↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第三章 サハルディア王国

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/196

第三十七話 砂漠の街サライナ―カリム―

その日の深夜、リリアは寝台に横になったものの、なかなか眠れずにいました。

城門へ駆け込んだ時の緊張が、胸の奥に残っているようです。

蒼月は寝台のそばに伏せ、リリアが眠りにつくのを待っていました。

その耳が、ふいに動きます。


――来たぞ。


蒼月の声が、リリアの頭の中に響く。

リリアは、はっと顔を上げます。


「え?」


――カリムだ。


「カリムが……?」


――殺すか。


「だめよ。まだ何もしていないわ。それに砂嵐から助けてもらったわ」


――ふんっ。


リリアは寝台の脇へ手を伸ばし、護身用の短剣を取りました。

寝台から降りて短剣を構え、窓辺へ視線を向ける。


「起きてるか?」


低い声が、窓の外から聞こえた。

リリアは短剣を握る手に力を込めて、答えました。


「入っていいとは言っていません」


「だから、まだ入ってねぇだろ」


薄い月明かりの中、カリムが窓枠の外に身を寄せていました。

リリアは息をのんでカリムを見つめます。

カリムはリリアを見て、少しだけ目を細める。


「砂漠では暗くて分からなかったが、美しいな」


蒼月が低く唸り、リリアの前に出ます。


カリムはすぐに両手を軽く上げた。


「おっと。分かってるって」


リリアは表情を引き締めたまま尋ねる。


「何をしに来たのですか」


「砂嵐から救った理由を言いに来たのさ」


カリムの視線が、リリアから蒼月へ移りました。


「寝物語程度に聞いてくれ。俺は小さい頃、神話に近い時代の古代遺跡で、大きな狼が描かれた壁画を見たことがあるんだ」


蒼月が、カリムを見据える。


「壁画には、大きな狼が描かれていた。その隣に、誰かが立っていることも分かった。ただ、その人物の部分は足元をわずかに残して崩れていて、もう姿までは分からなくなっていた。おそらく、聖女と銀狼の伝説の一節なのかもしれない。もっとも、もう色も分からないくらい風化していたし、それが本当に存在していた話なのかまでは分からねぇがな」


カリムの横顔には、まるで幼い頃に憧れたものを目の前にした青年のような、隠しきれない熱がありました。


「でも、その狼の姿だけは、ずっと頭から離れずにいた。俺にとって、あれは子供の頃の憧れだったんだ。だから、その狼に似たお前を見た時、心が躍った」


カリムは、リリアへ視線を戻した。


「そして、その銀狼と一緒にいる嬢ちゃんも気に入った。助けたのは、それだけだ」


「嬢ちゃんじゃありません。リリアです。それに、銀狼ではなく蒼月です」


蒼月が、低く喉を鳴らす。

カリムはその音に気付くと、すぐに肩をすくめます。


「分かったよ。リリアと蒼月、な」


それから、窓枠に片手をかける。


「じゃあ、蒼月に殺される前に、俺は退散するな」


「待って。カリム」


リリアが思わず呼び止めると、カリムは窓枠に手をかけたまま振り返りました。


「なんだ?」


リリアは少し迷ってから尋ねた。


「その壁画は、もう見られないのですか」


「今は砂の下だ」


カリムは窓の外へ視線を向けたまま、少し悲しげな顔をしました。

それから、いつものように軽く笑います。


「明日、街を案内してやる。朝、迎えにくるからな」


カリムは窓枠に片手をかけたまま、蒼月へ視線を向ける。


「蒼月も、来いよ」


そう言うと、カリムは夜の闇へ身を滑らせた。

リリアはしばらく窓の外を見つめていました。

蒼月は低く息を吐き、それからリリアのそばへ戻ってきます。


――だめだ。リリア、行くな。


「えっ……うん」


そう答えながらも、リリアの瞳は明らかに輝いていました。

蒼月は低く息を吐いた。

それは声にはならない、リリアには届かないため息でした。


翌朝。

リリアが窓を開けると、庭の外れにカリムが立っていました。

まるで約束の時間に当然のように現れた友人のような顔で、片手を上げています。


「来たぞ」


リリアは驚いた。


「本当に来たのですか」


「俺が来ると言ったら来る」


カリムは軽く笑う。


「行くなら今だ。昼を過ぎると市場が混む」


リリアは一瞬、迷いました。

すると、カリムは持っていた布包みを軽く投げてよこした。


「その前に、これに着替えてこい」


「え?」


リリアは慌てて布包みを受け取る。

中に入っていたのは、砂色の薄い外套と、頭から肩を覆う長い布でした。


「その格好のまま歩いたら、遠目にもお貴族様だって分かる。街着に着替えてこい」


カリムはリリアの服を一瞥し、軽く肩をすくめた。


「目立ちたいなら止めないが、面倒ごとは増えるぞ」


「……着替えてきます」


リリアは少し戸惑いながらも頷きました。

カリムの言い方は雑だが、言っていることは間違っていません。


――リリア、行くなと言っている。


「蒼月、お願い。少しだけ。街を見たいの」


――……仕方がない。俺から離れるな。


「うん。着替えてくるね」


蒼月は庭の端に立ち、カリムから目を離さずにいます。

リリアは急いで部屋へ戻り、渡された外套と頭布を身につけました。

淡い砂色の布が金色の髪をやわらかく隠し、肩から落ちる外套が身なりのよさをほどよく隠してくれます。


鏡の前に立つと、自分が少しだけ別の街の娘になったように見えました。

皆に黙って出ていくことへのためらいはあります。

けれど、胸の奥では、どうしても街を見てみたいという思いが膨らんでいました。

手紙に、カリムと蒼月と一緒に街へ行ってくること、心配しないでほしいことだけを書き、机の上に置きました。

リリアが窓から庭をのぞくと、カリムがにやりと笑った。


「飛べ。受け止めてやる」


――リリア。俺の背に乗れ。


リリアは、カリムと蒼月を見比べる。


「……飛びません。蒼月に乗ります」


リリアは、窓辺へ身を寄せた蒼月の背に乗りました。

蒼月はリリアを乗せたまま、窓から軽やかに庭へ降り立ちます。

リリアの姿を見ると、カリムは軽く目を細め、少しからかうように言った。


「悪くない」


「……褒めているのですか」


「一応な」


カリムはそう言って、すぐに背を向けた。


「行くぞ。市場が混む前に回る」


――リリア、かわいいぞ。


「ありがとう、蒼月」


リリアは頬を緩めました。

異国の街着を身につけたことで、胸が少し弾んでいます。


そうしてリリアは、蒼月とともに迎賓館の裏口から街へ出ました。

サライナの街は、朝から賑わい、商人たちは店先で客を呼び、香辛料の匂いが通りに漂っています。

色鮮やかな布、銀細工の腕輪、乾燥果実、甘い菓子。

水場の近くでは、子供たちが小さな声で笑い、ラクダの厩舎からは低い鳴き声が聞こえてきます。

リリアは目を輝かせて、あちこちを見回しました。


「昨日もすごいと思いましたが……外では砂嵐が続いているのに、街の中ではこんなに普通に生活しているのですね」


「普通にしてなきゃ、商売にならねぇからな」


カリムは歩きながら答えた。


「サライナじゃ、砂嵐が来るたびに泣いてたら生きていけねぇ」


リリアは布屋の前で足を止めました。

薄く透ける布には、赤や青や金の糸が織り込まれ、風に揺れています。


「きれい……」


「貴族様ってのは、布も自分で選べないのか?」


カリムがからかうように言う。

リリアは少しむっとして振り向きます。


「選べます」


「なら選べ。こっちの方が似合うぞ」


カリムは迷いなく、淡い翡翠色の刺繍が入った布を指した。


「親父、これくれ」


店主は布を手に取り、にやりと笑う。


「あいよ」


カリムは受け取った布を軽く広げると、リリアの肩へふわりとかけました。


「お前にはこういう色のほうが似合う」


翡翠色の刺繍が、リリアの瞳の色とよく合っています。

リリアは、その布の端に触れました。

指先に、柔らかな感触が触れます。


「……私に、ですか?」


「他に誰がいるんだよ」


カリムは何でもないことのように答えた。


リリアは布を見下ろしました。

王都へ来てから、リリアは多くの美しいものを見ました。

けれど、それらはいつも誰かが用意してくれたもので、自分で選ぶ時間はあまりありません。

まして、街の店先で、こんなふうに気軽に布を選んでもらうことなどありませんでした。

それは高価な贈り物というより、旅の途中でふと差し出された、小さな優しさのようです。


「ありがとうございます」


リリアは布の端を握り、嬉しそうに微笑みました。


「大切にします」


「そんな大げさなもんじゃねぇよ」


カリムは照れたように視線を逸らした。


「街歩きのついでだ」


蒼月はリリアのすぐそばを歩いていました。

人々は大きな銀狼を見て、驚き、道を開けます。

恐れる者もいれば、目を輝かせる子供もいます。

蒼月はその視線を気にすることなく、ただリリアの歩幅に合わせています。

やがて、カリムは屋台で赤い飲み物を買った。


「これも飲んでみろ」


カリムは、赤い飲み物の入った小さな杯をリリアへ差し出しました。

リリアは少し迷ってから受け取り、口をつけます。

甘い香りが広がり、果実のような酸味が舌に残りました。


「……甘い。美味しいです」


「だろ」


カリムはにやりと笑う。


「でも、酒だ」


「えっ」


リリアは思わず杯を見下ろしました。

蒼月が、低く喉を鳴らします。


「おっと、少しだ。少しだけだって」


カリムは両手を上げて笑った。

リリアは頬を赤くしながら、困ったように眉を寄せました。


「先に言ってください」


「言ったら飲まなかっただろ」


「……飲みませんでした」


「ほらな」


カリムは楽しそうに笑う。

それから、ふと思いついたように杯を蒼月へ向けます。


「蒼月も飲んでみろ」


蒼月は杯へ鼻先を近づけ、匂いを嗅ぎました。

次の瞬間、蒼月がすっと目を細めます。


――いらん。


蒼月の声が、リリアの頭の中に響く。

リリアは笑いそうになった。


「蒼月はいらないそうです」


「なんだ」


カリムが肩をすくめると、蒼月は低く喉を鳴らした。


「分かった、分かった。もう勧めねぇよ」


リリアは杯を両手で持ったまま、まだ少し頬を赤くしていました。

けれど、その表情は明るかった。

久しぶりに、ただ楽しいと思えた。

公爵でもなく、聖女でもなく、誰かに守られるべき存在としてでもなく。

砂漠の街を歩く、一人の娘として。


その頃、迎賓館では、昼近くになってもリリアが姿を見せないことに、ミラが違和感を覚えていました。

前日は砂嵐から逃げ込み、リリアはひどく疲れていた。

だから朝は、無理に起こさない方がいいと、皆が気を遣っていたのです。

けれど、昼になっても部屋から出てこない。

食事にも姿を見せない。

そして何より、蒼月の気配も見当たらない。

ミラはすぐにエレナへ声をかけた。


「エレナ隊長。リリア様が、まだお部屋から出てこられません」


エレナの表情が、変わりました。


「確認する」


二人はすぐにリリアの部屋へ向かった。

エレナが扉の前で足を止めます。


「リリア様。入ります」


返事はありません。

エレナが扉を開けると、部屋の中は静まり返っていました。

窓は開け放たれたまま。

そして、リリアの姿も、蒼月の姿もありませんでした。


「……いない」


ミラの顔色が変わる。


「蒼月殿も、いません」


ミラは、机の上に置かれた手紙に気付きました。


「エレナ隊長、これを」


すぐにガレスへ報告が入った。

ガレスは手紙を確認し、窓の下から裏口へ続く足跡を見ました。

リリアが自分の意思で街へ出たことは分かります。

蒼月も同行している。

けれど、それで安心できるはずがありませんでした。


「街を捜す」


ガレスは短く命じた。


「エレナ、ミラ、護衛を連れて商区へ。ルーク殿は迎賓館に残り、戻った時に備えてください。アステル様へも報告を」


ガレスは手紙を握ったまま、低く言いました。


「蒼月殿が同行していても、危険がないわけではない」


その声は、いつもより硬く響きました。


夕刻。

リリアは蒼月とともに迎賓館へ戻りました。

カリムは門の手前で別れ、手をひらひらと振って去っていった。

リリアは楽しかった余韻を胸に抱えたまま門をくぐりましたが、すぐに足を止めました。

玄関前に、ガレス、エレナ、ミラ、ルークが立っていたからです。

全員の顔を見た瞬間、リリアは自分が何をしたのかを理解した。


「……ただいま、戻りました」


声が小さくなる。

ルークが深く息を吐きます。


「ご無事で、本当によかったです」


その言葉に、リリアの胸が痛くなりました。

ガレスはリリアを見た。


「リリア様」


その声は低く、静かでした。


「お戻りになり、まずは安心いたしました」


「……はい」


「ですが、護衛にも、同行者にも直接告げず、迎賓館を出られたことは看過できません」


リリアは小さく肩を落とす。


「ごめんなさい……」


「手紙を残されたことは確認しました。ですが、あれは報告ではありません。蒼月殿がそばにいたとしても、危険がなかったことにはなりません」


エレナも腕を組んだまま、厳しい目でリリアを見ています。


「護衛も付けずに外へ出るのは危険です」


「はい……」


ミラは少し唇を尖らせる。


「せっかく護身を教えているのに、手紙だけ残して出て行かれたら、私たちの立場がありません」


「ごめんなさい、ミラ」


リリアは本当にしゅんとなっていました。

でも、楽しかった。

久しぶりに、本当に楽しかったのです。

けれど、その間、皆がどれほど心配していたのかを思うと、何も言い返せませんでした。


「もう二度と、皆に黙って出かけません」


リリアは顔を上げ、真剣に言った。


「必ず、誰かに直接伝えてから行きます」


ガレスはしばらくリリアを見つめていました。

やがて、頷きます。


「約束です」


「はい。約束します」


その時、リリアの隣で蒼月が大きくあくびをしました。

場の空気が、ぴたりと止まった。


――リリア、そんなのは無視しとけばいいんだ。


リリアは慌てて蒼月を見る。


「蒼月。今は、あくびをするところではないわ」


蒼月は悪びれる様子もなく、目を細めました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。