第三十五話 砂嵐
「鎧も捨てろ!」
カリムの声が飛んだ。
「そんなもん抱えて走れるか! 砂に沈みたいなら勝手にしろ!」
護衛兵たちの動きが、一瞬止まる。
ガレスの眉が険しくなります。
けれど、カリムの言葉が間違っていないことも分かっていました。
重い鎧を身につけたままでは、砂の上で馬も人も保ちません。
「重い鎧と盾は置いていけ!」
ガレスが、低く命じた。
「最低限の武器だけ持て。命を優先しろ!」
護衛兵たちは歯を食いしばり、重い装備を砂の上へ下ろしていきました。
「必要なものだけ持て!」
ガレスの声が、風の消えた砂漠に響く。
「水と食料、薬を優先しろ。衣類は最低限でいい。リリア様を中心に配置を組む」
護衛兵たちが一斉に動きます。
カリムはその様子を横目で見ながら、苛立ったように舌打ちしました。
「迷ってる暇はねえ。足りねえもんはサライナで買え。命より大事な荷なんざねえだろ」
その言葉に、誰も反論しない。
夜の砂漠は、静まり返り、耳が痛くなるほどでした。
リリアは、胸の奥に冷たいものが広がっていくのを感じます。
その時、蒼月がリリアの前で身を低くした。
蒼月の声が、リリアの頭の中に響く。
――リリア、背に乗れ。
リリアは息を呑みました。
「え……?」
蒼月の視線は揺るがない。
――万が一、間に合わなくても、お前だけは俺が助ける。
リリアの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「でも、だめよ。そんなの。みんなも……」
――だめだ。
蒼月の声は、低く静かで、決して譲らない強さがありました。
――そうでなければ、今ここでお前だけを連れて去る。
リリアは言葉を失いましたが、蒼月が本気で言っていることは分かります。
誰よりも近くにいるからこそ、分かってしまいました。
「……わかった」
リリアは小さく頷き、急いで自分の荷へ向かうと、大切なものと、折り畳んだ杖を鞄に入れ、肩に掛けました。
鞄の紐を握り締めた時、背後からルークの声がした。
「リリア様。蒼月殿に乗るのですか?」
ルークは、蒼月の背に取り付けようとしている簡易な鞍を見ていました。
「うん。蒼月が、乗れって」
ルークは一瞬だけ蒼月を見た。
蒼月は何も言わず、リリアのそばで身を低くしています。
ルークはすぐに表情を引き締めました。
「そうですか。では、手伝います」
「ありがとう、ルーク。私の馬は、誰かに渡してあげて」
「承知しました」
ルークは短く答えると、手早く蒼月の背に簡易な鞍を整えました。
王都を出る前に、念のため、蒼月に乗るための鞍と手綱を用意しておいたものです。
蒼月の動きを邪魔しないよう、リリアの身体を支えるための最低限の乗具でした。
「蒼月殿、リリア様を頼みます」
そう言うと、ルークは自分の馬へ駆けていった。
リリアは蒼月の背にまたがりました。
銀色の毛並みが、掌の下で揺れています。
蒼月がゆっくりと立ち上がると、リリアの視界が高くなりました。
やがて、カリムが先頭に立ちます。
その背には、小さな灯りが括りつけられていました。
魔法具のような、淡く揺れる灯り。
その後ろに、馬とラクダに乗った護衛兵たちが続きます。
カリムが砂丘の向こうを見据え、声を張り上げました。
「夜の砂漠で道を見失えば、その場で命を落とすと思え。俺の背につけた灯りを目印にしろ。行くぞ!」
その声を合図に、一行は一斉に夜の砂漠へ駆け出した。
馬の蹄が砂を蹴ります。
ラクダの足音が、低く重なっていきます。
気付けば、これまで道案内をしていた案内人と、ラクダを連れてきた男の姿がありませんでした。
おそらく、先ほど口にしていた砂避けの祠へ向かったのでしょう。
けれど、それを確かめる時間も、引き返す余裕もありませんでした。
リリアは蒼月の背に身を預けながら、遠ざかっていく泉を振り返ります。
つい先ほどまで、そこには天幕があり、灯りがありました。
そして、人の気配がありました。
今は、置き去りにされた荷と、消されかけた火の跡だけが残っています。
あの場所も、やがて砂に呑まれるのでしょう。
そう思うと、胸の奥が小さく痛みました。
リリアは、先頭を行くカリムの背を見つめました。
カリムと部下たちだけなら、砂嵐を避けられる祠へ逃げ込むこともできたはずです。
捕らえられた仲間を取り戻した時点で、カリムたちだけで逃げることもできました。
それなのに、カリムは一行をサライナへ導こうとしています。
私と蒼月を気に入った。
カリムは、そう言っていました。
けれど、本当にそれだけなのでしょうか。
リリアの頭の中に、蒼月の低い声が響いた。
――信用するな。
リリアは、蒼月の銀色の毛並みに手を添えました。
「……そうなのかな」
――理由は一つではない。仲間を助けたい。こちらに貸しを作りたい。それだけだ。
リリアは小さく息を呑む。
カリムは味方ではありません。
ただ今は、同じ砂嵐から逃げているだけなのです。
夜の砂漠を、一行はひたすら進み続け、空は白み始めていました。
馬もラクダも荒い息を吐いています。
全員の顔に、疲労の色が濃く浮かんでいました。
やがて、先頭を行くカリムが鋭く顔を上げる。
「見えたぞ。サライナだ!」
リリアは目を凝らし、揺らぐ砂の向こうに高い城壁の影を見つけました。
その上で、かすかな見張り火が揺れています。
砂漠交易路の中継都市、サライナ。
ようやく見えたその姿に、リリアの胸が明るくなりました。
けれど、その安堵は長くは続かなかった。
背後を振り返った瞬間、リリアは息を呑む。
地平の向こうが薄く濁り、夜明けの光を呑み込むように、巨大な砂の壁が迫っていた。
すでに風は強まり、低いうなりのような音が背後から近づいていた。
渦を巻く砂がリリアの頬を強く打ち、肌をこすって、そのまま皮膚を削っていくような痛みが走った。
「あれが……砂嵐……」
リリアの声が震えた。
サライナの城門では、見張りの兵たちが慌ただしく動き、重い門扉が、少しずつ内側へ引かれていた。
カリムが低く吐き捨てる。
「まずい」
ガレスの顔が険しくなる。
「城門を閉める気か」
「ああ。砂嵐を避けるためだ。一度閉まった城門は、嵐が収まるまで開かねえ」
カリムは振り返った。
迫る砂の壁を見て、喉を裂くように叫ぶ。
「走れ! 全ての荷物を捨てろ! 馬が潰れるまで鞭を使え! 全速力だ!」
その荒い声に、全員が抱えていた荷を砂の上へ投げ捨てた。
さらに、護衛兵たちは腰に佩いていた剣さえも抜き、砂の上へ放る。
武器を手放すことへのためらいが、一瞬だけ護衛兵たちの表情に浮かんだ。
けれど、背後から迫る砂嵐の前では、剣の重ささえ命取りだった。
リリアも息を呑んだ。
ガレスが即座に声を張った。
「全員、速度を上げろ!」
護衛兵たちが応じる。
馬とラクダの蹄が、さらに激しく砂を蹴った。
その瞬間、蒼月の声が、リリアの頭の中に響く。
――首にしっかり掴まれ。体勢を低くしろ。
リリアは言われた通り、蒼月の首に腕を回し、身を低くした。
次の瞬間、蒼月が砂を蹴って跳ぶ。
リリアの視界が大きく揺れた。
蒼月は隊列の脇を抜け、一気に最後尾へ回り込み、空へ向かって遠吠えを放った。
低く、深く、砂漠の夜明けを震わせるような声だった。
馬とラクダが一斉に身を震わせる。
本能を揺さぶられたように、蹄が砂を強く蹴った。
一行全体の速度が、閉まりかける城門へ向かって押し出されるように上がった。
「蒼月……ありがとう」
リリアは、風にかき消されそうな声で呟いた。
蒼月の声が、リリアの頭の中へ低く響く。
――まだ終わっていない。掴まっていろ。
蒼月は前方の城門を見据えたまま、再び砂を蹴った。
――飛ぶぞ。落ちるな。
リリアが答えるより早く、蒼月が思いきり跳んだ。
銀色の身体が、低く、鋭く宙を駆ける。
先頭を走っていたカリムの横を越え、さらにその前へ出た。
「おい、銀狼!」
カリムの声が後ろへ流れていく。
蒼月は閉まりかけるサライナの城門へ向かって、一直線に駆ける。
リリアは蒼月の首にしがみついたまま、後ろを振り返った。
「蒼月!」
リリアの声が震えた。
けれど、蒼月の答えは低く、揺るがなかった。
――だめだ。
砂を裂くように、蒼月はさらに速度を上げる。
――やれるだけのことはした。
リリアの胸が、痛いほど締めつけられた。
背後には砂嵐。
前方には閉まりかける城門。
蒼月は、リリアだけは必ず中へ入れるつもりで、一直線に門の中へ滑り込んだ。
内側へ入った直後、その場で身を翻した。
門番たちは、重い扉を閉めようとしている。
リリアは蒼月の背から身を乗り出すように叫んだ。
「待って! 待ってください!」
門番たちが驚いたようにこちらを見て、銀狼に乗ったリリアの姿に、一瞬、動きが鈍る。
だが、すぐに一人が声を張った。
「無理だ!」
別の門番も、迫る砂嵐を見ながら叫ぶ。
「これ以上待てば、砂が街の中へ入る! 門を閉めなければ、サライナごと砂嵐に呑まれるぞ!」
リリアは唇を噛みしめた。
門番たちの言葉が間違っていないことは分かっている。
門番たちは冷たいのではなく、街を守るために門を閉めようとしているのだ。
それでも、リリアは後ろを振り返った。
砂の向こうから、ガレスたちの隊列が必死にこちらへ向かってくる。
「蒼月……お願い」
リリアが小さく呟いた。
蒼月の声が、リリアの頭の中に響く。
――仕方ない。
次の瞬間、蒼月が門番たちへ向かって低く身構える。
蒼月は、閉まりかけた城門の前に立つ兵たちを視線で射抜き、喉の奥から低い唸り声を響かせる。
門番たちの手が、一瞬止まり、閉じかけていた門扉が、その動きを止めた。
「お願いします!」
リリアは蒼月の背から身を乗り出すように叫んだ。
「閉めないでください! あと少しだけでいいんです!」
そのわずかな猶予に、カリムのラクダとガレスの馬が砂を蹴って城門へ飛び込んできた。
続いて、アステルを乗せた馬が入る。
ルーク、エレナ、ミラも続き、護衛兵たちが次々と門の内側へ駆け込んでくる。
盗賊たちも、見張りの兵に押し込まれるようにして中へ入った。
「閉めろ!」
城壁の上から、兵の声が飛んだ。
重い城門が、軋む音を立てながら閉じていく。
最後の護衛兵が転がるように中へ飛び込んだ直後、門扉が完全に閉ざされた。
その瞬間だった。
ゴオオオオオオォォォ
風と砂が城門にぶつかり、ものすごい音を立てた。
門全体が、低く震えた。
リリアは思わず蒼月の首にしがみつく。
外の音は、すべて砂の轟きに呑まれていった。
分厚い門の向こうから、砂が荒れ狂う音だけが響いている。
リリアはゆっくりと振り返りました。
皆、砂にまみれ、息を切らしながらも、確かにそこにいました。
リリアの胸から、張り詰めていた息がこぼれる。
カリムが門の方を見て、低く息を吐きます。
「……こりゃ、おそらく一週間以上は続くな」
ガレスが顔を上げる。
「そんなに……」
「ああ。あの砂の重さなら、一日や二日で収まる嵐じゃねえ」
カリムは肩についた砂を払いながら、薄く笑いました。
「まぁ、ゆっくりするんだな」
ガレスの目が鋭くなります。
だが、今は言い返す余裕もありませんでした。
アステルが城門の向こうから響く轟音を聞きながら、口を開きます。
「とりあえず、ここの領主に会いに行きましょう」
リリアは蒼月の背から、アステルを見ました。
「領主様に、ですか?」
「はい。事情を話して、しばらくの保護と、今後のことを相談する必要があります」
アステルの声は落ち着いていました。
けれど、その表情には深い緊張が残っています。
「この砂嵐が本当に一週間以上続くなら、私たちはしばらくサライナから動けません」
ガレスは頷き、すぐに部下たちへ視線を向けました。
「全員、人数を確認しろ。負傷者がいればすぐに報告しろ。盗賊どもからも目を離すな」
護衛兵たちが、疲れた身体を押して動き出します。
リリアはようやく蒼月の首から腕を緩めましたが、それでも胸の鼓動はまだ収まりません。
アステルは、カリムへ視線を向けます。
遠征を預かる者として、取引相手であっても、助けられた事実を曖昧にはしませんでした。
「あなたの案内がなければ、私たちはここまで辿り着けませんでした。取引は果たされました」
カリムは、軽く肩をすくめる。
「礼なら、貸しにしておく」
「……そう来ますか」
アステルが返すと、カリムは薄く笑いました。
「俺は善人じゃねえ。俺の部下を助けるためでもあったし、あんたらに砂の中で死なれても面倒だった。信用しろとは言ってねえ。俺も、あんたらを信用したわけじゃねえからな」
蒼月の蒼い瞳が、細められました。
リリアの頭の中に、低い声が響きます。
――その言葉だけは正しい。
カリムという男は、やはり砂漠の盗賊なのです。
砂漠交易路の中継都市サライナ。
外では、砂嵐がなおも城壁を叩き続けています。
けれど、分厚い壁の内側には、嵐とは切り離されたような静けさが広がっていました。




