第三十八話 砂漠の街サライナ―歓迎会―
その夜、リリアは部屋へ戻ってからも、楽しかった街の景色と、玄関前で自分を待っていた皆の顔が、何度も胸の中で重なります。
蒼月は寝台のそばに伏せたまま、リリアを見守っていました。
「蒼月」
――なんだ。
「私、ちゃんと気をつけるわ」
――お前は、悪いことをしたわけではない。
「でも、心配をかけたわ」
蒼月はしばらく黙っていた。
それから、低く息を吐くように声を響かせます。
――なら、次は言ってから行けばいい。
「うん」
リリアは小さく頷く。
今のリリアには、それが一番大切な約束のように思えました。
翌日。
朝食の後、執政官が迎賓館を訪れました。
その後ろには、数名の使用人と書記官らしき者たちが控えています。
「皆様の旅支度につきまして、領主ラシード様より手配を承っております」
執政官は、書記官へ目配せする。
「まず、水袋と保存食をこちらで整えます。砂漠では、何より水の管理が重要です。人数分に加え、予備の水袋も用意いたします」
書記官が手元の板に書かれた項目を確認する。
「薬や野営に必要な道具につきましても、こちらで補わせていただきます」
ガレスは黙って頷きました。
砂嵐から逃れるために、重い装備やほとんどの荷を置いてきた一行にとって、その申し出は大きな助けでした。
「次に、旅装です」
執政官は続けた。
「皆様の装備はグランヴァルド王国のものです。そのままでは砂漠で目立ちすぎますし、日差しや砂にも向きません。日除けの外套、砂避けの頭布、夜の冷えに備えた外套をこちらでご用意いたします。移動中は、砂漠の民の旅装を重ねていただくのがよろしいでしょう」
リリアは、昨日カリムに渡された砂色の外套を思い出しました。
「それから、移動手段についてです。この先の砂漠道では、馬も荷馬車も使えません。砂に脚を取られ、車輪はすぐに埋まってしまいます。長距離の移動には耐えられないのです」
リリアは思わずガレスを見ました。
ガレスも頷きます。
「ですので、皆様の馬は砂漠の入り口の都市へお送りいたします。こちらで責任をもって送り届けますので、ご安心ください。代わりに、砂漠越えに慣れたラクダを人数分ご用意いたします。荷を運ぶためのラクダも数頭、合わせて手配いたします」
アステルが確認する。
「荷は、そのラクダに積む形ですね」
「はい。砂漠ではそれが最も安全でございます。それから、案内人を一名お付けいたします。サハルディアへ向かう道は、砂丘の形や水場までの距離を知らねば危険です。道を知る者が同行する必要がございます」
「案内人の身元は確認させていただく」
ガレスが低く言った。
「もちろんでございます。領主家に長く出入りしている者を選びます。砂漠越えの経験も十分にございます」
「助かります」
アステルが答えました。
「こちらでも人数と荷の確認を行います。必要なものがあれば、改めて伝えましょう」
「承知いたしました」
執政官たちが去った後、応接室にはしばらく静かな空気が残りました。
用意された内容に不足はありません。
むしろ、こちらが求める前に、必要なものがほとんど整えられようとしていました。
「先日から思っていましたが、あまり事情を聴かれてないのに手配が確実で早いですね」
ルークが言った。
アステルは頷きます。
「ええ。砂漠の街として慣れているのでしょうが、それにしても行き届いています」
ガレスも腕を組んだまま、執政官が去った扉を見ていました。
「こちらの人数、馬の数、荷の量、すでに把握している」
「それは、迎え入れた時に確認したのではありませんか?」
リリアが尋ねると、ガレスは頷く。
「もちろん、それもあるでしょう。ですが、判断が早い」
エレナも低い声で同意します。
「領主側に、相当慣れた者がいますね」
「サライナの領主家が有能、ということでしょう」
アステルは、穏やかな口調でそう締めくくった。
「今はそう受け取っておきましょう。少なくとも、こちらを客人として扱う意思はあります」
こうして、サライナでの滞在中に、次の旅へ向けた準備が少しずつ進み始めました。
サライナに到着して三日目になっても、砂嵐はまだ収まる気配を見せませんでした。
迎賓館の中では、それぞれが次の旅へ向けて動いています。
そんな中、迎賓館に執政官が訪れました。
「今宵、領主家にて皆様を歓迎する席を設けたいと、領主ラシード様より仰せつかっております」
執政官は深く頭を下げる。
「本来であれば、領主自らご挨拶申し上げるべきところでございます。ですが、砂嵐への対応と物資の確認が続いておりますため、今宵は、領主に代わり、執政官である私が皆様をお迎えいたします」
「歓迎の席、ですか」
アステルが聞き返す。
「はい。砂漠を越えて来られた皆様を、サライナとして正式にお迎えしたいとのことでございます」
アステルはガレスへ一度視線を向けました。
ガレスは小さく頷きます。
「ご厚意、ありがたくお受けいたします」
アステルが答えると、執政官はもう一度頭を下げました。
「ありがとうございます。それから、リリア様には、ぜひこちらをお召しになるようにと、ラシード様より仰せつかっております」
そう言って、控えていた使用人が布包みを前へ差し出す。
「ラシード様から、私に……?」
リリアは驚いて、差し出された包みを見つめた。
包みを開くと、中には淡い砂色を基調としたサライナの礼装が収められていました。
薄く柔らかな布に、翡翠色の刺繍が細く入っています。
グランヴァルド王国のドレスのような重々しさはなく、けれど客人を迎える席にふさわしい品のある衣装でした。
「もちろん、ご無理にとは申しません」
リリアは少し戸惑いました。
けれど、その衣装に施された翡翠色の刺繍を見て、胸の奥が小さく揺れます。
まるで、自分の瞳の色に合わせて選ばれたようでした。
「……とても、きれいですね」
ルークが衣装を見る。
「リリア様に、よくお似合いになると思います」
エレナも頷きました。
「歓迎の席に招かれるのであれば、サライナ側の礼を受けるのもよろしいかと」
ミラは少しだけ目を輝かせる。
「私も見たいです」
リリアは困ったように笑い、それから衣装を抱きました。
「では、ありがたくお借りします」
その言葉に、執政官は少しだけ目元を和らげました。
「リリア様。そちらは、ラシード様からの贈り物でございます」
「贈り物……?」
リリアは驚いて、腕の中の衣装へ視線を落とした。
「はい。そのように仰せつかっております」
リリアは再び戸惑いました。
けれど、丁寧に選ばれたその衣装を前にすると、断る方がかえって失礼な気がしました。
迷うリリアのそばで、蒼月が尻尾をふわりと動かす。
――ふんっ。もらっておけ。
リリアは決心を固め、丁寧にお辞儀をしました。
「では……ありがたく頂戴いたします」
執政官は頷く。
「ラシード様にも、そのようにお伝えいたします」
その言い方に、アステルの目が細められました。
直接言葉を交わす前から、なぜリリアに似合う色まで選べるのか。
その夜。
リリアは、領主ラシードから贈られたサライナの礼装に袖を通しました。
淡い砂色の布は驚くほど軽く、歩くたびに柔らかく揺れます。
翡翠色の刺繍は胸元から袖口へ細く流れ、灯りを受けるたびに控えめな光を返しました。
砂漠の街にふさわしい、涼やかで品のある衣装。
「リリア様、とてもお似合いです」
ルークが穏やかに言う。
「本当に。砂漠の姫君みたいです」
ミラが目を輝かせます。
リリアは頬を赤らめ、困ったように笑いました。
「そんな、大げさです」
エレナは微笑みながらも、リリアの衣装の裾や袖の動きを確認していました。
歩きにくくないか。
いざという時、動きを妨げないか。
護衛としての目は、華やかな場でも変わりません。
蒼月はリリアのそばに立ち、じっとその姿を見ている。
――似合っている。
短い言葉のあと、少し間を置いて、もう一度声が響きました。
――リリア、かわいい。……かわいい。
リリアは小さく目を見開き、それから嬉しそうに微笑む。
「蒼月、心の声が漏れてるわ……。ありがとう」
そばに控えていたルークが、不思議そうに首を傾げました。
「蒼月殿は、何と?」
リリアは頬を赤らめ、布の端を握った。
「えっ……。内緒です」
ルークは一瞬だけ目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「そうですか」
蒼月は悪びれる様子もなく、目を細めていました。
迎賓館に隣接する広間には、すでにサライナの者たちが準備を整えていました。
壁には色鮮やかな布が掛けられ、低い灯りが金の器に反射して、広間全体を柔らかく照らしています。
卓には、香辛料を使った肉料理、乾燥果実を添えた焼き菓子、薄く焼かれたパン、澄んだ水と果実の飲み物が並べられていました。
王都の晩餐会とは、雰囲気が違います。
重々しい礼法よりも、旅人を迎える温かさがありました。
「皆様、ようこそお越しくださいました。今宵は、ラシード様に代わり、私が皆様をお迎えいたします。どうぞ、サライナのもてなしをお楽しみください」
アステルは礼を返す。
「ご厚意、感謝いたします」
ガレスも礼を失しない程度に頭を下げました。
リリアは広間に入った瞬間から、目を奪われていました。
柔らかな灯り。
見たことのない料理。
低く響く楽の音。
香辛料と甘い果実の香り。
それらが混ざり合い、まるでサライナという街そのものが、一行を迎えてくれているようでした。
「きれい……」
リリアが小さく呟くと、隣にいたルークが微笑む。
「王都の宴とは、ずいぶん違いますね」
「はい。なんだか、街の中にいるみたいです」
蒼月はリリアのすぐそばで、会場を見渡していました。
広間の中でも、その大きな銀狼の姿はひときわ目立ちます。
サライナの者たちは驚きながらも、声を上げて騒ぐことはありません。
遠巻きに、畏れるように、あるいは敬うように、蒼月を見つめていました。
執政官はその様子を見ても、動じませんでした。
まるで蒼月がこの場にいることも、最初から織り込み済みであったかのように、自然に席を整えさせています。
「蒼月の場所まで用意されているのですね」
リリアが思わず言うと、執政官は穏やかに微笑む。
「大切なお連れ様と伺っておりますので」
それだけ。
けれど、アステルの目が細められました。
ガレスも一瞬だけ、執政官へ視線を向けます。
大切な連れ。
そう伝えたのは、誰だったのか。
サライナ側のもてなしは、行き届きすぎているほどでした。
客人を迎えるための礼としても、あまりに整いすぎています。
まるで、こちらの事情をあらかじめ知っていたかのように。
アステルは穏やかな表情を崩さないまま、視線を伏せました。
ガレスもまた、何も言わずに広間の様子を見渡しています。
やがて、楽の音が少しだけ高くなりました。
広間の中央へ、薄布をまとった踊り手たちが進み出ます。
腕の動きは砂の流れのようで、揺れる布は風を受ける砂丘の影のようでした。
足元の鈴が、細かな音を立てます。
それは王都で見る舞踏とは違っていました。
誰かの手を取り、決められた歩幅で踊るものではありません。
砂と風と祈りを、そのまま形にしたような舞でした。
「サライナでは、遠方より来られた客人を迎える時に、この舞を捧げます」
執政官が説明する。
「砂漠を越えてきた者へ水を。これから砂漠へ向かう者へ道を。そう願う舞でございます」
「道を……」
リリアは小さく繰り返しました。
その言葉が、胸の奥に残ります。
自分たちは、また砂漠を越えてサハルディアへ向かわなければなりません。
そこには濃い瘴気と、魔物化の危険が待っています。
けれど今だけは、この街が一行の旅の無事を祈ってくれているように思えました。
蒼月はリリアのそばで、じっと舞を見ていました。
その蒼い瞳には、揺れる灯りが映っています。
――変わった舞だ。
蒼月の声が、リリアの頭の中に響く。
「きれいよ」
リリアは小さく答えました。
蒼月はしばらく黙っていた。
それから、低く静かな声が届きます。
――悪くはない。
リリアは少しだけ笑いました。
その表情を見て、ルークが柔らかく目を細めます。
アステルもまた、何も言わずにその様子を見守っていました。
歓迎の席は、穏やかに進みました。
サライナの料理は、リリアがこれまで食べたものとは違う香りがします。
辛味の奥に甘さがあり、焼き菓子には乾燥果実の濃い味が染みています。
リリアが少し驚いた顔をすると、ミラが隣で小さく笑いました。
「リリア様、辛いですか?」
「少しだけ。でも、美味しいです」
「では、水を多めに飲んでください」
ルークがすぐに杯を差し出す。
「ありがとう、ルーク」
リリアは笑って受け取りました。
その様子を見て、エレナも少しだけ表情を和らげます。
料理も、音楽も、もてなしも、申し分ありませんでした。
リリアは、サライナという街の温かさを少しずつ感じ始めています。
砂嵐に閉ざされた砂漠の中で、それでも人々は客人を迎え、灯りをともし、祈りの舞を捧げている。
その穏やかな強さを、リリアは確かに感じていました。
宴が終わる頃、執政官は改めて一行へ頭を下げました。
「皆様がサライナに滞在されている間、不自由のないよう努めます。必要なことがございましたら、いつでもお申し付けください」
「ありがとうございます」
リリアは丁寧に頭を下げる。
「とても、素敵な歓迎の席でした」
執政官は目元を和らげました。
「ラシード様にも、そのようにお伝えいたします」
リリアはその言葉に、小さく頷きました。
サライナの領主ラシード。
その名は、今夜の広間の灯りや舞の余韻とともに、リリアの中で輪郭を持ち始めていました。




