第三十話 瘴気の残骸
村の調査には、第三騎士団の一部と星術院の者たちが残されました。
ガレスは、村の周囲を封鎖し、許可のない者を近づけぬよう命じました。
黒い結晶が取り除かれ、瘴気が浄化されたとはいえ、あの場所がすぐに人の暮らせる土地へ戻ったわけではありません。
ガレスの声が響き渡りました。
「王都グランリューネへ帰還する」
一斉に、騎士団一行は動き出す。
リリアは帰り際、もう一度だけ村の方を振り返りました。
蒼月は、その隣に立っていました。
大きな銀色の毛並みが、渓谷を渡る風に揺れます。
リリアはその毛に指を触れました。
「……帰ろう、蒼月」
蒼月は尾を揺らします。
その返事だけで、リリアには十分でした。
王都グランリューネへ戻った一行には、正式な状況報告を三日後とするよう命が下されました。
リリアは離宮で眠り、食事を取り、セシリアや侍女たちに心配されながら、少しずつ顔色を戻していきます。
蒼月もまた、リリアのそばを離れませんでした。
昼は窓辺に身を横たえ、夜は寝台の近くに伏せています。
何度も危険な瘴気の中へ踏み込んだことなど、まるで何でもなかったかのように、蒼い瞳でリリアを見守っていました。
「蒼月、私もっともっと強くなる……いつか、みんなのことを私が守れるように。そのためには、もっと馬術や魔法を学ばなければ……」
蒼月は耳を揺らし、少しだけ顔を傾ける。
まるで、そんなに急がなくてもいいと言っているようでした。
その頃、ローゼン領から戻ったガレスは、正式な戦況報告に入る前に、出立前の蒼月の行動について王国の中枢へ報告しなければならないと判断していました。
王城の会議室には、すでに重い空気が落ちていた。
国王アレクシス、宰相ハインリヒ、騎士団総司令官ローガン、星術院長官アステル、軍務顧問ヴィクトル、王太子レオン。
その場へ、第三騎士団隊長ガレスが呼ばれていました。
ガレスは一礼し、口を開く。
「陛下。正式な戦況報告の前に、蒼月殿についてご報告したいことがございます」
アレクシス王は、目を細めました。
「蒼月のことか」
「はい。ローゼン領へ出立する前のことです」
ガレスは、リリアの前では詳しい事情を伏せたまま、訓練の名目で蒼月へ協力を求めた経緯を明かしました。
しかし蒼月は、ごまかしを見抜いたように応じなかったといいます。
「ですがその夜、私の部屋の窓辺に、蒼月が自ら姿を現したのです」
ガレスは言葉を継ぎます。
「そこで私は、初めて彼に本当の事情を打ち明けました。ローゼン領奥の村が濃い瘴気に侵されていること。そして、現れる魔物がかつての村人や家畜である可能性が高いこと。リリア殿の負担を減らすためにも、できる限り我々の手で先に討伐しておきたいのだと」
会議室にいる者たちは、誰も口を挟みませんでした。
「さらに、星術院が瘴気の性質を確認する目的もお伝えしました。それは決して、命を軽く扱うためではありません。リリア殿の浄化で何が救え、何が救えないのか……その境界を正しく見極めるためだと、彼に説明したのです」
ガレスは続けた。
「蒼月殿は、言葉を返されませんでした。ですが、尾で床を打ち、了承を示されました」
その報告を聞き終えると、会議室にはしばらく沈黙が落ちました。
「……誰にも気付かれず、窓辺まで来たのか」
ローガンの声は、低く抑えられていました。
「はい。少なくとも、警備の者から報告は上がっておりません」
ガレスは、答える。
「窓辺で音がしたため、私が気付きました。ですが、あれもおそらく、蒼月殿が意図して立てた音です。気付かせるつもりがなければ、私は窓の外に蒼月殿がいたことすら知らなかったでしょう」
その言葉に、ヴィクトルが深く眉を寄せる。
「つまり、蒼月殿はその気になれば、王宮の奥にいる者の命を、人知れず奪えるということですな」
誰も、すぐには否定しませんでした。
王宮の警備は厳重です。
夜の巡回も、見張りも、要所の守りも緩めてはいません。
それでも蒼月は、誰にも止められず、誰にも気付かれず、ガレスの部屋の窓辺まで来ていました。
もしその目的が話を聞くことではなく、命を奪うことだったなら。
相手は悲鳴を上げることもできず、自分が死んだことさえ理解できぬまま、命を落としていたでしょう。
会議室の空気が、冷たく張り詰めました。
「恐ろしいな」
アレクシス王が、言いました。
その声には、怒りも拒絶もありません。
ただ、王として見過ごせない現実を受け止める重さがありました。
「ですが、今回の作戦には蒼月殿が必要でした」
ローガンが言いました。
「濃い瘴気の中へ入り、魔物を引き出し、人が迎え撃てる場所まで誘導する。あれは、我々だけではできなかったことです」
ガレスも、深く頷く。
「はい。蒼月殿がいなければ、リリア様が現地へ入る前に、あそこまで数を減らすことはできなかったと思います」
村人だったかもしれない魔物。
家畜や、森にいた獣だったかもしれないもの。
それらをリリアが自分の光で消してしまったのだと思い詰めぬように、可能な限り処理する。
そのためには、蒼月の力が必要でした。
恐ろしい。
けれど、必要だった。
その二つの事実が、同じ重さで会議室に横たわっていました。
ハインリヒは、卓上に置かれた指を握った。
「蒼月殿を遠ざけることはできませんな」
アステルも頷きました。
「ええ。少なくとも、濃い瘴気と黒い結晶に関わる任務では、蒼月殿の存在は大きすぎます」
「だが、安心してよい相手でもない」
ヴィクトルが言った。
「味方であるうちは、これ以上なく頼もしい。だが、もし敵に回れば、王宮の守りなど意味をなさぬ」
その言葉は、脅しではありません。
けれど、今この王国において、蒼月を遠ざけることも、疑いだけで扱うこともできませんでした。
アレクシス王は、しばらく黙っていました。
やがて、ゆっくりと口を開きます。
「リリアは、王国を見捨てぬだろう」
アレクシス王は、言いました。
「だが、それを都合よく考えてはならぬ。あの娘の優しさに寄りかかり、善意を当然のものとして扱えば、その時点で我々は道を誤る」
会議室の空気が、さらに重くなる。
「蒼月が王国へ牙を向けぬとすれば、それはリリアがこの国の民を守ろうとしているからだ。ならば我々がすべきことは、その優しさを利用することではない。リリアが守ろうとする王国であり続けることだ」
それは確約ではありませんでした。
契約でも、誓約でもありません。
ただ、リリアという一人の娘の心に寄せた、危うい信頼です。
けれど今の王国が蒼月に対して持てる拠り所は、それしかありませんでした。
レオンが、息を吐いた。
「つまり、王国がリリア殿を裏切らないこと。それが、蒼月殿との均衡を保つ唯一の道ということですね」
「そうだ」
アレクシス王は頷きました。
「蒼月を恐れるなら、なおさらだ。リリアを欺き、傷つけ、利用することこそ、最もしてはならぬ」
その言葉に、ガレスは深く頭を下げました。
今回、自分たちはリリアにすべてを知らせずに動いた。
それは、リリアの心を守るためでした。
けれど、それが正しかったとしても、何度も繰り返してよいことではありません。
守ることと、隠すことは同じではない。
その境目を誤れば、リリアの信頼を損なうことになる。
そして、それは同時に、蒼月との均衡をも崩しかねませんでした。
「当面は、このまま受け入れるほかありませんな」
会議室に、再び沈黙が落ちる。
その矛盾を、王国は抱え込むしかありませんでした。
ただ、今ある現実の中で、最も崩してはならない均衡だったのです。
三日目の朝、リリアの元へ王城から使いが訪れました。
セシリアは静かな声で告げます。
「リリア様。国王陛下より、お呼び出しでございます」
リリアは膝の上に置いていた手を、握りました。
「……はい」
蒼月が顔を上げます。
リリアはその視線に気付き、小さく微笑みました。
「大丈夫。一緒に行こう」
蒼月はゆっくりと立ち上がりました。
銀色の毛並みが朝の光を受け、淡く輝きます。
王城の会議室には、すでに主だった者たちが集まっていました。
国王アレクシス、宰相ハインリヒ、騎士団総司令官ローガン、星術院長官アステル、軍務顧問ヴィクトル、王太子レオン。
そして、第三騎士団隊長ガレスと、星術院第三主席ユリウスの姿もあります。
リリアが入室すると、アレクシス王はいつもよりも少し柔らかい目を向けました。
「リリア。体はもうよいのか」
「はい。三日も休ませていただきましたから」
「無理はするな。今日は報告を聞くだけでよい」
「……はい」
リリアは頷きました。
蒼月はリリアの斜め後ろに控えるように座る。
その姿を確認してから、アレクシス王はガレスへ視線を移しました。
「では、ガレス。現地の報告を」
「はっ」
ガレスは一歩前へ出ると、手にしていた報告書を開く。
「渓谷の村周辺に出現していた魔物について、ご報告いたします」
会議室の空気が、引き締まる。
ガレスの声は低く、落ち着いていました。
「確認された魔物は、小型、中型、大型を含め多数。消耗の激しい戦闘となりました」
ローガンが眉を寄せる。
「討伐後の確認は」
「村および周辺で確認された魔物は、すべて討伐を終えております。新たな個体の出現も確認されておりません。負傷者は三百四名。うち重傷者は百三十五名。瘴気に侵された傷を負った者は五十七名です。戦死者は百二十四名。瘴気に侵された負傷者については、リリア殿の浄化と治療により、全員が命を取り留めております」
会議室に、重い沈黙が落ちました。
アレクシス王は目を伏せた。
「少なくないな」
その声は低く、深い痛みを含んでいました。
「亡くなった兵士たちの遺体は丁重に扱え。墓を用意できぬ者には、国がその場を整える。遺族には弔慰金を支給する。後日、国として慰霊の場を設ける」
「はっ」
ローガンが深く頭を下げる。
続いて、アレクシス王はハインリヒへ視線を向けました。
「負傷した兵には十分な休養と見舞金を与えよ。今回出兵した者たちにも、相応の恩賞を出す」
「承知いたしました」
ハインリヒは頭を下げました。
ガレスは報告書を閉じ、さらに続けます。
「現地には第三隊の一部と星術院の者を残しております。村内の被害状況、遺体と遺品の確認、黒い結晶があった場所の検分を進めております。許可のない者を近づけぬよう、封鎖も継続しております」
アレクシス王は頷き、リリアへ視線を向ける。
その目には、労わりの色がありました。
「リリア。現地では、重い負担をかけた」
「……いいえ。私が、行くと決めたことです」
リリアは小さく答えた。
ガレスの報告を受け、アステルが卓上に数部の報告書を置きました。
ユリウスがそれを手に取り、参加者全員に順に配ります。
リリアの前にも、一冊の報告書が置かれました。
表紙には、星術院の印とともに、整った文字が並んでいます。
『瘴気侵襲による生体変質の観察記録』
リリアは、その文字をじっと見つめました。
意味は分かります。
けれど、胸の奥がすぐには追いつきません。
アステルは、全員に報告書が行き渡ったことを確認してから口を開く。
「これは、ユリウスを筆頭に現地調査を行った星術師たちがまとめた、濃い瘴気にさらされた動物たちの変質記録です」
アステルは報告書の表紙に指を添え、続けます。
「瘴気に触れた動物たちが、どのように魔物へ至るのか。その過程を確認したものです。濃い瘴気にさらされた動物たちは、まず肺を侵されました。やがて呼吸困難となり死に至ります」
ローガンが眉を寄せました。
「呼吸困難による死か」
「はい。そして重要なのは、その後です」
アステルは報告書の一頁を開く。
「命を落とした肉体が、なお濃い瘴気の中に置かれ続けた場合、瘴気は肉体そのものを変質させます。それが、今回確認された魔物化の過程です」
アステルは、報告書の次の項目へ視線を落としました。
「ただし、魔物化に至るまでの時間は、肉体の大きさによって異なります。肉体が大きくなるほど魔物化には時間を要します。体の小さな動物、たとえば兎ほどのものは、魔物として形を保つ前に瘴気へ呑まれ、跡形もなく消えてしまいました」
ハインリヒが目を細める。
「瘴気の外で死んだものや、瘴気以外で死んだものはどうなる」
「それも確認しております。瘴気以外の原因で命を落とした動物の遺骸を、濃い瘴気の中へ置いたところ、魔物化が確認されました」
アステルは頷きました。
「瘴気を帯びた爪や牙で傷を負えば、傷口は侵されます。放置すれば命に関わります。ですが、それだけで魔物化するわけではありません」
会議室の空気が張りつめる。
リリアは、膝の上で手を握りました。
瘴気に侵された兵士たちの苦しげな顔が、脳裏に浮かびます。
ヴィクトルが低い声で尋ねた。
「つまり、瘴気の傷で死んだ者が、そのまま魔物になるわけではないのだな」
「その通りです」
アステルは、はっきりと答えました。
「瘴気に侵された傷が原因で命を落としても、それだけで魔物化は起こりません。もしそうであれば、瘴気を帯びた魔物に傷つけられた死者は、すべて魔物となってしまいます」
ハインリヒが口を開く。
「そうなれば、戦場は際限なく魔物を生むことになる」
「はい。ですが、現地で確認された状況は違いました。命を失った肉体が、濃い瘴気に侵され続けた時に起こる変質です」
ユリウスが報告書の図を示しました。
「骨格、筋肉、皮膚、毛、爪、牙。変質は外側だけではありません。肉体そのものが、瘴気に作り替えられていくようでした」
ローガンが低く言った。
「それが、今回確認された魔物化か」
「はい」
アステルは頷きました。
「少なくとも、命ある者が意識を保ったまま魔物へ変わったものではありません。命を失った肉体が、濃い瘴気にさらされ続けたことで、魔物へ変質したものです」
アステルは、リリアにも分かるように言葉を選び直しました。
「ヴァルメリア王国の交易都市で起きた兵士の魔物化も、同じです。瘴気によって命を奪われた後、その肉体がさらに濃い瘴気にさらされ、魔物へと変わったのです」
リリアの指先が、震えた。
「では……」
声が、思ったより小さくなりました。
それでも、リリアは顔を上げる。
「私が浄化した兵士の方は、生きている命ではなかったのですか」
アステルは、リリアへ向き直りました。
「はい。現地で確認された魔物化の記録を見る限り、魔物となったものは、すでに瘴気によって命を失っています」
リリアの瞳が揺れる。
「命を……失っている」
「はい」
アステルは答えました。
リリアは何も言えませんでした。
救えなかった命があります。
そこに暮らしていた人々が、もう戻らないことも知っています。
戦場で命を落とした兵士たちがいることも、今、数字として聞きました。
けれど、自分の光が命を奪っていたわけではない。
その事実は、胸の奥に刺さっていた棘を、少しだけ緩めるものでした。
アステルは、声を少し和らげます。
「あなたの浄化は、命あるものを消す力ではありません。瘴気に囚われ、変質した肉体を、そこから解き放つものです」
その言葉に、リリアは報告書へ視線を落としました。
「……私は、命を奪っていたわけではないのですね」
アステルは頷いた。
「はい。リリア殿の浄化は、命を奪うものではありません」
その言葉を聞いた瞬間、リリアは自分が息を詰めていたことに気付きました。
胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけほどけていきます。
リリアは小さく息を吐きました。
アレクシス王は、報告書を閉じる。
「ローガン」
「はっ」
「今後、濃い瘴気が確認された戦場では、討伐後の遺骸確認と回収を手順に加えよ。放置は許さぬ」
「承知しました」
ローガンが深く頷きました。
アレクシス王は次に、アステルへ視線を向けます。
「アステル。星術院は、魔物化へ至る条件と、浄化の優先順位をまとめよ。現地で判断が割れぬ形にするのだ」
「承知いたしました」
アステルは頭を下げました。
続いて、アレクシス王はハインリヒへ視線を移します。
「ハインリヒ。地方領主と各地の騎士団へ出す通達を整えよ。濃い瘴気を確認した場合の初動だけは、先に徹底させる」
「承知いたしました。濃い瘴気を確認した際の封鎖、民の避難、星術院への急報、遺骸の扱い。その四点を中心にまとめます」
「よい」
ハインリヒが続けました。
「各国へは、既に共有している対策手順に、今回判明した内容を追記いたします」
アレクシス王は視線を向ける。
「追記する内容は」
「濃い瘴気の中で命を失った遺骸を放置しないこと。そして、魔物化が疑われる場合は、討伐後も星術師による確認を必ず挟むこと。この二点を優先いたします」
「よい。各国が現地で判断を誤らぬよう、簡潔にまとめよ」
「承知いたしました」
会議室の空気は重いままでした。
リリアは、膝の上で手を重ねました。
自分にできることは、まだ多くありません。
けれど、知らずに光を向けるより、知ったうえで向き合いたかったのです。
そう思えるだけの強さが、ほんの少しだけ胸の奥に残っていました。
蒼月が、リリアの足元へ寄り添います。
リリアは、その銀色の毛並みに指を沈めました。
とても温かい。
その温もりに触れて、ようやく息ができた気がしました。




