第二十九話 足跡
ガレスは翌朝、第四騎士団を見送りました。
マティアス率いる部隊が遠ざかっていくのを見届けてから、ガレスは渓谷の奥に沈む村へ視線を向ける。
長く続いた掃討戦は一区切りを迎えましたが、村の奥には、まだ確かめなければならないものが残っています。
アステルとリリアが到着するまで、本営を崩すわけにはいきません。
ガレスは残った第三騎士団の兵に警戒を命じ、息を吐きました。
その頃、蒼月は王都へ向かっていました。
ガレスの報告書を携え、最速で平地を駆け抜け、四日ほどで王都へ戻ったのです。
離宮の門前に銀色の大きな影が現れた時、門番は驚きに目を見開きました。
「蒼月殿……!」
蒼月の毛並みには、長い道を駆けてきた土埃が残っていました。
知らせを受けた侍女長セシリアは、すぐに玄関広間へ出てきます。
セシリアは蒼月の首元に目を向け、装飾具の中から封書を丁寧に取り出しました。
封蝋を確認した瞬間、その表情が引き締まります。
セシリアはそばに控えていた使いの者へ封書を渡しました。
「これを、王国騎士団総司令官ローガン様へ」
「承知いたしました」
使いの者は深く一礼し、足早に離宮を出ていく。
セシリアは何も問いませんでした。
ただ、分かっていますというように一つ頷き、今度は侍女たちへ視線を向けます。
「蒼月殿を綺麗に洗って差し上げてください。リリア様にお会いになる前に、毛並みを整えて差し上げましょう」
「はい」
侍女たちはすぐに動いた。
蒼月は離宮の奥へ案内され、温かな湯で丁寧に土埃を落とされました。
銀色の毛並みが梳かれ、ふわりと空気を含んでいくにつれて、長い道の疲れを残しながらも、いつもの美しい姿が戻っていきます。
綺麗に整えられた蒼月が広間へ戻った時、リリアは知らせを受けて駆けてきました。
蒼月の姿を見つけた瞬間、リリアの顔がぱっと明るくなります。
「蒼月!!」
リリアは迷うことなく駆け寄った。
「会いたかった……」
リリアは蒼月の豊かな毛並みに顔を埋めました。
柔らかな銀色の毛が頬に触れ、その温もりが胸の奥まで広がっていきます。
蒼月は甘えるようにリリアへ体を寄せ、頬をすり寄せました。
「訓練は無事に終わったの?」
蒼月はリリアの肩へ顔を寄せ、豊かな尾を揺らしました。
リリアは思わず笑みをこぼします。
「ふふ、そんなにしたらだめよ」
リリアの柔らかな笑い声が広間に響く。
少し離れた場所では、侍女長セシリアと護衛のエレナが、その光景を見守っていました。
エレナの表情にも、いつもより穏やかな色が浮かんでいます。
リリアは蒼月の首元に手を添え、少しだけ眉を下げました。
「蒼月、まだ疲れている?」
蒼月は安心させるように、顔を寄せました。
その温もりに触れるたび、リリアの胸には小さな安堵が広がります。
その頃、王城では、蒼月が運んできた報告書が騎士団総司令官ローガンの手に渡っていました。
ローガンは封書を開き、内容に目を通すと、ただちにアレクシス王へ報告を上げた。
ほどなくして、王城の会議室には、国王アレクシス、宰相ハインリヒ、騎士団総司令官ローガン、星術院長官アステル、軍務顧問ヴィクトルが集められました。
ローガンは報告書を卓上に置き、低く口を開く。
「ガレスからの報告です。村周辺から引き出せる魔物は、ほぼ討伐済みとのことです」
ローガンの声に、会議室の空気が張りつめます。
「ただし、村の中は瘴気が濃すぎて奥まで入れません。村の奥には、強い瘴気の中心と思われる反応が残っています」
アレクシス王は報告書へ目を落としました。
「アステル。どう見る」
アステルは報告書の一部を確かめ、答える。
「黒い結晶があるかどうかは、現地で確認するしかありません。ですが、ヴェルミナで確認された反応に近いものです。疑って動くべきでしょう」
ハインリヒの表情が険しくなる。
アステルは地図へ視線を落とし、続けました。
「リリア殿には負担をかけますが、馬であれば十日ほどで到着できるはずです」
ローガンは報告書を伏せ、低く言った。
「護衛は第二騎士団隊長エレナを中心に調整します。現地にはガレスが残っています。到着後は、ガレスの第三騎士団と合流させます」
アレクシス王は、しばらく地図を見つめていました。
やがて、顔を上げます。
「アステル、リリアと蒼月を連れて向かえ。ローガン、護衛と道中の手配を整えよ。ヴィクトルは後続の荷と補給を確認しろ」
「承知しました」
アステルが深く頷きました。
「御意」
ローガンとヴィクトルが頭を下げる。
方針が決まると、ほどなくしてリリアが呼ばれました。
王城の一室へ通されたリリアは、アレクシス王、ハインリヒ、アステル、ローガン、ヴィクトルの表情を見て、ただ事ではないと察した。
アステルが、言葉を選ぶように切り出します。
「リリア殿。隣国の交易都市で見つかったものに近い、強い瘴気の吹き溜まりが国内で確認されました」
リリアの表情が、少し引き締まりました。
「場所はどこですか」
アステルは卓上の地図へ視線を落とす。
「ローゼンの町のさらに奥にある、渓谷の村です」
「ローゼンの町の……奥」
かつて自分が暮らしていた町の近くです。
その名を聞いた瞬間、リリアの顔がさっと曇った。
「その村に、人は……」
ハインリヒはすぐには答えませんでした。
短い沈黙の後、アステルが言葉を継ぎます。
「現在、生存者は確認されていません。村の奥には強い瘴気が残っています。確認と浄化のため、リリア殿の力が必要です」
リリアは膝の上で手を握った。
ローゼンの町のさらに奥と聞かされて、何もせずにいることはできませんでした。
「一緒に来ていただけますか」
アステルの問いかけに、リリアは迷いのない瞳で頷きました。
「わかりました」
ハインリヒが、眉を寄せる。
「リリア。無理をしているなら」
リリアは首を横に振りました。
「怖いです。でも、行きます。そこがローゼンの町の近くなら、なおさら知らないふりはできません」
その声は小さかったけれど、確かでした。
出発は慌ただしいものになった。
馬車ではなく騎馬を中心に進むため、荷は必要最低限に絞られました。
封印箱、星術院の道具、薬草、最低限の水と食糧が先行隊に積まれ、残りの荷馬車は後続に回されます。
リリアは騎馬の練習もしていましたが、慣れない騎馬での移動は、決して楽なものではありませんでした。
アステルは道中で何度も体調を確かめ、エレナも馬の扱いと姿勢を細かく見てくれます。
蒼月は一行のそばを進み、ときおりリリアの方へ深い蒼い瞳を向けました。
そのたびに、リリアは少しだけ背筋を伸ばした。
蒼月がそばにいる。
それだけで、もう少し進める気がしたのです。
一行は十日ほどで、渓谷の村の手前に設けられた本営へ到着した。
空は薄く曇り、遠くの山肌には白い霧がかかっていました。
平地に並ぶ天幕の間を、静かな緊張が流れています。
ガレスが本営の入口で一行を迎えました。
鎧には細かな傷が残り、顔にも長い任務の疲労がにじんでいました。
「アステル長官、リリア殿。長旅、お疲れさまです」
ガレスは深く頭を下げる。
「報告を」
アステルが促すと、ガレスは表情を引き締めました。
村の方角へ一度視線を向け、それから口を開きます。
「瘴気は、中心へ向かうほど濃くなっています。村の周辺は近づけますが、奥はまだ危険です」
リリアはガレスの鎧に残る傷を見ました。
それから、本営の奥に並ぶ治癒術師の天幕へ目を向けます。
胸の奥に、小さな不安が浮かびました。
「皆さん、大丈夫ですか」
リリアが心配そうに尋ねると、ガレスは目を伏せた。
「魔物との戦闘で負傷し、傷口に瘴気が残っている者が数名おります。リリア殿、彼らの浄化と治療をお願いできますか」
「わかりました」
リリアはすぐに頷いた。
ガレスに案内された天幕へ入ると、そこには負傷者たちが横たえられていました。
傷は塞がりかけているものもありましたが、黒ずんだ瘴気が薄くまとわりつき、治癒術師たちが慎重に薬を替えています。
リリアは一瞬、息を呑みました。
それでもすぐに気を取り直し、最も苦しそうな兵のそばへ歩み寄ります。
「重い方から診ますね」
リリアは杖を握り、光を灯します。
淡い浄化の光が傷口に触れると、黒い靄が細く揺れ、少しずつほどけていきました。
兵は苦しげに息を吐きましたが、やがて表情が緩みます。
リリアは一人ずつ、丁寧に浄化を進めていきました。
天幕の外では、アステルが現地の星術院関係者から報告を受けていました。
村の瘴気濃度、反応の位置、王都で進めていた実験記録との照合。
アステルは記録板に目を落とし、低く呟く。
「そうか……詳しくは王都へ帰ってからだな」
負傷者の浄化と治療には、数日を要しました。
リリアは毎日天幕へ通い、重い傷から順に瘴気を落としていきます。
その姿を見ていた兵たちの間で、やがて小さな囁きが広がり始めます。
「聖女様だ……」
誰かがそう言うと、別の者が頷く。
リリアはその言葉に戸惑いながらも、手を止めませんでした。
目の前に苦しむ人がいるなら、自分にできることをするだけです。
ようやくすべての負傷者の容体が落ち着いた頃、村の浄化へ向かう準備が整いました。
「まず、村の周辺から入れるように浄化していきましょう。中心に向かうほど瘴気が濃くなっています。無理に進まず、反応を見ながら進みます」
アステルが手順を説明します。
「はい、わかりました」
リリアは両手で杖を握りました。
アステルが結界を張り、星術院の者たちが補助陣を整えます。
ガレス率いる騎士たちは、周囲の警戒へ散りました。
蒼月はリリアのすぐ横に並ぶ。
渓谷から吹き下ろす風は冷たく、村へ続く道には乾いた土が薄く積もっています。
村を覆っていた瘴気は、光の届かない霧のように、家々の輪郭を鈍く沈めていました。
リリアはゆっくりと杖を掲げました。
白い法衣の刺繍が淡く光り、杖の先から澄んだ光が広がっていきます。
足元の黒ずみが薄れ、柵に絡みついていた影が、ほどけるように消えていきました。
村の外側から、少しずつ。
焦らず、確かめながら。
リリアは呼吸を整え、アステルの声に従って浄化を進めました。
やがて村へ足を踏み入れたところで、ガレスは乾いた土に残る大きな足跡に気付きました。
普通の獣ではありません。
蒼月の足跡でした。
それは想定していたので、リリアが気付く前に、部下たちへ視線だけで合図を送りました。
騎士たちはリリアの進む先へ回り込み、土を均し、蒼月の足跡を一つずつ消していく。
リリアは前方で、アステルの指示を聞きながら浄化を続けています。
蒼月だけが、その様子を見ていました。
村の中心部と思われる広場へ近づいた時のことでした。
残っていた濃い瘴気の中から、一匹の魔物が突如として姿を現した。
黒ずんだ体が低く唸り、濁った目がリリアの方へ向く。
ガレスたちが剣を抜こうとした瞬間、それよりも早く銀色の閃光が地を蹴った。
蒼月が、リリアの前へ飛び出したのだ。
鋭い爪が地を裂き、銀色の体が魔物を地面へ叩き伏せた。
魔物は一度大きく身を震わせたが、蒼月の一撃に押さえ込まれ、やがて動きを止めた。
アステルの術式がすぐに重なり、漏れ出した瘴気を抑えた。
リリアは杖を握ったまま、その場に立ち尽くしました。
蒼月はリリアの前に立ったまま、村の奥を見据えています。
ガレスが短く指示を飛ばしました。
「周囲を確認しろ。残りがいないか探せ」
騎士たちが一斉に動く。
しばらくして安全が確認されると、アステルは広場の中央へ視線を向けました。
そこには、さらに濃い瘴気が溜まっていました。
まるで見えない壁のように、黒い気配が奥を覆っています。
「ここから先は、私とリリア殿と蒼月で行きます」
ガレスは一瞬だけ眉を動かしましたが、すぐに頷きました。
「承知しました。周囲は我々が固めます」
アステルは結界を強め、リリアの前へ一歩出る。
蒼月がリリアの横に並びます。
リリアは小さく息を吸い、三人はゆっくりと広場の中心へ向かいました。
瘴気は重く、冷たく、肌に触れるだけで息が詰まりそうでした。
それでもアステルの結界が薄い光の膜となり、リリアを包みます。
やがて、黒い霧の奥に、禍々しい気配を放つものが見えます。
地面に半ば埋もれるようにして、黒い結晶がありました。
赤黒い筋が内側でかすかに明滅し、周囲へ瘴気を吐き出しています。
アステルの目が細くなる。
「黒い結晶、やはりありましたか」
リリアは息を呑んだ。
「すごい瘴気ですね」
「リリア殿、浄化をお願いいたします」
「はい」
リリアは杖を両手で握りしめました。
目を閉じると、胸の奥から淡い光が広がっていく。
杖の先に翡翠色を帯びた光が宿り、結晶の周囲へ伸びていきます。
アステルの術式がその光を支え、揺らぐ瘴気の流れを抑えました。
黒い結晶は、低く震えるように明滅しました。
赤黒い筋が脈打ち、瘴気が濃く噴き出します。
リリアの額に汗がにじみました。
足元が揺れるような感覚に、杖を握る指へ力が入ります。
その時、蒼月がすぐ横へ体を寄せました。
銀色の温もりが、リリアの肩に触れます。
リリアはその気配を感じながら、もう一度、深く息を吸いました。
光が強くなる。
結晶の周囲にまとわりついていた黒い靄が、薄い布を剥がすようにほどけていきます。
やがて、黒い結晶の瘴気を吐き出す力が弱まったのを見定め、アステルが封印箱を開きました。
アステルが慎重に結晶を箱へ収めます。
蓋が閉じられた瞬間、幾重もの術式が表面に浮かび上がりました。
低く震えていた空気が、少しずつ静まっていきます。
それからリリアは、まだ周囲に漂っている瘴気の浄化を行いました。
広場の黒ずみが薄れ、家々の影がようやく本来の形を取り戻していきます。
けれど、村の姿は痛々しいものでした。
崩れた屋根。
割れた窓。
倒れたままの桶。
誰かの暮らしが、途中で断ち切られたまま残っていました。
瘴気は消えても、かつての穏やかな時間が戻るわけではありません。
リリアはその光景を見つめ、胸の奥が締めつけられるのを感じました。
安堵が訪れたのと同時に、足元から力が抜けかけます。
すかさず蒼月が寄り添い、大きな体でリリアを支えた。
リリアは蒼月の毛並みに手を添え、かすかに息を吐きました。
アステルがそばへ歩み寄ります。
「よく頑張ってくれましたね。休むために、天幕へ移動しましょう」
リリアは頷きます。
ガレスが用意した村外れの天幕へ向け、リリアは蒼月の温かな毛並みに寄りかかりながら、ゆっくりと足を進めました。
リリアが天幕でしばらく休んだ頃には、夜に近い静けさが、天幕の周りに降りていました。
見張りの騎士たちの足音が、遠くで小さく響いています。
リリアは天幕の布を上げ、冷たい風を頬に受けました。
そして、ふと地面へ視線を落とした。
土の上に、消えかかっていた大きな足跡が残っていました。
ほとんど均されていましたが、端だけが残っています。
リリアはすぐに分かりました。
蒼月の足跡です。
けれど、それは今ついたものではありませんでした。
土は乾き、縁は崩れ、上から均された跡があります。
誰かが消そうとしたのだと、リリアにも分かった。
胸の奥で、あの訓練の意味が少しずつ繋がり始めます。
自分がここへ来る前に、蒼月や騎士たちは何をしていたのか。
本当は訓練ではなく、ここに残っていた魔物を、自分に見せないように倒してくれていたのではないか。
蒼月は、自分の知らない場所で、危険なものと向き合ってくれていたのです。
リリアは足跡の前で立ち止まり、胸元に手を添えました。
嬉しいとは違う。
悲しいとも違う。
胸の奥が熱くなり、同時に少しだけ痛みました。
不器用で、温かな優しさ。
自分を守るために隠されていたもの。
それを、消え残った一つの足跡が、教えてくれていました。
背後で、柔らかな足音がし、振り返ると、蒼月が立っていました。
月の光はまだ弱く、それでも銀色の毛並みは夜の中で淡く光っています。
リリアは何も言わず、蒼月の首元へ手を伸ばしました。
蒼月は歩み寄り、リリアの肩へ頬を寄せます。
リリアはその温もりに触れながら、小さく呟きました。
「……ありがとう」
蒼月はただ、リリアのそばに立っていました。
村に残る静けさの中で、リリアはその温もりに手を添えます。
守られるばかりではなく、いつかこの優しさに報いたい。
その願いだけが、夜の静寂の中で、胸へ残りました。




