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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第三章 サハルディア王国

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第三十九話 砂漠の街サライナ―砂漠の祈り―

砂嵐に閉ざされてから、七日目。

アステルやガレスは出立に備えた実務を進めていましたが、護衛兵たちの中には、交代で身体を動かしたり、短い息抜きに市街へ出たりする者も出始めていました。

リリアもまた、エレナとミラに付き添われ、軽い剣の訓練を続けながら過ごしています。


その日の朝、迎賓館を訪れた執政官は、これまでと同じ落ち着いた物腰でありながら、その表情にわずかな重さを滲ませていました。


「皆様にご報告がございます」


アステルとガレスが応接室に入り、リリアたちも席に着きます。

蒼月はリリアの足元に伏せ、執政官を見据えていました。


「外壁の外の砂嵐ですが、今しばらく収まる気配がございません」


告げられた言葉に、ルークが思わず聞き返します。


「七日も続いているのに、まだですか」


「はい。サライナでは珍しいことではありません。長い時には十日以上続くこともございます」


リリアは小さく息を呑んだ。

七日。

王都を離れてからの日々を思うと、胸の奥がざわめきます。

一刻も早く、瘴気に沈むサハルディアへ向かわなければならない。

けれど、荒れ狂う砂嵐が収まらない限り、このサライナから先へ進むことはできないのです。


「旅支度は進めております。ラクダ、水、保存食、案内人の手配も、出立できる時に備えて整えておりますので、ご安心ください」


「分かりました」


アステルが頷くと、執政官は居住まいを正しました。


「状況に変化があり次第、すぐにお知らせいたします。それから、本日は砂嵐が始まってから七日目の夜でございます。街では、砂嵐が終わるよう祈る灯がともされます。皆様も、ご覧になってはいかがでしょうか」


そう言って一礼し、執政官は応接室を出ていきました。

扉が閉まった途端、ルークが小さく息を吐き出す。


「まだ、出立できないのですね」


「焦っても仕方ありません」


ガレスが低く窘めます。

けれど、焦燥はどうしてもリリアの胸の底に澱んでしまいます。

サハルディアで待っている人たちのことを考えると、何もできずにいる時間がひどく重く感じられました。


アステルはそんなリリアの心情を察したのか、少しだけ声を和らげます。


「リリア殿。今は休むことも仕事です」


「はい」


「砂嵐が収まれば、また過酷な砂漠を越えることになります。その時に倒れてしまっては困りますからね」


リリアは小さく頷く。


「ちゃんと休みます」


蒼月はリリアのそばで、目を細めています。


――焦るな。


蒼月の深い声が、リリアの心に響く。


――砂が止まらぬなら、待つしかない。


「うん」


リリアは小さく答えます。

頭では分かっている。

けれど、ただ待つということは、思っていたよりもずっと難しいことでした。


その夜。

リリアは、街で灯がともされると聞いてから少し落ち着かずにいました。


――エレナやミラを誘ってみようか。でも、怒られたばかりだし、旅の途中で非常識かしら。


迎賓館の門の方からは、街へ出ていく人々の笑い声が聞こえてきます。

リリアは部屋の窓辺に立ち、その様子を見下ろしていました。

寝台のそばに伏せていた蒼月の耳が、ふいに動いた。


――来たぞ。


リリアは窓辺から振り返ります。


「えっ」


――あの男だ。


少し間を置いて、蒼月が呆れたように低く唸りました。


――カリムだ。


リリアは目を丸くします。


「また……?」


その時、窓の外から聞き慣れた声が降ってきた。


「起きてるか?」


慌てて窓辺へ近づくと、庭の影の中にカリムが立っていました。

以前のように窓枠へ身を乗り出すことはせず、少し離れた場所から片手を軽く上げています。


「今度は、勝手に連れ出したりしない」


カリムは先回りするように言う。


「この前、だいぶ怒られただろ」


図星を突かれ、リリアは言葉に詰まります。


「……見ていたのですか」


「顔を見れば分かる」


カリムはからかうように笑いました。


「だから、今度はちゃんと言え。護衛も連れてこい」


「どこへ行くのですか?」


「街の灯を見に行く」


カリムは視線をサライナの市街へと向けます。


「砂嵐が長く続く時、この街では祈りの灯をともす。砂が収まり、また道が開くように願うんだ」


「祈りの灯……」


「歓迎会で見たのは、領主家のもてなしだろ」


カリムは軽く肩をすくめる。


「今夜見せるのは、街の方だ。サライナの民が、砂嵐の中でどう過ごしているか」


リリアの胸が、小さく高鳴りました。

昼の活気ある市場とも、領主家の豪奢な歓迎会とも違うサライナ。

砂嵐に閉ざされながらも、祈りの灯をともす人々の姿。


傍らで、蒼月が低く息を吐きます。


――行きたそうな顔をするな。


「……だって」


――今度は言ってから行け。


リリアは蒼月を見つめる。

その蒼い瞳は呆れたように細められていましたが、決して止める気はないようでした。


「うん。ちゃんと言うわ」


リリアは窓の外へ向き直ります。


「少し待っていてください。エレナさんとミラに伝えてきます」


「いい子だ」


「子供扱いしないでください」


少し頬を膨らませるリリアを見て、カリムは楽しそうに笑います。


「じゃあ、庭の外で待ってる。蒼月、お前も来いよ」


促され、蒼月はゆっくりと立ち上がった。


――あの男、相変わらず馴れ馴れしい。


ぼやくような蒼月の声に、リリアは小さく吹き出しそうになりながら、急いで部屋を出ました。


事情を話すと、エレナとミラはすぐに顔を見合わせた。


「夜の街へ、ですか」


エレナの声は静かでしたが、その奥にわずかな鋭さが潜んでいました。


「はい。カリムが、祈りの灯を見せてくれると……」


リリアは少しだけ肩をすくめてみせます。


「今度は、ちゃんと伝えました」


その言葉に、ミラが小さく息を吐く。


「そこは、えらいです」


「ミラ」


エレナがたしなめるように名を呼びますが、ミラは表情を崩さずにリリアを見つめました。


「でも、行くなら私たちも一緒です。絶対に離れません」


「はい」


リリアが素直に頷くと、エレナはすでに短剣の位置を確認し、外套を手に取っていました。


「ガレス隊長には私から伝えます。リリア様は、外へ出る準備をなさってください」


「ありがとうございます、エレナさん」


ほっとしたように微笑み、リリアは夜の街へ出るため、外套を羽織り、歩きやすい装いを整えます。

少しして、リリアはエレナ、ミラ、蒼月とともに迎賓館の庭へ出ました。

庭の外れでは、カリムが壁にもたれるようにして待っていました。

その姿を見るなり、エレナの目がすっと細くなります。


「カリム殿。今度は、勝手な真似は控えていただきます」


「怖い目だな」


カリムはひょうひょうと肩をすくめた。


「今度はちゃんと許可を取らせただろ」


「許可ではありません。報告です」


エレナは氷のように冷静に切り返します。


「私たちは護衛として同行します。リリア様から離れる行動は認めません」


「はいはい。分かってるよ」


カリムは面倒そうに答えながらも、どこか楽しげでした。


「じゃあ行くぞ。祈りの灯は、夜が深くなる前が一番きれいだ」


迎賓館の門を抜けると、夜のサライナは昼とはまるで違う貌を見せていました。

商区の喧騒は静まり返り、通りには低い灯りが等間隔に並べられています。

建物の壁に垂らされた薄布が風に揺れるたび、灯りの影がまるで砂の波のように揺らめきました。

静けさの中に、人々の祈るような声と哀愁を帯びた楽の音が、細く重なって聞こえてきます。


「こっちだ」


カリムの慣れた足取りに続き、細い道へ入ります。

道幅は狭いですが、足元には小さな灯りが点々と続いており、迷うことはありません。

リリアが転ばないよう、蒼月がぴたりと寄り添って歩きます。

エレナは背後から周囲へ鋭い視線を配り、ミラはリリアの反対側を固めていました。


「昼の街と、全然違いますね」


リリアの小さな呟きに、カリムは前を向いたまま答えます。


「昼は商人の街だ。夜は、祈る街になる。砂漠と生きる街は、そういうもんだ」


細い通りを抜けると、やがて視界がふいに開けました。

そこは、巨大な水盤を中心にした広場。

昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、周囲には低い石段が巡らされています。

水面には、無数の小さな灯りが映り込んでいました。


人々が水盤の縁に立ち、順番に小さな灯を掲げては、水面へ映しています。

灯を直接水へ浮かべるわけではありません。

ただ水に映し、祈り、それからまた石の上へ置くのです。

炎そのものは決して強くありません。

けれど、数えきれないほど集まり、水鏡に反射したその光は、広場全体に星屑を敷き詰めたような淡い輝きをもたらしていました。


「……きれい。星みたい」


思わず漏れたリリアの声は、静寂の中に吸い込まれていきました。

水を汚さないための作法なのだと、リリアはすぐに気付く。

砂漠の街にとって、水は命そのものです。

神聖な祈りのためであっても、それを粗末に扱うことは決してしないのでしょう。


「この水場は、サライナの中心だ」


カリムが低い声で語りかけます。


「祈りの灯だ。砂が鎮まり、道が戻るように願う。砂漠の街は、水がなければ一日ももたないからな」


「水に、祈るのですか」


「水に、というより、水が守ってきたものに、だな」


水盤を見つめるカリムの横顔には、いつもの軽い笑みはありませんでした。


「道が閉ざされても、水が残っていれば街は生きる。水が守られている限り、人は待てる。だから、ここへ来る」


リリアは水面を見つめた。

揺れる灯りの中に、人々の顔が映っています。

幼い子供、年老いた女性、商人らしい男、旅装をまとった者。

皆一様に、声を荒げることなく光を見つめています。

サライナは砂嵐に怯えているわけではありません。

ただ耐え忍んでいるのでもありません。

祈り、働き、水を守りながら、自らの足で立ち、明日の道を待っているのです。


「強い街ですね」


リリアの真っ直ぐな言葉に、カリムは少しだけ目を細めました。


「そうだな」


ひどく短い返事でしたが、どこか誇らしげな響きがありました。

エレナとミラも、そんなカリムの横顔を見つめています。

ただ街を案内しているだけにしては、言葉に宿る重みがあまりにも深すぎます。

まるで、この街の痛みも誇りも、すべて自分のものとして語っているようでした。


「カリム」


「なんだ?」


呼ばれていつもの顔に戻った青年に、リリアは微笑みかけます。


「あなたは、本当にこの街が好きなのですね」


一瞬、カリムの表情が強張った。

けれど、すぐに照れ隠しのように口の端を上げます。


「嫌いな街を、連れ回したりしねぇよ」


「そうですね」


リリアが小さく笑ったその時、広場の端にいた子供が蒼月の存在に気付きました。

小さな手が、母親の服を引きます。


「銀の狼……」


その声に、周囲の人々が視線を向ける。

祈りの灯を見つめる時と同じような、静かで畏敬の念の混じった眼差しを向けています。


蒼月はリリアのそばに悠然と立ち、広場の灯りを見下ろしていました。


――妙な目で見る。


「怖がっているわけではなさそうよ」


――なら、何だ。


「分からないけれど……少し、祈っているみたい」


蒼月は低く息を吐く。


――俺は祈られるものではない。


「ふふっ」


リリアが小さく笑いかけました。


やがて、水盤の向こうから低い笛の音が響きました。

人々が少しずつ場所を空け、広場の中央へ数人の踊り手が進み出ます。

歓迎会で見た華やかな舞とは違う、祈りそのもののような静謐な動き。

腕はゆっくりと砂の流れを描き、足元の鈴は水面を揺らさないよう控えめに鳴らされます。


踊り手たちの影が水面に映り、灯りと重なり合います。

まるで、砂と水と光が一つに溶け合い、夜の暗闇の中に小さな道を描き出しているようでした。


――歓迎会の時の舞とは違うな。


「うん。こっちは、もっと静かね」


――人の願いは、面倒だ。願うだけでは、何も変わらん。


冷めた蒼月の言葉に、リリアは水面に映る灯りを見つめたまま、微笑みました。


「でも、願わなければ立っていられない時もあると思うわ」


蒼月はそれ以上何も言わず、ただリリアの傍らに寄り添っている。


その時、カリムが水盤のそばに用意されていた小さな灯を一つ取り、リリアへ差し出しました。

器の中には、細い芯と少しの油が入っています。


「旅人も灯を置いていい。道が開くように願う灯だからな」


リリアは少し驚き、差し出された灯を見つめる。


「私が置いてもいいのですか?」


「ああ。砂漠を越える者なら、誰でも置いていい」


カリムは水面に揺れる灯りへ視線を向けます。


「道が開くように。無事に次の街へ辿り着けるように。そう願うための灯だ」


リリアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、両手で灯を受け取りました。


「ありがとうございます」


「礼を言うものじゃない。ただ、願えばいい」


リリアは小さく頷き、水盤のそばへ進み出ました。

手の中の灯を、水面へかざします。

本物の火と、水面に映った火。

二つの光が合わさって、ひとつの純粋な祈りのように揺らめきます。


砂嵐が収まりますように。

サハルディアへ辿り着けますように。

待っている人たちを、助けられますように。

そして、この街の人々にも、無事に朝が来ますように。


祈りを終え、灯を石の上へ置きます。

小さな光が、幾千の灯りの列に加わります。


「……届くといいですね」


ほとんど吐息のようなリリアの声に、隣へ歩み寄ってきたカリムが水面を見下ろしながら応じました。


「届くさ。少なくとも、この街の連中は、そう信じてる」


その声に嘘やからかいの色はありませんでした。

リリアはもう一度、光の海となった広場を見つめる。

砂嵐に閉ざされ、道が絶たれても、決して心まで閉ざしてはいない。

サライナの人々のともす灯は、確かな希望の形でした。


しばらくの間、笛の音と、かすかな水音だけが、夜の広場を優しく満たしていました。


やがて、カリムが周囲の祈りを妨げないように、声を落とした。


「さて、そろそろ戻るぞ。あまり遅くなると、また怒られる」


「今回はちゃんと伝えています」


むっとしたリリアに、カリムは笑います。


「それでも怒る奴は怒る」


「必要があれば怒ります」


すかさずエレナが淡々と返すと、カリムが肩をすくめました。


「ほらな」


リリアは困ったように眉を下げましたが、以前のような後ろめたさはありませんでした。


帰り道、リリアは何度も振り返った。

遠ざかってもなお、水盤の灯りは淡く夜を照らしています。

砂嵐に閉ざされた街の中で、人々がともす祈りの光は、リリアの胸の奥深くに焼き付いていました。


迎賓館の近くまで戻ると、カリムは足を止めます。


「ここまででいいだろ」


「中まで来ないのですか?」


「中に入ったら、そこの怖い護衛に睨まれる」


「すでに睨んでいます」


エレナの容赦ない言葉にカリムは笑い、それからリリアへ視線を向けました。


「どうだった。夜のサライナは」


リリアは少し考えます。

楽しかった、美しかった、という言葉だけでは、到底足りません。


「強くて、優しい街だと思いました」


カリムの目が、ほんの少しだけ揺らぐ。

けれど次の瞬間には、いつもの軽い笑みの仮面をかぶっていました。


「そりゃあ、いい感想だ」


「カリムのおかげです。見せてくれて、ありがとうございました」


リリアが丁寧に頭を下げるのを見て、カリムは一瞬だけひどく困ったような顔をした。


「そういう礼の言い方、慣れねぇな」


「でも、本当にそう思ったので」


「分かったよ」


カリムは片手をひらひらと振り、背を向けます。


「じゃあな、公爵様。今夜はちゃんと部屋で寝ろよ」


「言われなくても寝ます」


リリアが言い返すと、カリムは楽しそうに笑い声を残し、夜の通りへと歩き出しました。

その背中はすぐに灯りの作る影へと紛れていきます。

歩き去る姿はあまりにも自然で、まるでサライナの夜の闇そのものに溶け込んでいくようでした。


エレナはその背中を鋭い眼差しで見送りながら、胸の内で呟きます。


――リリア様が公爵と誰か言っただろうか……。


「あの男、やはりただの案内人ではありませんね」


ミラも警戒を解かぬまま小さく頷く。

リリアはカリムが消えた通りを見つめます。

胸の中に、祈りの灯の眩さと、カリムの見せたあの横顔が重なりました。


蒼月が目を細めます。


――あの男は、隠しているものが多い。


「うん」


リリアは小さく頷きました。


「でも、悪い人ではないと思うの」


――悪いかどうかは、まだ分からん。


蒼月の声は低く、慎重な響きを帯びていました。


――だが、この街を大事にしていることは分かる。


リリアは蒼月を見つめ、それからもう一度、夜の通りへ視線を向けます。


「そうね」


砂嵐はまだ、サライナの外の世界を無情に閉ざしています。

けれどリリアは今夜、この街の中にともる確かな希望の灯を見ました。

閉ざされた夜の中でも、人々は道が開くことを信じて立ち続けています。

そのしなやかな強さを、確かに知ったのです。


その胸の奥では、サライナの祈りの灯火が、いつまでも優しく揺らめき続けていました。


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