第三十六話 砂漠の街サライナ―ソウルリンク―
閉ざされた城門の向こうで、砂嵐が轟いていました。
分厚い門を隔てても、砂が外壁を叩く音は低く響いています。
ガレスの命で人数と負傷者の確認が進められ、護衛兵たちは砂にまみれた顔で互いの無事を確かめ合っています。
門番隊長らしき男が、砂にまみれた一行へ駆け寄ってきました。
「あんたら、よく無事に着いたな。異国の者と見えるが、何者だ?」
アステルは一歩前へ出て、落ち着いた声で名乗る。
「グランヴァルド王国から来ました。星術院長官アステル・フォン・セレスティアです。申し訳ありませんが、サライナの領主殿につないでもらえませんか」
男は一瞬目を見開き、すぐに姿勢を正した。
「失礼しました。私はこの門を預かる隊長です。すぐに執政官をお呼びします。そ、それと……あの大きな銀色の狼は……」
門番隊長は、蒼月を見ていました。
アステルは落ち着いた声で答える。
「こちらの連れです。危険はありません」
門番隊長は、まだ信じがたいという顔をしていましたが、それ以上は追及しませんでした。
すぐに近くの兵へ声をかけ、領主館へ走らせます。
その背を見送ってから、リリアはふと周囲を見回した。
さきほどまで近くにいたはずのカリムたちの姿は、もうありませんでした。
取引は果たされた。
そう判断したのか、カリムたちは城門内の混乱に紛れるように姿を消していたのです。
ガレスは一瞬だけ目を細めたが、追わせることはしなかった。
今は、リリアたちの安全と、サライナでの滞在先を確保することが先でした。
やがて、執政官が現れた。
執政官はアステルたちの身分と事情を聞くと、深く頭を下げます。
「砂嵐の中、よくぞご無事でサライナへお入りになりました。領主ラシード様は現在、砂嵐の対応と執務に追われております。正式なご挨拶は後ほどとなりますが、まずは領主家所有の迎賓館へご案内いたします。馬とラクダは、領主館の厩舎で手当てさせましょう」
「助かります」
アステルが答えると、リリアはようやく蒼月の背から降りました。
地面に足がついた瞬間、膝から力が抜けそうになります。
ルークがすぐに手を差し伸べる。
「リリア様」
「ありがとう、ルーク」
執政官に案内され、城門から街の中心へ進み始めた一行は、周囲の様子に驚きました。
歩きながら、ルークが執政官に尋ねる。
「……街の中、こんなに静かなんですね。外はあんな嵐なのに」
見上げれば、高い外壁の上には薄い光の膜のようなものが空へ広がっていました。
「執政官殿、あの光は……。なぜ街の中には砂が吹き込んでこないのですか?」
執政官は頷いて答えた。
「街全体を高い外壁が囲み、その上には防砂の結界を張っております。砂嵐そのものは避けられませんが、あの結界で砂の流れを上空へ逸らしているのです」
「結界で……砂の流れを逸らしているんですか?」
「ええ。砂漠で暮らす以上、砂嵐は避けられません。それに、サライナは砂漠交易の要でもありますから」
街路には灯りがともり、人々は戸口を閉めながらも、恐慌に陥っている様子はありません。
砂漠の街は、砂嵐とともに生きる術を持っているのだと、リリアは初めて知りました。
迎賓館は、領主館の離れにありました。
白い石造りの建物で、小さな庭園がついています。
砂漠の中とは思えないほど丁寧に手入れされた庭には、低い木々と水盤があり、水音を立てていました。
一行はそこで部屋を与えられ、しばらく滞在することになります。
執政官は、一行を見回して深く頷く。
「今日は砂嵐の中を進まれ、皆さまお疲れでしょう。すべてのことは明日以降になさって、今夜はゆっくりお休みください」
執政官の言葉に、ガレスや護衛兵たちも表情を緩めました。
「まずは砂を落とし、こちらで用意した衣にお着替えください。湯と日用品は、すべてこちらで用意いたします」
執政官がそう言って傍らの侍女に目配せをすると、リリアはようやく、自分の髪や法衣が砂だらけになっていることに気付きました。
思わず手で払おうとしましたが、執政官はそれを制するように言葉を続けます。
「皆さまが今お召しの衣服は、こちらでお預かりし、砂を落として整えたうえで、出立前にお返しいたします。どうぞ、そのままお預けください」
「何から何まで、ありがとうございます。ご厚意に甘えさせていただきます」
アステルが頭を下げる。
「恐れ入りますが、アステル様には滞在に関する最低限の確認だけ、こちらでお願いいたします」
「分かりました」
アステルは頷き、執政官に案内され、迎賓館の応接室へ向かいました。
リリアは、蒼月とともに与えられた部屋で休んでいました。
砂を落とし、用意された衣に着替えて、ようやく椅子に腰を下ろしたところです。
けれど耳の奥には、城門を叩いていた砂嵐の轟音がまだ残っているようでした。
蒼月はリリアの椅子のそばに伏せています。
しばらくして、ルークがリリアの様子を見に部屋の前まで来ました。
迎賓館の庭なら、少し歩くだけでも気分が変わるかもしれない。
そう思って扉を叩こうとした時、内側からリリアの声が聞こえた。
「蒼月、そんなことを言ってはだめよ」
ルークは、伸ばしかけた手を止めた。
「ルークが可哀想だわ」
続いて、くすりと笑う声が聞こえます。
「ふふふ」
ルークは扉の前で固まった。
言ってはだめ。ルークが可哀想。
今、確かにそう聞こえました。
けれど、部屋の中にいるのはリリアと蒼月だけのはずです。
ルークは一度だけ瞬きをし、それから軽く扉を叩きました。
「リリア様、失礼してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
返事を待ってから扉を開けると、リリアは椅子に腰かけ、蒼月はそのすぐそばに伏せていました。
蒼月の蒼い瞳が、ゆっくりとルークへ向けられます。
――なんだ、邪魔しに来たのか。
リリアは、少し困った顔をしていました。
ルークは扉を閉め、それからリリアを見た。
「……リリア様」
「なあに、ルーク」
「もしかして、蒼月殿と話せるのですか?」
リリアの表情が止まった。
口元に手を当て、小さく息を呑みます。
「あっ」
ルークは先ほど聞こえた言葉を思い返しながら、慎重に続ける。
「今、『言ってはだめよ』と聞こえました。ですが、この部屋にはリリア様と蒼月殿しかいません」
リリアは視線を泳がせた。
もう、ごまかしきれないことは分かっている。
リリアは気まずそうに、蒼月へ視線を向けました。
「蒼月……もう、ばれてしまったわ。もう無理よ」
蒼月の声が、リリアの頭の中に響く。
――お前が口に出したのだ。
「それは……そうだけれど」
ルークはリリアと蒼月を交互に見つめる。
正確には、リリアと、何も喋っていないはずの蒼月を見比べていました。
そして、ようやく深く息を吐いた。
「……いつからですか」
リリアは困ったように笑い、指先を口元へ添えたまま答えました。
「んーと。二十歳のお祝いの頃かしら……」
ルークは目を見開いた。
「ええええ」
思わず、普段の落ち着いた声が裏返ります。
「もう三か月以上も前では?」
リリアはますます気まずそうに、肩を小さくすくめる。
「……言うタイミングを逃してしまって」
ルークはもう一度、リリアと蒼月を見比べ、深く息を吐きます。
「……これは、私だけで聞かなかったことにはできません」
リリアは、困ったように眉を下げました。
「やっぱり、そうよね」
「はい。リリア様の安全にも関わります。アステル様とガレス殿には、伝えておくべきです」
蒼月は、つまらなそうに蒼い瞳を細め、あくびをした。
迎賓館の応接室には、アステル、ガレス、ルーク、リリアが集められました。
蒼月はリリアの椅子のすぐそばに伏せています。
リリアは正直に話しました。
「あの日は忘れません。公爵家で家族だけの二十歳のお祝いをした翌日の朝に、蒼月の声が直接頭の中に響くようになりました。そして蒼月の声は、私にしか聞こえないみたいです。何度か試しました」
「試したのですか」
ガレスが低く言いました。
リリアは小さく肩をすくめます。
「だって、本当に私だけに聞こえているのか、最初は分からなかったので……」
アステルはしばらく考え込んでから、頷きました。
「おそらく、どこかで自然にソウルリンクが結ばれたのでしょうね」
「ソウルリンク、ですか?」
ルークが聞き返す。
アステルは頷きます。
「魂と魂が結びつき、片方の声や意識がもう片方へ届く現象です。契約魔法や使い魔契約とは違います。何か、心当たりはありませんか?」
「そういえば、前の日の夜に、蒼月に『これからもずっと一緒にいてね』と言ったくらいです」
アステルは少し考えた。
「おそらく、それがきっかけの一つになったのでしょう。蒼月も、それに応えたのかもしれません。聞いたことはありますが、かなり珍しい現象です。主従関係を結ぶようなものではありません。リリア殿と蒼月の間にだけ生じた、魂の結びつきと考える方が自然です」
リリアは、そばに伏せている蒼月を見ました。
「魂の……結びつき……」
蒼月は、リリアのそばにいます。
ガレスはしばらく黙っていましたが、やがて低く言いました。
「リリア様。今後、蒼月殿の声が危険や判断に関わるものであれば、必ず我々にも伝えてください」
「はい」
リリアは素直に頷きました。
「隠していて、ごめんなさい」
「謝ることではありません」
ガレスは首を横に振る。
「ですが、これからは共有してください。リリア様の安全に関わることです」
ルークも真面目な顔で頷く。
リリアはもう一度、小さく頷きました。
その後、リリアとルークが部屋を出ると、応接室にはアステルとガレスだけが残りました。
蒼月もリリアについて出て行ったため、室内は急に静かになります。
「ソウルリンク、ですか」
ガレスが低く呟きました。
「ええ。リリア殿の話を聞く限り、その可能性が高いでしょう」
アステルは椅子に腰を下ろしたまま、答える。
「魂と魂の結びつき。言葉にすると美しいですが……美しさだけで済ませてよいものではありません」
ガレスの目が、鋭くなりました。
「危険がある、ということですか」
「ええ。ただし、蒼月に悪意があるという意味ではありません」
アステルは首を横に振った。
「声が届くということは、感情や意識の揺れも届く可能性があるということです。蒼月ほど強い存在であれば、蒼月自身にそのつもりがなくとも、リリア殿の心に影響を与えることがあるかもしれません。たとえば、蒼月の抱く強い怒りや焦りが、リリア殿自身の感情と入り混じってしまうことも考えられます。そうなれば、リリア殿の心を少しずつ摩耗させる恐れがあります」
ガレスは黙って聞いている。
「では、リリア様に何か変化があれば、すぐに確認する必要がありますな」
「はい。ですが、リリア殿を怖がらせる必要はありません」
アステルの声は、あくまで穏やかでした。
「リリア殿にとって、蒼月の声は支えでもあるはずです。それを危険だと決めつけてしまえば、リリア殿はまた一人で抱え込もうとするでしょう」
ガレスは頷きました。
「危険として扱うのではなく、注意して見守る、ということですか」
「ええ。今はそれで十分です」
リリアと蒼月は、与えられた部屋へ戻った。
扉が閉まると、リリアは蒼月に向き直り、その首元へ腕を回します。
「これで、もう隠さなくてもお話できるね」
リリアが楽しそうに囁く。
――俺は面白くない。
「そんなこと言わないで」
リリアは困ったように笑い、蒼月の銀色の毛並みに頬を寄せました。
蒼月はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
――仕方ないな。
「ふふ」
リリアは少しだけ安心しました。




