第三十一話 静かな幸せのひととき
延期されていた第二王子セドリックの二十歳の祝いが、王城で行われました。
本来であれば、年始の後に開かれるはずだった祝いです。
けれど、季節はすでに初夏を迎えようとしていました。
黒い結晶や濃い瘴気、各地で続いた魔物の被害により、王城は長く慌ただしい日々を過ごしていたのです。
ようやく一つの節目として、王家の祝いを行えるだけの落ち着きが戻ったのです。
リリアは公爵として、その場に招かれていました。
王宮に来て一年。
まだ多くの視線に慣れたわけではありませんでしたが、公爵としてこの場に立つだけの落ち着きは、少しずつ身についていました。
王族の席へ進み出ると、リリアは教わった通りに足を止め、礼を取ります。
「本日は、セドリック殿下の二十歳のお祝いにお招きいただき、誠にありがとうございます。心よりお祝い申し上げます」
広間に、リリアの声が落ち着いて響きました。
アレクシス王は、その姿を見つめてから、穏やかに頷きます。
「よく来てくれた、リリア」
ヴィクトリア王妃も、柔らかく微笑みました。
「リリアさん、今日は堅くなりすぎず、祝いの席を楽しんでくださいね」
「はい、王妃様」
リリアが答えると、セドリックは面映ゆそうに目を細めました。
正式な礼装を身につけたセドリックは、いつもより大人びて見えます。
けれど、リリアと目が合うと、その表情には年相応の柔らかさが戻りました。
「リリア殿、今日は来てくれてありがとう」
「改めまして、セドリック殿下。御身の門出、誠におめでとうございます」
リリアがもう一度丁寧に礼を取ると、セドリックは少し照れたように笑った。
「ありがとう。こうして改めて祝われると、ようやく実感するな」
リリアは頷きました。
こうして祝いの席に立つことで、二十歳を迎えたことを改めて感じているのかもしれません。
「二十歳になったからといって、急に何かが変わるわけではありませんものね」
「そうだな。だが、変わらないままではいられないのだとも思う」
セドリックは、少しだけ真面目な表情になる。
「王子として、これまで以上に求められるものも増える。兄上のようにはまだできないが、私なりに向き合わなければならないのだろう」
その言葉には、第二王子としての自覚が滲んでいました。
リリアは、その横顔を見つめました。
王子と公爵。
立場は違います。
けれど、同じ年に二十歳という大きな区切りを迎え、それぞれ背負うものがあるという意味では、少しだけ似ているのかもしれません。
「私も、まだ学ぶことばかりです」
リリアは、言いました。
「けれど、逃げずに向き合っていきたいと思っています」
セドリックはリリアを見て、穏やかに微笑む。
「リリア殿らしい言葉だな。リリア殿の祝いも、近いうちに行われるのだろう」
「はい。公爵家で、身内だけの小さな祝いにしていただく予定です」
「それはいい。きっと、その方がリリア殿らしい」
セドリックの言葉は、からかいではなく、穏やかな祝意を含んでいました。
リリアは微笑み、もう一度礼を取ります。
「ありがとうございます、セドリック殿下」
やがて、祝いの言葉を述べるために貴族たちがセドリックの前に順に進み出ました。
広間には穏やかな楽の音が流れ、王家の祝いを寿ぐ声が続きます。
セドリックは一人一人の祝意を受け、丁寧に応じていました。
リリアは、その姿を見守っています。
王子として祝われるセドリックの姿は、どこかまぶしくもありました。
長く続いた緊張の日々の中で、こうして誰かの節目を祝える時間が戻ってきたこと。
それ自体が、とても大切なもののように思えたのです。
セドリックは、皆への挨拶がひと段落した頃、改めてリリアと蒼月のそばへ歩み寄りました。
そして、ふと蒼月へ視線を向けます。
蒼月は何も言わず、ただ蒼い瞳でセドリックを見返していました。
セドリックは少しだけ困ったように笑うと、蒼月へ向けて小さく会釈した。
「少しの間、リリア殿をお借りしてもよろしいだろうか」
その言葉に、リリアは思わず目を瞬かせました。
問いかけられた蒼月は、しばらくセドリックを見つめていましたが、やがてゆっくりと尾を一度だけ揺らします。
それが了承なのだと分かり、セドリックはほっとしたように息をつきました。
そして改めて、リリアへ手を差し出します。
「リリア殿。よろしければ、一曲お相手願えますか」
セドリックに手を取られ、リリアは広間の中央へ進みました。
楽の音が緩やかに流れ始めます。
最初の一歩を踏み出す時、リリアの胸は高鳴りました。
一年の間に何度も教わった通り、背筋を伸ばし、呼吸を整え、セドリックの動きに合わせて身を預けます。
セドリックも急かすことなく、リリアの歩みに合わせて穏やかに導きました。
広間にいた貴族たちの視線が、自然と二人へ集まっていきます。
王子と公爵。
二人が踊る姿は、祝いの席にふさわしい華やかさを添えていました。
やがて曲が終わると、広間に大きな拍手が広がった。
リリアは息を整えながら、セドリックへ丁寧に礼を取りました。
「ありがとうございました、セドリック殿下」
「こちらこそ、リリア殿。とてもお上手でした」
そう言われ、リリアは小さく目を伏せた。
その様子を見ていた貴族の男性たちが、そろそろと蒼月の前へ集まり始めました。
セドリックが蒼月へ許しを得てからリリアを誘ったのを見て、自分たちも同じようにすればよいと思ったのでしょう。
一人の若い貴族が、緊張した面持ちで蒼月の前に立ちました。
「私も、リリア公爵と一曲踊らせていただきたいのですが、お許しを……」
蒼月の蒼い瞳が、細められます。
そして、ゆっくりと顔を背けました。
男は一瞬固まり、それから肩を落とした。
「だめだったか……」
男は力なく引き下がります。
ならば自分はと、次の者が進み出ますが、結果は同じでした。
その次の者も、また次の者も。
蒼月は一度も尾を揺らさず、ただ冷ややかな視線を向けては顔を背けるだけです。
気付けば、リリアに踊りを申し込もうとした若い貴族たちは、全員が見事に蒼月に断られ、肩を落としていました。
その様子を見ていた第三王子エリオットは、目を輝かせていた。
「やっぱり蒼月殿はすごいな。あんなにたくさんの貴族を、一歩も動かずに断ってしまうなんて」
その無邪気な言葉に、近くにいた者たちが思わず笑みをこぼしました。
レオン王太子も、穏やかに目を細めます。
「蒼月は、リリア殿を守る者だからな。誰にでも許すわけではないのだろう」
「では、兄上も断られますか?」
エリオットが真顔で尋ねると、レオンは少しだけ考えるように蒼月を見ました。
「……おそらく、断られるだろうな」
その答えに、セドリックが目を丸くする。
「兄上でもだめですか」
「蒼月の判断は、王位継承順では動かぬらしい」
その言葉に、広間の空気はいっそう柔らかくなりました。
「ははは。どうやら、私だけ特別に許されたらしい」
セドリックがそう笑うと、貴族たちも苦笑し、ヴィクトリア王妃は口元に手を添えて微笑みました。
リリアだけは、頬を赤くしたまま蒼月を見た。
「蒼月……」
蒼月は何も悪いことはしていないというように、リリアを見返します。
「だめよ」
小さくそう言ったリリアの声には、困ったような響きがありました。
その表情には怒りではなく、隠しきれない照れが滲んでいます。
そうして、延期されていた第二王子セドリックの二十歳の祝いは、穏やかな笑いに包まれながら無事に終わりました。
それから数日後。
今度は、公爵家でリリアの二十歳の祝いが開かれました。
ハインリヒの取り計らいにより、その祝いは公爵家の家族とリリアの母だけで行われる、ささやかで温かな席となりました。
広い食堂には、白い花と淡い金色のリボンが控えめに飾られ、テーブルにはリリアの好きな料理がいくつも並べられています。
家族だけの祝いらしい柔らかな空気が、部屋を満たしています。
リリアは席につく前に、ハインリヒの前へ進み出ました。
「父さま」
そう呼ぶと、ハインリヒの表情が和らぐ。
「このような席を用意してくださって、ありがとうございます。私を娘として迎えてくださったことも、今日こうして祝ってくださることも、言葉では言い尽くせないほど感謝しています」
ハインリヒはリリアを見つめました。
その目には、父としての穏やかな情がありました。
「リリア。お前はもう、我が家の娘だ。感謝されるために祝っているのではない。娘の節目を祝うのは、父として当然のことだ」
その言葉に、リリアの胸が熱くなります。
リリアは深く頭を下げ、それからエレオノーラへ向き直ります。
「エレオノーラ様も、ありがとうございます。突然この家に迎えられた私に、いつも温かく接してくださって……。私はまだ、公爵家の娘として至らないことばかりです。それでも、皆様がそばにいてくださるから、ここに立っていられます」
エレオノーラは、微笑みました。
「そんなに畏まらなくていいのですよ。あなたがこの家に来てから、屋敷の空気はずいぶん明るくなりました。今日の祝いも、私たちにとって嬉しいことなのです」
リリアは小さく頷き、次にオスカーへ視線を向けます。
オスカーと、その妻クラリッサ。
そして二人の子であるアルノルトとフィリップも、今日は家族として席についています。
「オスカー様、クラリッサ様、アルノルト様、フィリップ様。皆様にも、心から感謝しています。私がこの家に入ったことで、戸惑うこともあったと思います。それでも、こうして家族として迎えてくださって、本当にありがとうございます」
オスカーは、穏やかな表情で首を横に振りました。
「最初は驚きもあった。だが、父上が娘と決めた方だ。今は、我々にとっても大切な家族だと思っている」
クラリッサも、優しく微笑む。
「リリア様がいらしてから、子供たちもあなたの話をよくするようになりました。今日を一緒に祝えることを、私たちも嬉しく思っています」
アルノルトとフィリップは、少し照れたように顔を見合わせました。
リリアが微笑むと、二人も小さく笑い返します。
その何気ないやり取りが、リリアにはとても温かく感じられました。
最後に、リリアは母エミリアの前へ進みます。
母は、椅子に座ったまま、すでに目元を潤ませていました。
「お母さん」
リリアがそう呼ぶだけで、母の唇が小さく震えた。
「今日、こうして一緒に祝ってくれてありがとう。お母さんがそばにいてくれて……本当に嬉しい」
母は何度も頷きました。
「私こそ、あなたの二十歳の祝いをこうしてそばで見届けられるなんて……こんなに嬉しいことはないわ」
リリアは母の手を取りました。
町で暮らしていた頃には、想像もしなかった場所です。
けれど、目の前にいる母の手の温もりは、あの頃と少しも変わりませんでした。
「私は、ここでたくさんの人に支えられています。でも、お母さんが私をここまで育ててくれたから、今の私があります。ありがとう」
母はとうとう涙をこぼしました。
リリアも胸がいっぱいになり、母の手を両手で包みます。
公爵としてではなく、王国を救う力を持つ者としてでもなく、ただ一人の娘として。
その日、リリアは家族に囲まれ、二十歳の成人の誉れを祝われました。
その夜、祝いの席を終えたリリアは、自室へ戻っていました。
窓の外には、静かな夜の光が落ちています。
昼間の賑やかさが嘘のように、部屋の中は穏やかでした。
リリアは髪飾りを外し、椅子に腰を下ろすと、そばに伏せていた蒼月へ視線を向けました。
蒼月は、いつものようにリリアのそばにいます。
大きな銀色の体を横たえ、深い蒼い瞳でリリアを見つめていました。
「蒼月」
リリアが呼ぶと、蒼月の耳が小さく動く。
「私、とても幸せね」
その言葉は、誰に聞かせるためでもなく、胸の奥からこぼれたものでした。
リリアは膝の上で手を重ね、少しだけ目を伏せます。
「魔物のことも、瘴気のことも、まだ終わっていないわ。黒い結晶のことだって、分からないことばかり」
静かな部屋に、リリアの声だけが柔らかく落ちていきます。
「でもね、この一年、私は本当にたくさんの人に守られてきたの」
王宮に来たばかりの頃、何もかもが怖かったことを思い出します。
知らない場所。
知らない人々。
自分には大きすぎる力。
背負わされるには重すぎる役目。
けれど、その中で手を差し伸べてくれた人たちがいました。
教えてくれた人たちがいました。
叱ってくれた人も、支えてくれた人も、ただそばにいてくれた人もいました。
「国王陛下も、王妃様も、王子殿下方も、父さまも、お母さんも、王国を支えてくださる方々も、セシリアさんも、ルークも、アステル様も、エレナ様も、ガレス様も……本当にたくさんの人が、私を支えてくれた」
リリアは蒼月へ手を伸ばします。
銀色の毛並みに指先が触れると、蒼月は抵抗せず、その手を受け入れます。
「それに、蒼月。あなたがいてくれた」
蒼月の蒼い瞳が、細められました。
リリアはその瞳を見つめながら、柔らかく微笑みます。
「あなたと出会ってから、もう二年が経つのね」
森の中で出会った銀色の狼。
リリアのそばにいてくれた存在。
あの時は、こんな日が来るなんて思ってもいなかった。
自分が王都へ来て、公爵となり、多くの人に囲まれて二十歳の佳き日を祝われる日が来るなど、想像もできませんでした。
「不思議ね。あの日、あの森であなたに出会わなかったら……私は今、ここにいなかったかもしれない」
リリアは、愛おしむように蒼月の毛並みに指を沈めました。
温かな感触が、胸の奥に残っていた緊張を少しずつほどいていきます。
「怖いことも、苦しいことも、たくさんあったわ。でも、私は今、幸せだと思えるの」
蒼月はゆっくりと体を起こし、リリアの膝のそばへ顔を寄せました。
リリアはその額に手を置きます。
「これからも、きっと大変なことはあるわ。私にできることなんて、まだ少ないかもしれない。それでも、今日みたいに幸せだと思えた気持ちは、忘れたくない」
蒼月は、答えるように尾を一度だけ揺らしました。
リリアは小さく笑います。
「蒼月、これからもずっと一緒にいてね」
――もちろんだ。
蒼月は心の中で、迷いなくそう答えました。
そして、ゆっくりと尾を揺らし、リリアの頬に自分の頬を寄せます。
その温もりに、リリアは小さく微笑みました。
寄り添うリリアと蒼月の体を、ほんのかすかな淡い光が包みます。
その光は、二人を祝福するように揺らめき、やがて夜の静けさへ溶けていきました。
部屋には、穏やかな空気が満ちていました。




