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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第三章 サハルディア王国

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第三十四話 砂漠の夜―取引―

「蒼月、殺さないで!」


リリアの凛とした声に、蒼月の動きがピタリと止まりました。

蒼月の前脚にはなおも力がこもり、男は苦しげに砂の上で身動きひとつ取れずにいます。


――リリアに触れようとした。


脳内に直接響く蒼月の声には、隠しきれない怒りが渦巻いていました。


「分かっているわ。でも、殺さないで。話を聞きたいの」


夜の砂漠に、蒼月の冷ややかな殺気が張り詰めています。

その場へ近づこうとしていた護衛兵たちでさえ、一瞬足をすくませるほどでした。

けれど、リリアがまっすぐに蒼月を見つめ続けると、やがて蒼月は前脚の力を緩めた。


――……分かった。だが、二度目はない。


ガレスたち護衛兵が素早く動き、蒼月に押さえ込まれていた男を捕縛します。


「リリア様、ご無事ですか」


ガレスの声は極力低く抑えられていました。

けれど、その眼差しには明らかな怒りの火が宿っています。


「はい。大丈夫です」


リリアはそう答えました。

ミラがリリアの手元を見つめます。

護身用の短剣に添えられた指先は、まだ少し震えていました。


ミラはその手を包むように握ります。


「よく動けました、リリア様」


その声は、いつもの厳しさよりも少しだけ柔らかいものでした。

エレナも安堵したように頷きます。


「日々の訓練は、ちゃんとあなたを守っています」


リリアは小さく息を吐く。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていた見えない糸が、ふっと緩んでいくのが分かりました。


「……はい」


その間にも、護衛兵たちは素早く動いていました。

荷馬車を狙った二人も、すでに見張りの兵たちに取り押さえられています。

夜の砂漠の闇は深く、逃げる影を簡単に呑み込んでしまいます。

幾人かは、すでにその闇の向こうへと退いていました。


蒼月は、縄を打たれた男を鋭く睨みつけていました。

リリアに触れようとした相手を、簡単に許せるはずがありません。

その時、静まり返る砂丘の向こうから、低い声が響いた。


「その銀狼を止めるのか」


揺らめく焚き火の光が届くぎりぎりの場所に、一人の男が立っていました。


護衛兵たちが一斉に武器を構えます。

ガレスが片手を上げ、全員に不用意に動かぬよう示しました。


「誰だ」


ガレスが低く問いかけます。


その時、薄い雲の切れ間から月がのぞき、焚き火の光だけでは曖昧だった男の姿を白く照らしました。

砂除けの布を肩に巻き、深く日に焼けた精悍な顔立ちをした青年。

金色に淡い緑を溶かしたような不思議な髪色が、夜風に揺れています。

濃いエメラルド色の瞳は刃のように鋭く、周囲の様子を一度に見透かすかのようでした。


「この者たちを率いる者だ」


男は軽く肩をすくめた。


「盗賊か?」


「まあ、そういうものかもしれないな」


護衛兵たちがさらに警戒を強めます。

捕らえられた男たちは、頭目の姿を認めても、決して助けを求める声を上げませんでした。

その統制の取れた沈黙だけで、この青年が部下たちを束ねる絶対的な存在であることは十分に伝わります。


頭目は、リリアを見つめた。

それは表面的な美しさや身分を値踏みするものではなく、この危機的な状況において、誰が判断を下す者なのかを正確に見極めようとする、探るような視線でした。


「泣き叫ぶだけの貴族かと思えば、違うらしい」


その物言いに、蒼月の蒼い瞳が剣呑に細くなります。


――口を慎め。


リリアの心に、その怒気を孕んだ声が届く。

けれど、頭目は蒼月のわずかな重心の変化だけで死の危険を察知したのか、少しだけ顎を引いて警戒を露わにしました。


「怖い獣だ。だが、それを殺させずに手綱を握るとはな」


「蒼月は獣ではありません」


リリアは凛とした声で、はっきりと告げました。


「私の大切な者です」


その言葉に、蒼月の耳が動きます。

頭目はリリアの言葉を聞くと、興味深そうに少しだけ目を細めた。


「なるほど。ただ守られているだけの娘ではないらしい」


ガレスが一歩、前へ踏み出す。


「貴様らは我々の野営地へ侵入した。物資を狙っただけでは済まされんぞ。リリア様の天幕へ押し入った者もいる」


「それについては、こちらの者が軽率だった」


頭目は捕らえられた部下を一瞥した。


「世間知らずな貴族の一行だと見た。水と薬、そして金目の物を持っていると踏んだ。砂漠では、そういう連中は恰好の獲物だ」


「だからといって、許されると思うな」


ガレスの殺気がさらに膨れ上がります。


「許されるなどとは思っていない」


頭目はあっさりと返した。


「ただ、このまま死なせるには惜しいと思ってな。……話がある」


ガレスが目を細めます。


「話だと」


頭目は、地に伏せられた部下たちへと視線を流し、そして楽しそうに言いました。


「……取引をしよう」


冷たい夜気の中、護衛兵たちの間にざわめきが走ります。


「そいつらを放してくれたら、俺がサライナまで案内してやろう」


「そのような取引が通るはずがなかろう」


ガレスは即座に切り捨てた。


「野営地へ侵入した賊を、無条件で放てと言うのか」


「いや、お前たちに選択肢はない」


頭目は微動だにせず、揺るぎない自信とともに言い放ちます。


「なぜだ」


「今は教えられない。ただ、この話を断れば、ここにいる全員が死ぬことになる」


場を支配する空気が、決定的に変わりました。

護衛兵たちは武器を構えたまま、困惑と警戒の混じった視線を交わし合います。

ガレスは沈黙のまま、頭目を睨み据えている。


「どうする。もう時間はあまり残されていないぞ」


その時、静寂を破ったのはアステルでした。


「話し次第では、条件を呑みましょう」


ガレスが驚愕とともに振り返ります。


「アステル様……?」


アステルはガレスを見ず、ただ夜空の星々を仰ぎ見ていました。


「星見に、何か厄災の兆しが出ています」


その言葉に、頭目が口の端を上げる。

アステルは夜空から視線を戻し、告げました。


「その者たちは放します。ただし、武器はこちらで預からせてもらう。少しでも妙な動きを見せれば、即座に拘束しますよ」


「ああ、それでいい」


「嘘だと分かった時は……どうなるか、分かっていますね」


「俺は、嘘はつかない」


ガレスが険しい表情のままアステルに詰め寄った。


「アステル様、それでは……」


アステルは首を横へ振ります。


「私は、この遠征を預かる責任者です。すべての責任は、私が取ります。ただし、ガレス。油断はしないように」


「……承知いたしました」


ガレスは奥歯を噛み締めるように低く答えました。

その声には、未だ拭いきれない強い警戒が残っています。


アステルは改めて頭目と向き合う。


「交渉成立です」


頭目は一つ頷くと、暗闇に沈む砂丘の彼方へと視線を転じました。


「もうすぐ砂嵐が来る」


その一言が、場の空気を完全に凍てつかせた。


「砂嵐だと」


ガレスが呻くように問い返します。


「ああ。砂嵐の中では、人は砂と風に削られ、呼吸もできず死ぬしかない。砂の壁が来るまでに街へ駆け込まなければ、全員死ぬ」


兵たちの顔に、明らかな恐怖が走ります。


「俺は、砂漠交易路の中継都市サライナへ至る、最短のルートを知っている」


ガレスの目がさらに細められます。


「我々を陥れる罠かもしれない」


その時、一行が砂漠に入る前から同行していた案内人が、血の気を失った顔で震えながら一歩前へ出ました。


「……そ、その者の言っていることは、本当です」


「何だと」


ガレスが鋭く振り返ります。


案内人は、星空と漆黒の砂丘を交互に見やりながら、縋るように言った。


「急に風が止まっています。砂嵐が来る前には、こうして風も音も、吸い込まれたように消えることがあるのです。空気だけが重く張りつめ、息をするのも苦しくなる。そのあと……一気に、膨大な砂が動きます」


先ほどまで絶えず砂を撫でていた夜風は、今は完全に息を潜めています。

不気味なほどの無音のなか、泉が立てる水音だけが、やけに鮮明に耳に届きました。


「この泉の奥には、砂嵐を避けるための祠があります。ですが、入れるのは、詰めてもせいぜい十人ほどです。この人数では、とても無理です。仮に一部が入れたとしても、このあたりの砂嵐は一週間ほど続くことがあります。水も食料も、到底もちません」


兵たちの間に、戦慄が広がる。


頭目は再びガレスへ視線を戻します。


「さあ、どうする」


その声には、先ほどまでの余裕はなく、焦燥を隠しきれない鋭さが宿っていました。


「お前たちの知っている正規の道では、サライナまで丸一日かかる。だが、俺の知っている道なら半日で着く」


「……」


「砂嵐は、おそらく半日ほどで追いつく」


深い絶望の沈黙が下りました。

誰もが、その言葉の示す残酷な真実を理解したのです。

通常の道では到底間に合いません。

かといって、夜の砂漠で未知の道へ踏み外すことが、確実な死を意味する自殺行為であることは誰もが知っています。

けれど、目の前の頭目が示す道を行けば、間に合うかもしれません。


「時間が、ぎりぎりだ」


頭目の声が、重く冷たい夜の砂の上に落ちました。

アステルは短く息を吐く。

誰の返答も待たず、頭目が低く鋭い声を放ちます。


「これから、すぐに出発する。荷馬車は捨てろ。必要最低限の物だけを持て。全員、機動力を優先して騎馬に切り替えろ。馬が足りない者には、こちらのラクダを回す」


その言葉に、ガレスの表情が険しくなりました。

荷馬車を捨てるということは、積んできた食料や薬、予備の水、天幕の多くを捨てるということです。

それは遠征隊にとって、あまりにも重い決断でした。

けれど、アステルは迷いを長くは見せなかった。


「……命を優先します。必要な水と薬、最低限の食料だけを選びなさい。残りは捨てます。ガレス、急ぎ準備を」


「承知いたしました」


ガレスは一瞬だけ唇を引き結びました。

けれど、すぐに護衛兵たちへ鋭く声を飛ばします。


「聞いたな。全員、急げ。水、薬、最低限の食料だけだ。余計な荷は捨てろ」


頭目の合図で、陰に潜んでいた者たちがラクダを連れてきました。


指示を終えると、ガレスは改めて頭目へ視線を戻す。


「なぜ、そこまで我々に手を貸す」


頭目は、命拾いした仲間たちへと一度だけ視線をやりました。

そして、銀狼と、その傍らに立つ娘を見つめます。


「部下を助けるためでもある。だが、それだけじゃない」


緑色の瞳が、真っすぐにリリアを射抜きました。


「俺は、その銀色の狼と嬢ちゃんを気に入った」


蒼月の瞳が、再び不機嫌に細められます。


――馴れ馴れしい。


リリアは小さく息を呑んだ。

けれど、男はそれ以上距離を詰めようとはしませんでした。


「俺の名は、カリム」


頭目は短く名乗ります。


「覚えるかどうかは好きにしろ。だが今は、俺について来い」


ガレスの指示が飛び、捕縛されていた盗賊たちの戒めが解かれる。

頭目であるカリムの武器も、念のためガレスの部下が預かることになりましたが、カリムは一切抵抗しませんでした。

ただ、底知れぬ闇が広がる砂丘の向こうを見据えたまま、切迫した声で命じます。


「急げ。砂嵐は待ってはくれない」


夜の砂漠は、風の音一つなく、不気味なほどに静まり返っています。

けれど、その底知れぬ静寂こそが、背後から迫り来る巨大な絶望の前触れなのだと、ここにいる全員が理解していました。


リリアは蒼月の隣に立ち、暗くうねる砂丘の彼方を見つめました。

蒼月がリリアを庇うようにぴたりと寄り添います。


――あいつは、信用するな。


「分かっているわ」


――だが、進むしかない。


蒼月は、夜気の奥に張り詰めた異様な気配を感じ取っていました。

砂も風も、何かに押さえつけられたように動きを止めています。

カリムと名乗った男の言葉に、嘘はない。


その果てしない闇の向こうで、姿なき巨大な砂嵐が、確実に一行へと牙を剥きながら迫っていました。


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