塞がった。
そして、背にいる娘が、身を乗り出すように叫んだのだ。
「待ってください。あと少しだけでいいんです」
砂嵐の轟音の中でも、その必死な声はラシードの耳に痛いほど届きました。
「まいったね。これは……」
ラシードは砂を蹴りながら、どうしようもなく口の端を上げた。
愚かな部下の命を救うため。
サライナの領主として無用な面倒を避けるため。
一行を助けた理由は、あくまで打算と計算の産物だったはずです。
けれど、仲間を見捨てまいと門を閉じるのを止める娘と銀狼の姿は、砂漠で生き抜くためにラシードが削ぎ落としてきたはずの何かを、激しく揺さぶりました。
こんなものを見せられて、計算通りに冷めた心でいられるわけがありません。
銀狼と娘が命がけで稼ぎ出したわずかな猶予に、ラシードはラクダを城門の内側へ滑り込ませました。
続いて、一行が転がるようにして門の中へなだれ込んできます。
ラシードは振り返り、全員が門の内側へ入ったことを確認する。
その直後、分厚い門扉が完全に閉ざされ、すさまじい轟音が外壁を打ち据えました。
外の世界が荒れ狂う砂の音に呑み込まれていく中、ラシードは肩の砂を払い、息をつきました。
「……こりゃ、おそらく一週間以上は続くな」
ラシードは視線を巡らせた。
激しく息を切らしながらも、真っ先に仲間たちの無事を確かめて回る娘。
その傍らで、周囲を警戒し続ける銀狼。
その姿を見て、ラシードは自然と小さく笑みをこぼしていました。
「……面白い」
小さくつぶやいた声は、砂嵐の轟きに紛れて消えていきました。
どうやら、とんでもなく面倒な客人を拾ってしまったらしい。
けれど、ラシードの胸の内に、後悔はありませんでした。




