第二十八話 優しい嘘のその先へ
翌朝、離宮の空気はいつもと変わらず穏やかでした。
薬草畑には朝露が残り、白い石造りの建物にはやわらかな光が差し込んでいます。
リリアは朝の支度を終え、蒼月の毛並みを梳いていました。
銀色の毛は櫛を通すたび、さらりと光を受けて流れます。
「蒼月、今日は少し落ち着かないね」
蒼月は何事もないように顔を背けました。
けれど、尾の先だけが揺れています。
リリアは小さく首をかしげ、それ以上は蒼月の気分として受け止めます。
その時、扉の外から控えめな声がしました。
「リリア様。第三騎士団隊長ガレス様がお見えです」
セシリアの声です。
リリアは櫛を置き、少し驚いたように顔を上げました。
「ガレス隊長が、昨日のことかしら」
「はい。蒼月殿の件で、改めてお願いに参られています」
蒼月の耳が、ぴくりと動きました。
リリアはその様子に気付きながらも、頷きます。
「お通ししてください」
ほどなくして、ガレスが部屋へ入ってきました。
いつものように背筋を伸ばし、礼を尽くした姿勢で、リリアの前に片膝をつきます。
「朝早くに失礼いたします、リリア様」
「いえ。どうぞ、お顔を上げてください」
ガレスは顔を上げました。
その視線は一度だけ蒼月へ向かい、すぐにリリアへ戻ります。
「本日は、蒼月殿の同行について、改めてもう一度お願いに参りました」
リリアは蒼月を見ました。
蒼月は伏せたまま、深い蒼い瞳だけをガレスへ向けています。
「同行、ですか」
「はい。昨日お願いしたばかりで恐縮ですが、第三騎士団と第四騎士団で、大規模な野外訓練を行うことになりました。森や山道を含む実地訓練です。明日の朝、出発する予定でおります。やはり、蒼月殿のお力をお借りできればと考えております」
リリアの表情に、わずかな寂しさが浮かびました。
「どのくらい、かかるのですか」
「ひと月ほどを予定しております。訓練の進み具合によっては、少し延びる可能性もございます」
リリアは黙って蒼月を見つめました。
蒼月の尾の先が、一度だけ揺れます。
その仕草を見て、ガレスは言葉を続けます。
「もちろん、無理にとは申しません。ですが、蒼月殿の機動力は、通常の訓練では得られないものです。騎士たちにとっても、大きな学びとなります」
リリアは蒼月のそばへ歩み寄りました。
銀色の首元の毛並みに、手を添えます。
「蒼月、行くの?」
蒼い瞳が、リリアを見つめていました。
やがて蒼月はゆっくりと立ち上がり、頬をリリアの肩へすり寄せます。
その温かな毛並みが触れた瞬間、リリアは小さく息を吐きました。
「……そっか。蒼月が行くって決めたなら、止めないね」
声には、隠しきれない寂しさがありました。
リリアは蒼月の首元に触れたまま、やわらかく微笑みます。
「でも、気をつけてね」
蒼月はもう一度、リリアの肩へ頬を寄せました。
「早く帰ってきてね」
その言葉に応えるように、蒼月の尾がゆっくりと揺れる。
ガレスはその光景を、黙って見守っていました。
胸の奥に、重いものが沈みます。
これから蒼月を連れていく場所は、訓練場などではありません。
瘴気に覆われ、魔物が潜む可能性のある村です。
リリアに見せたくないものを、蒼月には見せることになる。
それでも、リリアを守るためには必要なことでした。
「リリア様」
ガレスは深く頭を下げました。
「蒼月殿は、必ず無事にお連れして戻ります」
リリアはガレスを見つめ、頷く。
「はい。お願いします」
疑いのない声に、ガレスの胸が痛みました。
「では、明日の朝、改めてお迎えに上がります」
ガレスはもう一度深く礼をし、部屋を辞した。
扉が閉まると、部屋の中にはリリアと蒼月だけが残ります。
リリアはしばらく扉の方を見つめていましたが、やがて蒼月へ向き直りました。
銀色の首元に手を伸ばし、毛並みに触れます。
「明日は、ちゃんと見送るね」
蒼月はリリアへ顔を寄せ、頬を肩へすり寄せました。
言葉よりも確かな約束のように、温かな毛並みがリリアの肩先で揺れています。
翌朝、ガレスは約束どおりリリアの住む離宮を訪れました。
リリアに見送られ、蒼月は第三騎士団の列へと加わります。
城門を出た先には、第三騎士団だけでなく、第四騎士団の兵たち、攻撃魔法部隊の術師、治癒術師、星術院の者たち、そして補給の馬車が並んでいます。
蒼月は一度だけ振り返り、リリアを見ました。
「蒼月、気をつけてね!」
リリアの声に、蒼月の尾が揺れました。
それを最後に、銀色の背は騎士たちの列の中へ進んでいきます。
リリアの故郷の町へ続く道を越え、さらに奥へ進むにつれて、周囲の景色は少しずつ人の気配を失っていきました。
整えられていた街道は細くなり、馬車の車輪はぬかるみに取られ、行軍の足は自然と遅くなります。
王都を発ってから、半月ほどが過ぎました。
第三騎士団と第四騎士団を中心とした一団は、瘴気の影響が届かない平地に陣を取り、長期戦に備えて本営を築いた。
夜の帳が下りるころには、いくつもの天幕に灯りがともり、見張りの兵たちが持ち場へ散っていきます。
本営の中央に張られた大きな天幕では、翌朝の作戦について最終確認が行われていました。
机の上には、斥候が確認した周辺の地図が広げられています。
森へ続く道、瘴気の境界、迎撃に使う平地、負傷者を下げる経路。
それぞれに駒が置かれ、部隊の配置が示されていました。
ガレスは地図を見下ろしながら、低い声で言った。
「迎撃地点は、ここで固定する。瘴気の境界からは十分に距離を取るが、魔物を引き出したあと、こちらが受け止められる広さがある」
マティアスが腕を組み、地図上の駒へ視線を落とす。
「第四騎士団は左右の押さえに回ります。中央を第三騎士団が受け、左右から囲い込む形でよろしいですな」
「それで頼む。蒼月殿が引き出す数は、およそ二十体前後を想定する」
天幕の中に、重い沈黙が落ちました。
二十体。
ただの獣であれば、それほどの数でも騎士団は怯みません。
けれど相手は瘴気に蝕まれ、魔物となったものです。
力も、痛みへの反応も、普通の生き物とは違います。
ガレスは一同の表情を見渡し、続けました。
「一体につき十名を目安に当たる。盾で受け止める者、槍で止めを刺す者、負傷者を下げる者、後方から支える者。役割を崩すな。焦って前へ出れば、隊列が乱れる」
攻撃魔法部隊の隊長が頷く。
「魔法部隊は後方から支援に入ります。左右へ流れそうな個体を削る形でよろしいですか」
「そうだ。正面は騎士団で受ける。魔法部隊は逃がさぬために使う。火力を一箇所に集めすぎるな」
治癒術師たちの責任者が、地図の後方を指しました。
「負傷者はこの経路で下げます。治療用の天幕は本営側に寄せますが、軽傷者の応急処置は迎撃地点の後方でも行えるようにします」
「頼む」
ガレスは短く答え、今度は天幕の端に控えていた星術院の者へ視線を向ける。
「瘴気の境界は、今のところ昼間と変わりないか」
「はい。境界そのものが大きく広がっている様子はありませんが、油断はできません」
「明朝まで監視を続けろ。少しでも変化があれば、すぐに知らせてくれ」
「承知しました」
天幕の中で、蒼月が伏せていました。
銀色の毛並みは灯りを受けて淡く光り、深い蒼い瞳は地図ではなく、瘴気のある方角を見据えています。
リリアの前で見せる穏やかさは、そこにはありませんでした。
ガレスは蒼月へ向き直る。
「蒼月殿。明朝、夜明けと同時に動いていただく。瘴気の中へ入り、魔物をこちらの迎撃地点まで誘導してほしい」
蒼月の尾が、一度だけ揺れた。
それだけで、ガレスには十分でした。
「一度に引き出す数は、可能であれば二十体前後に抑えたい。多すぎればこちらの隊列が乱れる。少なすぎれば、長期戦がさらに長引く」
蒼月はゆっくりと顔を上げました。
蒼い瞳が、まっすぐにガレスを映します。
その眼差しには、不満も迷いもありません。
ただ、すでに決めたものの静けさがありました。
「……助かります」
ガレスは短くそう言い、地図へ視線を戻しました。
「明日は三度、誘導と迎撃を行う。初回は夜明け。二度目は昼前。三度目は日が傾く前だ。それ以上は追わない。日没後は残骸の処理、負傷者の治療、結界と警戒の維持に回す」
マティアスが低く唸るように言う。
「長引きますな」
「ああ」
ガレスは頷いた。
「村人だけではない。家畜も、周辺の獣も魔物化している可能性がある。総数は、村という言葉から想像するものをはるかに超えるだろう」
天幕の中の空気が、さらに重くなる。
それでも、ここにいる者たちは皆、明日から何をするのかを理解していました。
ガレスは机の上に置かれた駒を一つ、迎撃地点へ押し出す。
「蒼月殿がいなければ、我々は瘴気の境界ぎりぎりで戦うしかなかった。どこから来るか分からぬ魔物を、休む間もなく受け止め続けることになっていただろう」
その言葉に、天幕の中の視線が蒼月へ集まりました。
蒼月はただ、瘴気のある方角を見据えています。
「だからこそ、こちらは隊列を崩すな。蒼月殿が作る間合いを、無駄にするな」
ガレスの声が、天幕の中に低く響きました。
「明日から、この戦いは削り合いになる。勝とうと焦るな。生きて戻ることを考えろ。倒し続けることが、最終的に勝つ道だ」
マティアスが深く頷いた。
「第四騎士団、承知しました」
攻撃魔法部隊、治癒術師、星術院の者たちも、それぞれに頷きます。
最後にガレスは、もう一度蒼月を見ました。
「蒼月殿。明日、よろしく頼みます」
蒼月はゆっくりと立ち上がりました。
銀色の体が天幕の灯りを受け、影が大きく揺れます。
そして、尾を一度だけ打つ。
その音が、作戦開始の合図のように、天幕の中へ重く響きました。
夜明け前、迎撃地点にはすでに兵たちが並んでいました。
第三騎士団が中央を固め、第四騎士団が左右に展開しています。
後方には攻撃魔法部隊と治癒術師が控えています。
ガレスは馬上から、並ぶ兵たちを見渡しました。
盾を握る手に力が入り、誰もが前方を見据えています。
恐れていない者などいません。
それでも、ここで退けば、瘴気の奥に残るものはさらに広がっていくのです。
「恐れるなとは言わん」
ガレスの声が、朝の冷えた空気に低く響く。
「だが、恐れに呑まれるな。相手はただの獣ではない。爪や牙を身に受ければ、傷口から瘴気が入り込む。そうなれば、ただの負傷では済まん」
兵たちの表情が、いっそう引き締まった。
「盾で受けろ。間合いを崩すな。焦って前へ出るな。お前たちの後ろには、守るべき町があり、人がいる。ここで止める。ここで食い止める。それが、我々騎士団の役目だ」
兵たちの背筋が、伸びました。
マティアスが剣を抜き、第四騎士団の兵たちも盾を構え直します。
「第一陣、構え」
低い号令とともに、盾が一斉に持ち上がる。
槍の穂先が朝の薄明かりを受け、かすかに光った。
やがて、地平の向こうに銀色の影が現れ、蒼月が風を切るように駆けるその背後で、土煙が大きく巻き上がっていた。
「来るぞ」
ガレスが短く告げる。
土煙の中から、黒ずんだ影が次々と姿を現した。
蒼月は迎撃地点の手前で大きく横へ跳んだ。
その鋭い動きに釣られるように、追ってきた魔物たちの進路が、まっすぐ騎士団の盾列へと向かう。
「中央、受けろ!」
ガレスの号令と同時に、盾列が前へ出た。
次の瞬間、先頭の魔物が大きな音をたてて勢いのまま盾へぶつかる。
重い衝撃に、前列の兵たちの足が土を削る。
「受け止めろ! 焦るな、一体ずつだ!」
第三騎士団が中央で受け、第四騎士団が左右から回り込む。
後方から放たれた光の術が、流れかけた魔物の足を止めた。
そこへ槍が突き立てられ、一体が地面へ崩れ落ちた。
けれど、息をつく間もなく次の魔物が迫る。
歪んだ角を持つもの。
獣の姿を残したまま、異様に膨れ上がったもの。
人であった名残を、残したもの。
蒼月が引き出してきた魔物たちは、およそ二十体。
土煙を巻き上げながら、次々と盾列へ押し寄せた。
蒼月は戦列の外側を駆け、逸れかけた魔物の進路を変えていく。
銀色の影が走るたび、魔物の流れが騎士団の前へ戻された。
ただ倒すためではない。
人間が受け止められる場所へ、戦いの形を保つための動きだった。
それでも、楽な戦いではなかった。
盾は軋み、槍は折れ、盾ごと弾き飛ばされた兵や、衝撃で足を痛めた兵が後方へ下げられていく。
治癒術師たちが駆け寄り、星術院の者たちは倒れた魔物の残骸へ処理を施した。
黒い靄が残骸から滲むたび、兵たちの表情が険しくなる。
「左へ流すな!」
マティアスの声が飛んだ。
第四騎士団が踏み込み、左右から魔物の進路を塞ぐ。
中央では第三騎士団が盾を重ね、後方の魔法部隊が動きを削った。
数だけ見れば限られているはずなのに、その一体一体が重く、戦いはひどく長く感じられた。
最後の一体が地面へ沈むころには、朝日はすっかり高く昇っていました。
迎撃地点には、荒れた土と折れた槍、ひしゃげた盾、そして黒い靄を漏らす残骸が残されています。
兵たちは荒い息を整えながら、すぐに次の指示を待っていました。
ガレスは馬上から戦場を見渡しました。
負傷者は思ったより多い。
盾越しの衝撃で動けなくなった者だけではありません。
鎧の隙間から傷を負い、瘴気の処置を必要とする者もいました。
武具の損耗も軽くありません。
そして何より、倒したあとの処理に時間がかかっていました。
「三度は無理だな」
そばにいたマティアスが、短く頷く。
「この消耗で、予定どおり昼前と夕刻にもう二度は厳しいでしょう」
ガレスは迎撃地点の先を見据えました。
遠くには、次に備えるように蒼月が立っています。
「一度の数は減らさない。十体ずつにすれば安全にはなるが、その分、蒼月殿が瘴気へ入る回数が増える」
ガレスはすぐに決めた。
「以後は午前と午後の二度に切り替える。戦闘に出る兵は総入れ替えだ。予備を厚く取れ。夜は負傷者の治療、残骸の処理、武具の修繕、警戒に回す」
「承知しました」
マティアスが第四騎士団へ指示を飛ばします。
兵たちはすぐに動き始めました。
負傷者が治癒天幕へ運ばれ、折れた槍が集められ、星術院の者たちが残骸の処理を進めていきます。
けれど、これは始まりにすぎません。
村人も、家畜も、森の獣も。
瘴気に呑まれたものは、まだ奥に残っています。
ガレスは蒼月の銀色の背を見つめました。
この戦いは、力で押し切るものではない。
削り、整え、続けるための戦いなのです。
「次は午後だ」
低く告げた声に、兵たちの空気が引き締まりました。
長い戦いの、最初の朝が終わっただけでした。
午前と午後、蒼月が瘴気の奥から魔物を引き出す。
騎士団が平地で迎え撃ち、魔法部隊が足を止め、治癒術師が負傷者を下げる。
日が落ちれば、残骸の処理、武具の修繕、夜間警戒。
翌朝には、また蒼月が走りました。
兵たちの疲労は色濃くなり、本営には常に鉄と薬の匂いが漂うようになりましたが、繰り返すうちに、迎撃地点へ現れる魔物の数は少しずつ減っていく。
そして二十日目の夕刻、蒼月が遠い平地を駆け戻ってきた時、その背後に土煙が舞うことはありませんでした。
ガレスは馬上からその姿を見つめ、長く息を吐きます。
「……終わったか」
そばにいたマティアスも、同じ方角を見据えたまま頷きました。
「少なくとも、引き出せる魔物はもう残っていないようです」
ガレスは、遠く村の方角を見つめました。
魔物は引き出した。
だが、瘴気そのものが消えたわけではない。
人の足で踏み込めば、何が起こるか分かりません。
「蒼月殿」
ガレスは呼びかけました。
「ここから先は、我々だけでは進めません。リリア様に来ていただく必要があります」
蒼月の蒼い瞳が、ガレスへ向けられる。
「あなたは先に王都へお戻りください。リリア様も、蒼月殿の帰りを待っておられるはずです」
蒼月は村の方角へ視線を戻しました。
まだ残る瘴気の奥を、見据えるように。
ガレスはその横顔を見つめ、低く続けます。
「魔物を討つためではありません。残された瘴気を浄化していただくためです」
ガレスは一通の封書を取り出し、蒼月の首元の装飾具の内側へ丁寧に差し入れました。
「リリア様へ、これをお届けください」
蒼月の尾が、ゆっくりと一度だけ揺れる。
ガレスはそれを了承と受け取り、マティアスへ向き直ります。
「第四騎士団は動かせる負傷兵を連れて王都へ帰還。第三騎士団は一部を本営に残し、周囲の警戒を続ける。傷口から瘴気を受けた者は無理に動かすな。体への負担を考え、リリア様が到着されるまで本営で保護する」
「承知しました」
マティアスは短く答え、すぐに兵へ指示を飛ばしました。
長く続いた掃討戦は終わりました。
蒼月は身を翻し、王都の方角へ向かって駆け出す。
ガレスは、その銀色の背が遠ざかっていくのを黙って見送っていました。




