第四十話 砂漠の街サライナ―出立―
サライナに足止めされてから十日目。
ようやく砂嵐が収まったという知らせが届いた。
遠征隊にとっては手痛い足止めでした。
アステルは滞在中の状況を詳しく書き記し、グランヴァルド王国と、迎えに来るはずのサハルディア王国側の軍へと手紙を送りました。
また、サライナで受けた支援への謝礼と、買い直した物資の費用についても、後日正式に精算できるよう記します。
ガレスは護衛兵たちとともに装備を整え直し、ルークは買い付けた物資の最終確認に追われます。
アステルは執政官を通じ、領主側が手配した新たな案内人の身元と経歴を確認した。
カリムは、あの夜以来、ぱったりと姿を見せなくなっていました。
結界の向こうに差し込む光は、久しぶりに明るく澄み渡っています。
城門の外では、高く積もった砂を払う作業が始まっています。
その日の午後、執政官が迎賓館を訪れました。
「出立前に、領主ラシード様がお会いになるそうです」
その言葉に、アステルは頷く。
リリアたちは身支度を整え、領主の館へ向かいます。
謁見の間は、砂漠の街らしく白い石と見事な金色の装飾で造られています。
高い窓の外には、まだ薄く砂が舞っています。
リリアはアステル、ガレス、ルーク、エレナ、ミラとともに中へ進みました。
蒼月もリリアのそばにぴたりと寄り添っています。
そして、謁見の間の奥、上座の前に立っていた人物を見た瞬間、リリアは思わず足を止めた。
「カリム……?」
そこに立っていた男は、砂漠で出会った時とはまるで違う装い。
上質な絹で整えられた衣服。
きちんと結ばれた髪。
貴族としての礼を少しも崩さない、堂々たる立ち姿。
けれど、その目元に浮かぶ悪戯っぽく楽しげな光だけは、間違いなく見覚えのあるものでした。
ルークが隣で大きく息を呑みます。
「な、ななな……っ」
ガレスが反射的に剣の柄に手をかける。
「おっ、お前……」
「執政官殿、賊が入り込んでいます!」
ルークが叫ぶと、案内をしてきた執政官は頭に手を当てて、深くため息をついた。
「……」
当のカリムは、愉快そうに声を上げて笑います。
「ふはははっ。驚いたか」
ガレスの目が鋭く細められ、エレナとミラも即座に警戒の色を浮かべます。
アステルは一瞬だけ目を見開き、それからすべてを悟ったように息を吐きました。
「……なるほど」
カリムは優雅に一礼した。
その所作は、砂漠の荒くれ者のものではありません。
どう見ても、正式な教育を受けた高位の貴族の礼です。
「カリムはもう一つの名だ」
男は悪びれる様子もなく言う。
「サライナ領主、ラシード・アル=ハーリド。改めて、遠方より来られた客人を歓迎しよう」
リリアは驚きのあまり言葉を失いました。
蒼月は、ただラシードを見据えています。
ラシードは、そんな蒼月へ楽しげな視線を向ける。
「いやね、おっと失礼した。私は、ただ先に聖女様と銀狼様を、一度この目で見ておきたかったのだ」
「では、領主としてすぐに会わなかったのは……」
ルークが震える声で尋ねます。
ラシードはにやりと笑った。
「うーん。蒼月殿にすぐ見破られると思ってな」
ガレスの声が一段と低くなる。
「あの泉でのことは、どう説明する」
ラシードは軽く肩をすくめます。
「あれは、俺のもう一つの名の方の部下が早とちりしただけだ」
「早とちり、ですか」
アステルが聞き返します。
「ああ。見慣れない一行が泉にいたからな。俺の部下が、勝手に警戒した」
ラシードはそこで、少しだけ表情を改めた。
「ただ、見に行ったら砂嵐が来そうだった。だから避難させたのは本当だ」
リリアは、まっすぐにラシードを見つめる。
「では、助けてくれたのは……」
「本当だ」
ラシードは柔らかく笑います。
「見に行って良かったと思っている」
その言葉だけは、決してふざけているようには聞こえませんでした。
けれど、すぐにラシードの目元には、いつもの楽しげな光が戻ります。
「それなら、なぜ最初から言ってくださらなかったのですか」
リリアが尋ねると、ラシードは当然のように答えた。
「いや、その方が面白いだろ」
「面白い……」
ルークが呆然と呟きます。
ガレスの眉間には、さらに深い皺が寄る。
「では、盗賊というのは嘘だったのか」
ラシードは唇の端を上げました。
「ふふっ。それは内緒だ」
その言葉に、ルークは何か言いたげに口を開きましたが、結局言葉になりません。
アステルは小さく息を吐き、ガレスは最後まで警戒の目を緩めませんでした。
リリアも、目の前の男がカリムであり、同時にサライナの領主でもあるという事実を、まだうまく飲み込めずにいます。
ラシードはそんな一行の反応を心底楽しむように眺めてから、大げさに手を広げた。
「さて、砂漠越えだが。本来なら私が案内したいところだが……」
「おっほん」
すぐそばに控えていた執政官が、わざとらしく大きな咳払いをした。
ラシードの言葉がぴたりと止まります。
執政官は表情を崩さず、ただ無言で領主を見つめていました。
「……分かっている」
ラシードはひどく不満そうに肩をすくめます。
「領主がまた勝手に街を空けるわけにはいかない、という顔だな」
執政官の痛いほどの沈黙が答えだった。
ラシードは小さく笑い、改めてリリアたちへ向き直ります。
「では、私から特別にリリア様へ、これを差し上げよう」
ラシードはリリアの手に、小さな水色の珠を置きました。
中を覗き込むと、清らかな水のようなものが揺らめいている、とても美しい珠です。
「これに、『水の理を司る者よ、珠に宿りし雫を解き放て、流れ、満ち、命をつなげ』と詠唱して祈ってみてごらん」
リリアが不安げにアステルを振り返ると、アステルは黙って頷く。
リリアは珠を両手で包み込み、言葉を紡ぎます。
「水の理を司る者よ、珠に宿りし雫を解き放て、流れ、満ち、命をつなげ」
すると、小さな珠の表面から、澄み切った水がこんこんと溢れ出してきたのです。
「わぁ……!」
「止める時はこうだ。『水の理を司る者よ、珠に宿りし雫を鎮めよ、流れを閉じ、静寂へ還れ』」
教えてもらった通りにリリアが唱えます。
「水の理を司る者よ、珠に宿りし雫を鎮めよ、流れを閉じ、静寂へ還れ」
その言葉とともに、溢れ出ていた水がふっと止まった。
その光景を見ていた執政官が、眉を寄せます。
「ラシード様、それはサライナにとっても貴重なものですよ……」
「構わん」
「……仕方ありませんね」
リリアにも、この乾いた砂漠の中で、水を生み出す魔道具がどれほど貴重なものかは痛いほど分かりました。
「カ……ラシード様、本当にこんな貴重なものをいただいてもよろしいのですか」
「いいのだ。砂漠の入口にある最初の街では、説明が足りていなかったようだ。案内人の見立ても甘かったらしい。この砂漠を預かる者として、すまぬな。それと、騙してしまったお詫びだ。この大所帯だ、水はいくらあっても足りまい」
ラシードは目を細める。
「リリア様と蒼月殿には、こんなところで死んでほしくないからな。次の街にたどり着くまで、砂嵐は来まい」
後にリリアが聞いたところによると、砂漠を越える旅人は、十名ほどの小さな隊で移動するそうです。
この地では、水場と避難用の小さな祠が一定の間隔で設けられています。
けれど、水場があるとはいえ、今回のように三十名を超える遠征隊全員の喉を十分に潤せるほどではありません。
祠の広さにも、備えられている水甕や保存食の量にも限りがあります。
砂嵐が一週間以上続くこともあるこの地では、大人数での砂漠越えは、それだけで大きな危険を伴うのです。
だからこそ、この珠は遠征隊にとって何よりも代えがたい命綱になります。
「では、大切に使わせていただきます」
リリアは深く頭を下げる。
「それから……あの日、窓辺で話した壁画のことは本当だ。ここには銀狼にまつわる伝説が残っている。ただ、もう遺跡は砂にのまれてしまって、遥か昔に、聖女と銀狼が世界を救ったという寝物語程度しか残っていないがな。街の者の中には、蒼月殿を見て、古い伝説を思い出した者もいたようだ」
ラシードはふっと表情を和らげました。
「さて、そろそろ出ないと次の休憩地までたどり着けないぞ」
警戒を解かなかったガレスたちでさえ、ラシードへ向ける視線が柔らかいものへと変わりました。
アステルが一歩前に出ます。
「ラシード様、何から何までありがとうございました」
「よい。砂漠では、助け合わなければ生きていけない」
リリアを筆頭に、アステルたち一行はラシードへ向かって深く頭を下げました。
アステルが顔を上げ、皆へ力強く告げます。
「では、行こう」
砂嵐が収まったサライナの城門は、大きく開かれています。
外には十日間の嵐が残した砂の山が広がっていましたが、空は澄み渡り、砂漠の向こうには確かに次の道が続いていました。
新たに手配された案内人が先頭に立ち、ガレスたち護衛兵はラクダと荷を慎重に確認しています。
アステルは最後の書類を執政官へ渡す。
受け取った執政官は、その場で内容を確認し、支援物資の内訳、買い直した品の費用、後日の精算先まで淀みなく整理していきます。
奔放な領主に振り回されているように見えて、この領主館の実務は驚くほど隙がない。
――主が主なら、臣下もまた優秀ということか。
アステルは胸の内でそう思い、書類から目を上げました。
荷を確認していたルークが、少し驚いたように声を上げた。
「リリア様、門前で捨ててきた皆の剣が、まとめてラクダに積まれています」
リリアはルークの視線の先を見る。
そこには、砂嵐から逃げるために門前で捨てた剣が、丁寧にまとめられていました。
砂嵐が収まったあと、すぐに探しに出てくれたのでしょう。
リリアは蒼月の隣に立ち、サライナの強固な城壁を見上げました。
砂漠の中にある街だというのに、サライナには清らかな水があり、温かな灯りがあり、市場には人々の活気ある声が満ちていました。
カリムとしてのラシードは、最後まで掴みどころのない人だった。
けれど、この街を治める領主としてのラシードは、きっと誰よりも街を愛する優秀な人なのだろうと、リリアは思います。
この街で過ごした十日は、思っていたより長く、そして不思議なほど心に残る時間でした。
「リリア」
ふいに降ってきた声に振り向くと、城門の上にラシードが立っていました。
領主としての正装ではなく、どこか案内人カリムの頃を思わせる軽快な装いです。
ラシードは片手を上げ、にやりと笑う。
「蒼月」
蒼月の蒼い瞳が、ラシードを見上げます。
「楽しかったぞ」
リリアは少し驚き、それから心から小さく笑いました。
「私も、楽しかったです」
蒼月は、目を細めます。
ラシードは満足そうに笑い、ひらひらと手を振りました。
「また、サライナへ来い」
「はい、また来たいです」
リリアが真っ直ぐに答えると、ラシードは嬉しそうに笑いました。
やがて、出発の合図がかかります。
――また来るのか?
「うん。また来たい」
――では、付き合ってやる。
「蒼月、ありがとう」
リリアは胸の奥がふっと温かくなるのを感じます。
一行はサライナの城門を抜け、再び過酷な砂漠へと踏み出しました。
リリアは一度だけ振り返ります。
高い城壁の上で、ラシードはまだ手を振っていました。
砂漠の領主であり、カリムという名の怪しい男。
最後まで、本当のところは分からないまま。
それでも、リリアは大きく手を振り返しました。
蒼月は何も言わず、リリアの乗るラクダの隣を力強く歩きます。
一行の背後で、サライナの街の確かな気配が、少しずつ遠ざかっていきました。




