第三十三話 砂漠の夜―怪しい影―
砂漠の夜は、思っていたよりもずっと冷たいものでした。
昼間、焼けつくような陽射しに照らされていた砂は、夜になると一気に熱を失い、天幕の布越しにも冷えた空気がじわりと忍び込んできます。
外では、護衛兵たちが交代で見張りに立っていました。
焚き火の炎が風に揺れ、その赤い光が天幕の影をかすかに震わせています。
リリアは薄い毛布を肩にかけたまま、天幕の入口から星空を見上げていました。
そのすぐそばには、蒼月が伏せています。
大きな銀狼の毛並みは、夜の薄明かりを受けて淡く光り、まるで砂漠の闇の中に落ちた月光のようでした。
リリアは小さく息を吐きます。
「とうとう、こんなところまで来てしまったね。蒼月」
蒼月の蒼い瞳が、ゆっくりとリリアへ向けられます。
低く静かな声が、リリアの胸の奥へ届きました。
――そうだな。
その声を聞くと、不思議と心が落ち着きました。
王都を離れてから、いくつもの町を越え、国境を過ぎ、そして今、リリアたちは遠い砂漠のただ中にいます。
目指すのは、砂漠を越えた先にあるサハルディア王国。
濃い瘴気と、人の魔物化が報告された遠方の国でした。
リリアは膝の上で両手を重ね、指先に力を込めます。
あの日の王城の空気を、今でもはっきり覚えています。
アレクシス王は、地図の端に記された遠い国名を指し示しました。
「サハルディア王国から、正式な支援要請が届いた」
その名を聞いて、リリアは思わず地図へ目を落としました。
グランヴァルド王国からは遠く離れた、砂漠を越えた先の国。
「報告によれば、サハルディア王国の一部地域で濃い瘴気が確認された。事情を知らずに、その地へ入った兵士や民の一部が、瘴気に深く侵され、魔物化したという」
玉座の間に、重い沈黙が落ちました。
アレクシス王は、地図上の砂漠地帯へ視線を移す。
「サハルディア側とはすでに連絡を取っている。砂漠を越えた先の合流地点で、サハルディア王国の案内役と護衛が迎えに来る手はずだ」
アレクシス王は、改めてリリアを見た。
「こちら側は、護衛を含め、およそ三十名で現地へ向かう。リリア、そなたにはその一行の中心として同行してもらうことになる」
玉座の間に、静けさが落ちました。
リリアはゆっくりと息を吸い、まっすぐに顔を上げます。
「分かりました。私にできることがあるなら、向かいます」
そして今、リリアたちは本当に砂漠の夜の中にいました。
王都で広げられていた地図の上では、ただの薄い線に見えた道。
けれど実際に来てみれば、そこには果てしない砂と、乾いた風と、昼夜の激しい寒暖差がありました。
馬車の車輪は砂に取られ、馬の足取りも重くなります。
水の配分ひとつにも気を配らなければならず、少し進むだけでも体力を奪われました。
昼間の熱は肌を刺し、乾いた風は喉を焼き、砂は足元を不安定にします。
息を整えながら進むリリアに、蒼月は何度も声を届けてくれました。
――水を飲め。
――無理をするな。
そのたびに、リリアは自分の体の状態に気付くことができました。
以前なら、周りに迷惑をかけまいとして我慢していたかもしれません。
けれど今は、自分が倒れれば一行全体に影響が出ることを知っています。
だからリリアは、無理を隠すのではなく、必要な時に休むことも覚え始めていました。
そして、誰もが、自分の役目を果たしながら、この砂漠を越えようとしているのです。
リリアは天幕の中で、毛布を握りました。
外の風が、砂を低く鳴らしていきます。
蒼月の声が、届きました。
――気を抜くな。
「瘴気?」
蒼月はすぐには答えませんでした。
その蒼い瞳が、天幕の外へ向けられます。
耳が、動いた。
――ちがう、それではない。
リリアは息を止めました。
天幕の外は、焚き火の音と、遠くを渡る風の音だけが聞こえます。
けれど蒼月は、じっと闇の向こうを見ている。
――見られている。
リリアの指先に、冷たい緊張が走りました。
蒼月の声が、もう一度胸に届きます。
――砂丘の向こうだ。人の匂いが多数する。
リリアはゆっくりと頷いた。
砂漠の夜は、静かでした。
静かすぎるほどに。
その静けさの向こうで、何かがこちらを見ている。
リリアは毛布を肩から外し、姿勢を正しました。
「……ガレス隊長に伝えましょう」
――今すぐか。
「ええ。きっと何かあるわ」
リリアは天幕の外に控えていた護衛に声をかけ、蒼月とともにガレスの天幕へ向かいました。
夜の砂は冷たく、足元の砂がかすかに沈みます。
少し離れた場所では、焚き火の光が赤く揺れています。
ガレスはすぐにリリアを迎え入れましたが、その表情はいつもよりも厳しいものでした。
「リリア様、この時間にどうされました」
リリアは一度、蒼月を見た。
蒼月の心の声が聞こえていることは、まだ誰にも話していません。
だから、どこまで説明すればいいのか、ほんの少し迷いました。
「蒼月が、外を警戒しています」
「蒼月殿が?」
「はい。遠く……砂丘の向こうを見ていました。人の気配があるのかもしれません」
ガレスの目つきが変わりました。
蒼月が警戒している。
それだけで、十分に意味があると分かっているのです。
「承知しました。蒼月殿が警戒しているなら、こちらも警戒を強めます」
ガレスはすぐに護衛兵を呼び、見張りの配置を変えるよう命じました。
焚き火の位置。
天幕の周囲。
荷と馬のそば。
そして砂丘側に立つ兵の数。
その一つ一つが、素早く整えられていきます。
「リリア様は天幕へお戻りください。外の確認はこちらで行います」
「はい。お願いします」
リリアは深く頷きました。
蒼月とともに天幕へ戻ると、ようやく少しだけ息を吐きます。
「ふう……なんとか言えたね」
蒼月は天幕の入口近くに立ったまま、外へ意識を向けていました。
その大きな体は静かですが、耳だけが動いています。
「ねえ、蒼月」
リリアは声を落としました。
「そろそろ、みんなにも話した方がいいのかしら。私に蒼月の声が聞こえていること」
返事は、すぐに届いた。
――だめだ。
あまりにも迷いのない声でした。
リリアは瞬きをします。
「だめなの?」
――だめだ。
「でも、今みたいな時、ちゃんと説明できた方がいいでしょう?」
蒼月は、すぐには答えませんでした。
その蒼い瞳が、天幕の外の闇を見据えます。
王国にとって、リリアは必要な存在です。
手厚く守っていることも、蒼月は認めていました。
それでも、蒼月にとって王国の者たちは、あくまでリリアを守るために使えるものにすぎません。
王国も、騎士も、星術院も、必要なら利用する。
リリアがそうしたいと言うから、その者たちがそばにいることを許しているだけ。
けれど、この声だけは違います。
この声は、リリアにだけ届くもの。
他の者に分け与える筋など、どこにもありませんでした。
「蒼月……?」
リリアが呼ぶと、ようやく蒼月の声が胸に届きました。
――だめだ。
「やっぱり、だめなの?」
――これは、お前にだけ届けばいい。
リリアは小さく瞬きをした。
蒼月の声はいつもより低く、静かでした。
けれど、その奥にある強い執着までは、リリアには分かりませんでした。
「……分かったわ」
リリアは少し困ったように笑う。
「今は、まだ二人だけの秘密にしておきましょう」
蒼月の尾が揺れます。
それだけで、蒼月が少し安堵したのだと分かりました。
――その方がいい。
「でも、危ない時はちゃんと伝えるわ。アステル様にもガレス隊長にも」
――必要ならな。
「ええ。必要なら」
リリアはそう言って、天幕の外へ視線を向けました。
砂丘の向こう。
焚き火の光が届かない場所。
そこに、誰かがいる。
翌日、一行はさらに砂漠を進みました。
昼の砂漠は、雲ひとつなく澄み渡った空から、白い陽射しが降り注いでいました。
乾いた風が吹くたび、細かな砂が衣の裾にまとわりつき、喉の奥をざらつかせます。
馬車の車輪はたびたび砂に沈み、護衛兵たちは交代で押しながら進みます。
水は予定に合わせて十分に用意されていましたが、それでも誰も無駄にはできませんでした。
リリアが馬上で、暑さにうつむきかけた時のことです。
――水を飲め。
蒼月の声が届きました。
リリアはすぐに水袋を手に取り、少しだけ口を湿らせる。
「ありがとう」
小さく返すと、蒼月は隣で歩き続けます。
蒼い瞳だけは何度も遠くの砂丘へ向けられていました。
――まだいる。距離をとってじっとこちらを窺っている。
リリアは声を出さず、視線だけを動かしました。
昼の光の中では、砂丘の向こうに何かがいるようには見えません。
けれど、蒼月がそう言うなら、きっと間違いないのでしょう。
「昨日の人たち?」
――同じ匂いだ。
――やっぱり、殺してしまおうか……。
リリアは小さく息を呑みました。
その気配は、砂漠の熱と風の向こうで、一行を追うように離れずにいます。
「だめよ。ガレス隊長に伝えるわ」
リリアは蒼月とともに、ガレスのもとへ向かいました。
砂漠の熱を含んだ風が、低く砂を巻き上げています。
ガレスは隊列の前方で周囲を確認していましたが、リリアの姿を見るとすぐにこちらへ歩み寄った。
「リリア様、どうされました」
リリアは一度、蒼月を見る。
蒼月の視線は、遠くの砂丘の方角へ向けられています。
「ガレス隊長。蒼月が、まだ警戒しています」
「蒼月殿が?」
「はい。昨日の夜と同じです。誰かが、ずっと私たちの後をつけているのかもしれません」
ガレスの表情が険しくなる。
「承知しました。蒼月殿の警戒が続いているなら、無視はできません」
ガレスは進行方向へ視線を向けました。
「もう少し先に、古い隊商路沿いの小さな泉がある。今夜はそこで野営する。水の補給も必要だ。だが、警戒は解くな」
その日の夕刻、一行は小さな泉のそばで野営を張ることになりました。
低い砂丘に囲まれたその場所には、澄んだ水が湧き出し、周囲には背の低い草と枯れかけた低木が残っています。
周囲を見渡しやすく、風も少しだけ避けられる場所でした。
護衛兵たちは、まず水場の周囲、低い木々の陰、荷馬車を置く場所、天幕を張る予定の場所を確認したが、誰の姿も見つからなかった。
けれど、砂の上には、こちらのものではない足跡がいくつか残っていました。
ガレスはそれを見て、低く命じた。
「野営地の外周を固めろ。荷馬車と馬は中央だ。リリア様の天幕はその内側に張る。焚き火の位置も、影が濃くなりすぎないように調整しろ」
護衛兵たちはすぐに動いた。
誰もが息を潜めるようにして、夜の砂漠へ意識を向けていました。
リリアはその様子を見つめながら、胸の奥に冷たい緊張が広がっていくのを感じています。
蒼月は天幕の入口近くに立ち、遠くの砂丘へ蒼い瞳を向けていました。
その横顔は、いつもよりも鋭く、少しも気を緩めていません。
――リリア。
蒼月の声が届きました。
リリアはすぐに顔を上げます。
「来たの?」
――動き出した。
その声は、低く静かでした。
けれど、そこに含まれた鋭さに、リリアの背筋がすっと冷えた。
――砂丘の影から三つ。荷の方へ二つ。こちらへ一つ。ほかにも散っている。
リリアは息を殺しました。
ガレス隊長に伝えなければならない。
けれど、今この瞬間、自分も動かなければならない。
リリアは蒼月を見る。
「蒼月、ガレス隊長に伝えてきて」
――離れるのは嫌だ。
「お願い、蒼月。今なら、まだ間に合うわ」
――離れれば、お前が危ない。
「大丈夫。私はもう、ただ守られているだけの私じゃないわ」
蒼月の瞳が、細くなりました。
――すぐ戻る。
その声が届いた直後、蒼月は天幕の外へ出ました。
大きな銀色の体が、夜の砂の上を影のように駆けていきます。
ガレスは、こちらへ向かってくる蒼月のただならぬ様子に即座に反応しました。
蒼月はガレスの前で足を止めると、砂丘の方角へ鋭く視線を向けます。
次に荷馬車の方へ視線を移し、最後にリリアの天幕の方へ振り返る。
「配置につけ。荷の方へ二名。砂丘側を固めろ。リリア様の天幕にも兵を寄せる。声を上げるな」
護衛兵たちが音を殺して動き出す。
その頃、リリアは天幕の中で一人、息を整えていました。
心臓が強く鳴っています。
リリアは毛布を外し、立ち上がりました。
その手が、護身用の短剣に触れます。
その瞬間、天幕の外で、砂を踏む音がかすかにした。
リリアは一歩だけ横へ動いた。
入口から真正面に立たない。
天幕の布が開いた瞬間、すぐに下がれる位置ではなく、相手の動きを外せる位置へ。
何度も練習した足の置き方を、体が覚えていた。
次の瞬間、天幕の入口が音もなく揺れた。
黒い布で顔を覆った男が、影のように中へ滑り込んでくる。
男はリリアの姿を見つけるなり、素早く手を伸ばした。
口を塞ごうとしたのだ。
リリアの体は、恐怖で固まりかけた。
けれど、そう思うより早く、幾度も繰り返したミラの指導を思い出した。
そして引くのではなく踏み込む。
相手の腕の外側へ身をずらし、肘を入れて距離を作った。
男の手が空を切る。
「っ……!」
男が低く息を呑んだ。
リリアはその瞬間、声を張った。
「侵入者です!」
その声が夜の砂漠に響いた直後、銀色の影が戻った。
蒼月が天幕の入口へ音もなく現れ、次の瞬間には男の体を外へ押し出していた。
鈍い音とともに、男が砂の上へ叩きつけられる。
蒼月の大きな前脚が、男の肩を骨が軋むほど重く、逃げ場のない圧倒的な力で押さえ込んだ。
――リリアに触れようとした。
胸の奥へ届いた声は、低く、冷たく、これまで聞いたことがないほど鋭いものでした。
――殺す。
蒼月の喉の奥から、低い唸りが漏れました。
銀の毛並みが夜の闇に白く浮かび上がり、その蒼い瞳からは、もはや一片の容赦も感じられません。
蒼月の前脚にさらに力がこもり、押さえ込まれた男が苦しげな呻き声を漏らしました。
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