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銀狼物語 ~森で出会った銀狼と紡ぐ運命の物語~  作者: ななお
第一部 第二章 グランヴァルド王国

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第三十二話 リリアと蒼月の秘密

翌朝、リリアはいつものように、離宮の周りを走っていました。

初夏を迎えようとする朝の空気はまだ涼しく、白い石畳の上には薄い朝靄が漂っています。

リリアの隣には、銀色の毛並みを揺らしながら蒼月が並んでいます。

大きな体でありながら、その足音は驚くほど静かでした。

一年の間に、リリアの体力はずいぶんつきました。

最初の頃は、離宮の周りを半分も走れば息が上がり、足も震えていたのです。

けれど今は、朝の走り込みを終えたあとでも、礼儀作法や魔法の訓練へ向かえるほどになっていました。

それでも、蒼月はいつもリリアを気にしています。


「大丈夫よ、蒼月。今日はまだ平気」


リリアは走りながら、少しだけ笑いました。

朝の光を受けて、リリアの金色の髪がさらりと揺れます。

額に汗がにじんでいても、頬がうっすら赤くなっていても、リリアの表情は明るく、前を向いています。

蒼月は、その横顔を見つめました。


――リリアは、いつも一生懸命だ。今日もかわいい。


「……え?」


リリアは思わず足を止めました。

蒼月もすぐに立ち止まり、リリアを振り返ります。


「今、誰か何か言った?」


――リリア、どうした。何か気になることでもあるのか。……だが、やはりかわいい。


リリアは周囲を見回しました。

朝の庭園には、少し離れた場所に護衛の騎士たちが控えているだけです。

けれど、今の声は騎士たちのものではありません。

耳で聞こえたというより、胸の奥へ直接落ちてきたような、不思議な声でした。

低く、静かで、落ち着いた声。


「……かわいい、って聞こえたような」


リリアが小さく呟くと、蒼月の耳がぴくりと動きました。

その蒼い瞳が、揺れます。


――聞こえているのか。


「……っ」


今度は、はっきり分かりました。

声は外からではありません。

リリアの胸の内側に、響いているのです。

リリアはゆっくりと蒼月を見つめました。


「蒼月……なの?」


蒼月は、いつものようにリリアを見ています。

けれど、その眼差しの奥には、明らかな戸惑いがありました。


――まずい。


「まずい?」


リリアがそのまま聞き返すと、蒼月の尾がぴたりと止まった。


――今のも聞こえたのか。


「聞こえたわ」


リリアは目を丸くしました。

そして、少しずつ頬を赤くしていきます。


「じゃあ……最初の、かわいいっていうのも」


蒼月は視線をそらした。

普段なら、どんな魔物を前にしても怯まない蒼月です。

けれど今は、明らかに気まずそうでした。


――忘れろ。


「無理よ」


リリアは思わず両手で頬を押さえました。

走ったせいだけではない熱が、顔に集まっていきます。

恥ずかしい。とても恥ずかしい。

けれど、それ以上に胸の奥がふわりと温かくなりました。

蒼月の心の声が、聞こえる。

それも、最初に届いた言葉が、自分を大切に思ってくれている言葉だったのです。


「蒼月、いつもそんなことを思っていたの?」


蒼月は、目を伏せます。

けれど、その沈黙の奥から、また声がこぼれました。


――いつも思っている。


「いつもなの?」


リリアの声が少しだけ裏返る。

蒼月は、しまったというように耳を伏せます。

きっと今の言葉も、心の中だけで呟いたつもりだったのでしょう。

リリアはその様子を見て、こらえきれずに小さく笑いました。


「蒼月」


リリアは蒼月の前に立ちました。

蒼月はリリアに合わせるように、ほんの少しだけ首を下げた。


「私、蒼月の声が聞こえるのね」


蒼月はしばらくリリアを見つめていました。

その瞳の奥に、驚きと、戸惑いと、それでもどこか静かな安堵が揺れているように見えます。

やがて、低く穏やかな声がリリアの胸に届きます。


――そのようだ。


リリアの瞳が、ゆっくりと潤みました。

昨日の夜、淡い光が二人を包んだことを思い出します。

あの時、蒼月が何かを答えてくれたような気がしました。

蒼月の心が、確かにリリアの胸に届いています。


「嬉しい」


リリアは小さく言いました。


「蒼月の声が聞こえて、嬉しいわ」


蒼月の大きな額が、リリアの額へ近づきます。

言葉にしなくても、リリアを安心させようとしているのだと分かりました。

その温もりを感じた瞬間、また声が届きます。


――泣くな。


「泣いてないわ」


――泣きそうだ。


「……それも分かるの?」


――分かる。


リリアは困ったように笑う。

蒼月の声は、これまでずっとリリアを見守ってくれていた眼差しそのものでした。

言葉にならなかったものが、今、少しだけ形を持ったのです。

それが嬉しくて、胸がいっぱいになりました。


「じゃあ、私の声も蒼月に聞こえるの?」


リリアは試すように、口を閉じました。

そして、心の中で呼びかけてみます。

蒼月。

蒼月、と。

けれど蒼月は、少し不思議そうに首を傾げただけでした。


「……聞こえない?」


蒼月は瞬きをする。


――今のところは。


「そうなのね」


リリアは胸に手を当てました。

自分から蒼月へは、まだ心の声を届けられない。

けれど、蒼月の声は自分に届く。

二人の間に新しい何かが生まれたのは確かでした。

リリアは笑いながら、蒼月の胸元の毛並みに手を伸ばす。

銀色の毛並みは、朝の光を含んで柔らかく温かい感触を返してくれます。

蒼月はしばらくリリアを見つめていましたが、やがて守るようにその大きな体を寄せました。


――かわいい。


「また聞こえているわよ、蒼月」


蒼月の耳が、また伏せられました。

リリアはその仕草が愛おしくて、今度は声を立てて笑った。

朝の庭園に、リリアの明るい笑い声がこぼれます。

護衛の騎士たちは少し離れた場所で、不思議そうに顔を見合わせていました。


しばらくして、リリアは蒼月の首元から顔を上げました。

頬にはまだ少し赤みが残っていましたが、その瞳は朝露よりも澄んで輝いています。


「ねえ、蒼月。あなたの声、他の人にも聞こえるのかしら」


リリアは庭園の小道の向こうへ視線を向けた。

少し離れた場所では、セシリアが庭園脇の小道を通りかかっていました。

こちらへ向かっているわけではなく、何か用事の途中のようです。


「あそこにセシリアさんがいるわ。蒼月、心の中で呼んでみてくれる?」


蒼月は小さく瞬きをした。


――分かった。


蒼月はセシリアの方へ視線を向けます。


――セシリア、こちらを向け。


けれど、セシリアは何も気付いた様子を見せませんでした。

小道の途中で控えていた騎士に軽く会釈をし、そのまま歩いていきます。

声に反応することも、蒼月を見ることもありません。


――どうやら、聞こえていないようだ。


「そうなのね」


リリアは胸に手を当て、少しだけ頬を緩めました。


「ふふ。私だけなのね。特別みたい」


蒼月はリリアを見つめる。


――ああ。特別だ。


リリアの頬が、またほんのり赤くなります。

蒼月はすぐに視線をそらした。


――これは知られたら面倒だ。しばらく、二人だけの秘密にしておいた方がいい。……ふむ。悪くない。


「そうね。どう説明したらいいか、私にも分からないもの」


リリアは小さく頷きます。


「しばらくは、二人だけの秘密にしておきましょうか」


そう言ってから、リリアは楽しそうに蒼月を見上げます。


「でも、蒼月。最後の『悪くない』も聞こえていたわよ」


蒼月の耳が、ぴくりと揺れました。


「ふふ。やっぱり、全部聞こえてしまうのね」


――厄介だ。


「厄介なの?」


――俺の声が、すべてお前に届くのは困る。


「どうして?」


蒼月は少しだけ沈黙しました。

そして、低く静かな声が、リリアの胸に落ちます。


――お前を見ていると、余計なことまで思う。


「余計なこと?」


――……かわいい、とか。


リリアは一瞬きょとんとして、それからまた頬を赤くする。


「それは、余計なことじゃないわ」


蒼月は答えませんでした。

けれど、その耳だけがほんの少し伏せられます。

リリアはその仕草が可愛らしくて、もう一度小さく笑った。

やがて蒼月は、目を伏せました。

リリアには聞こえないようにするにはどうすればいいのか。

そう考えるように、少しだけ意識を内側へ沈めます。

すると、不意に胸へ届いていた声が途切れました。


「……蒼月?」


リリアが首を傾げます。

蒼月はゆっくりと目を開けた。


――聞こえるか。


「今は聞こえたわ」


蒼月はもう一度、意識を整えました。

今度は何も届きません。

リリアは瞬きをして、蒼月を見つめます。


「今、何か考えた?」


蒼月は小さく頷いた。


「聞こえなかったわ」


リリアの声に、蒼月はようやく少しだけ落ち着いたようでした。

どうやら、意識して心を閉じれば、すべてがリリアへ届くわけではないらしい。

けれど、気を緩めれば、また声はこぼれてしまう。

それが今の二人に起きている変化でした。


「少しずつ、分かっていけばいいわ」


リリアは優しく言いました。


「私たち、今朝初めて気付いたばかりだもの」


蒼月はリリアを見つめます。

そして、今度は隠さずに声を届けた。


――そうだな。


リリアは嬉しそうに微笑む。


「ねえ、蒼月。もう少しだけ走りましょうか」


――無理はするな。


「分かっているわ」


リリアは立ち上がり、膝についた朝露を軽く払いました。

そして、蒼月に向かって楽しそうに笑います。


「でも、今日は少しだけ頑張れそうなの」


蒼月は小さく息を吐きました。

それは、呆れているようにも、仕方ないと許しているようにも見えます。

けれどリリアの胸には、はっきりと声が届きます。


――なら、隣にいる。


リリアはその言葉に、目を細めました。


「ええ。隣にいて、蒼月」


リリアが再び走り出すと、蒼月もすぐに隣へ並びました。

白い石畳の上を、二つの影が朝の光の中で寄り添うように進んでいきます。

今朝、確かに何かが二人の間で息づき始めていました。


――リリア。


ふいに、また声が届きました。

リリアは走りながら、蒼月を見ます。


「なあに?」


蒼月は前を向いたまま。

けれど、その横顔はどこか穏やかでした。


――転ぶな。


「もう、子どもじゃないわ」


――知っている。


「本当に?」


――知っている。だが、心配はする。


リリアは少しだけ頬を膨らませました。

けれどすぐに、その表情は柔らかな笑みに変わります。


「ありがとう、蒼月」


蒼月は答えませんでした。

けれど、その大きな体がほんの少しだけリリアの側へ寄ります。

リリアはそれに気付いて、足取りを軽くしました。

蒼月の声が聞こえる。

今まで言葉にならなかった優しさが、胸の奥に届いてくる。

それだけで、いつもの朝の景色が少し違って見える。

白い石畳も、朝露に濡れた草も、淡い光に揺れる庭園も、すべてが新しい一日の始まりを祝福しているようでした。

その時、また小さく声が届きます。


――やはり、かわいい。


「蒼月」


リリアは立ち止まりませんでした。

けれど、少しだけ横目で蒼月を見ます。


「聞こえているって、言ったでしょう?」


蒼月は前を向いたまま、耳だけをほんの少し伏せていました。

リリアは笑みをこぼし、朝の光の中をもう一度走り出す。


その朝を境に、リリアと蒼月の間には、少しずつ新しい日常が生まれていきました。


――無理をするな。


――……よくできた。


――休め。


蒼月の想いがふと胸に触れるたび、リリアは驚き、照れ、時には小さく笑いそうになりながら、その声を大切に受け止めました。


季節は、初夏から夏へと移ろい始めていました。

庭園の緑は濃さを増し、夏の陽射しが少しずつ強さを帯びていきます。

けれど、その穏やかな時間は長くは続きませんでした。


王城へ、早馬が届いた。

砂漠を越えた先にあるサハルディア王国からの正式な支援要請でした。

グランヴァルド王国から遠く離れたその異国で、濃い瘴気が確認されたというのです。

しかも、事情を知らずにその地へ入った兵士や民の一部が、瘴気に深く侵され、魔物化したとの報告が添えられていました。

濃い瘴気。

人の魔物化。

そして、瘴気の発生源があると見られる状況。

報せを受けたアレクシス王は、ただちに重臣たちの招集を命じました。

王太子レオン、王国中枢を支える主要な閣僚たち。

そしてリリアにも、至急王城へ来るよう国王からの呼び出しが届きました。


蒼月が隣に立ち、リリアを見つめます。


――行くのか。


リリアは蒼月を見ました。


「ええ。まだ何があったのかは分からないわ。でも、急ぎの呼び出しなら、きっと大切なことなのだと思う」


――行くなら、共に行く。危険があるなら、守る。


蒼月はリリアの隣へ並びます。

リリアは胸元に手を当てました。


「行きましょう、蒼月」


リリアは顔を上げる。


「王城へ」


蒼月は頷いた。


――ああ。


その声が胸に届いた瞬間、リリアは少しだけ強くなれた気がしました。

リリアは蒼月とともに、王城へ向かった。


王城の奥、玉座の間には、すでに重い空気が満ちていました。

国王アレクシスと王太子レオン。

そして王国中枢を支える重臣たちが、張り詰めた面持ちでリリアを待っています。

扉を開けた瞬間、肌を刺すような沈黙がリリアを迎えました。


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