第二十七話 奇跡の光を守るために
年明け早々、王宮は第二王子セドリックの二十歳を祝う準備で、華やかな喧騒に包まれていました。
この国において、二十歳を迎えることは大きな節目とされ、家族で盛大に祝うならわしがあります。
広間には色鮮やかな冬の花が次々と運び込まれ、厨房からは甘い香りが漂い、侍従や侍女たちは足早に廊下を行き交っていました。
黒い結晶についての重苦しい対策会議を終えた各国代表たちも、順に帰国の途につき始めていました。
王宮の門には各国の紋章を掲げた馬車が並び、従者たちが荷を積み込む中、代表者たちは最後の挨拶を交わしては自国へと戻っていきます。
そして、第二王子の宴が終わった後には、公爵家でリリアの二十歳の祝いも行われる予定になっています。
ハインリヒの養女となり、公爵位を授けられてから迎えた、二十歳の節目。
それはリリアにとって、公爵家の家族として祝福される、初めての日でもありました。
公爵家の屋敷でも、王宮のような壮大なものではなく、派手すぎない花やリリアの好む菓子の準備が進められていました。
王宮の宴とは違う、家族だけの温かな席にするつもりだったのです。
けれど、その穏やかで温かな支度の裏側で、王宮の奥にはひとつの急報がもたらされていました。
リリアの故郷である町の近く。
森と深い渓谷に囲まれた村で、極めて濃い瘴気が確認されたという知らせでした。
報告を受けたアレクシス王は、直ちにハインリヒ、アステル、ローガン、ヴィクトルを呼び出した。
奥の会議室に集められた重臣たちの表情は、年明けの祝いの空気とはかけ離れていました。
「やはり……村の状況は」
アレクシス王が低く問うと、泥に汚れた軍服のまま報告に上がった兵が深く頭を下げました。
「詳細はまだ確認中ですが、村全体を覆う異常な濃さの瘴気が漂っているとのことです。また、村の中と周囲の森には、魔物と思われる影も複数確認されております」
室内の空気が、重くなる。
アステルが、痛ましいものを見るように眉を寄せます。
「……黒い結晶がある可能性があります」
「やはり、そう見るか」
「はい。それほどの瘴気が村全体に漂っているのであれば、何らかの核があると考えるべきでしょう」
沈黙の中、ハインリヒが絞り出すように低い声をこぼしました。
「問題は……その魔物が、村人であった可能性が高いということです」
その言葉に、室内の空気がさらに重く沈む。
濃い瘴気、村全体を覆う異常、そして周囲に現れた魔物。
それらが何を意味するのか、ここにいる者たちは痛いほど理解していました。
ハインリヒは、机上で組んだ手に力を込め、さらに続けました。
「以前、町を襲った魔物に対し、リリアはとっさに浄化の力を発し、結果として魔物を消しました。あの時の魔物が元は何であったのか、当時は誰にも分かりませんでした。ですが……今回の村で現れた魔物が、もし村人であったものならば、リリアに、同じことをさせるわけにはいきません」
ローガンが、頷く。
「リリア殿は、必ず自分を責めます。自分の浄化で、村人であったものを消してしまったのではないかと」
アステルも、苦渋に満ちた表情で同意しました。
「黒い結晶の浄化には、どうしてもリリア殿の力が必要です。ですが、魔物への対応まで、リリア殿に担わせるべきではありません」
リリアなら、きっと向かうと言うでしょう。
けれど、その先で待っているものが、かつて人であったかもしれない魔物だと知った時、優しすぎるリリアの心はどれほど深く傷つくでしょうか。
誰も、それを軽く考えることはできませんでした。
重臣たちはすでに、リリアをただの力ある存在としてではなく、守るべき一人の人として見ています。
アレクシス王は、しばらく目を伏せていました。
やがて顔を上げ、王としての判断を下した。
「まずは現地を封鎖せよ。周囲の魔物については、軍が対応する。リリアに伝えるのは、魔物への対応を終え、黒い結晶の浄化と封印が必要になる段階になってからだ」
アステルが深く頷きました。
「星術院からも人を出します。瘴気の流れを確認し、結界の維持と被害の拡大防止に当たらせます」
ローガンは、武の長としての厳しい顔つきに戻っていた。
「第三騎士団と第四騎士団を直ちに動かします」
ハインリヒは、ただ目を伏せました。
この残酷な決断を、深く噛み締めているようでした。
その日の夜。
ローガンは、第三騎士団隊長ガレスと、第四騎士団隊長マティアスを王宮の一室へ呼び出していました。
机の上には、村周辺の精緻な地図が広げられています。
揺れる燭台の炎が、森、渓谷、そして村へ続く細い道を照らし出す。
瘴気が確認された範囲には、生々しい赤い印がいくつも置かれていました。
「ガレス、マティアス」
ローガンは、地図上の赤い印を指し示しました。
「まず状況を伝える。リリア殿の実家があったローゼンの町にほど近い奥地、森と渓谷に挟まれた村が瘴気に侵されている。周囲には魔物が徘徊しており、人を見つけると追ってくるようだ」
ガレスの表情が、険しくなる。
「旅人や近隣の村にも被害が出ているのですか」
「ああ。街道を通る旅人が襲われている。このままでは、近隣の村や町に被害が及ぶのも時間の問題だ」
ローガンは、地図から鋭い視線を上げました。
「第三騎士団と第四騎士団を動かす。お前には、現地の指揮を任せる。マティアスはガレスの指示に従い、連携して当たれ」
ガレスとマティアスは、同時に短く頭を下げた。
「承知いたしました」
「リリア殿を向かわせる前に、可能な限り我々で排除しておきたい」
ローガンの言葉の裏にある意図を察し、ガレスの表情が険しくなりました。
「……リリア様には、まだ詳細をお伝えしないのですね」
「浄化が必要になる、最後の段階ではな」
ローガンは、地図上の村を指で押さえた。
「問題は、村の周囲にいる魔物をどう動かすかだ。あれほど濃い瘴気の中へ、生身の兵を入れるわけにはいかん。かといって、このままリリア殿を連れて行けば、彼女は確実に魔物も同時に浄化することになる」
ガレスは、しばらく黙って地図上の等高線を見つめていました。
やがて、ひとつの覚悟を決めたように低く言った。
「……蒼月殿に、頼むしかありません。蒼月殿は、前回の現場でも濃い瘴気の中を動いておられました。人が近づけぬ場所でも、蒼月殿ならば動けると思います」
ローガンは、ゆっくりと頷きました。
「私も、同じ考えだ」
リリアに知られぬまま、あの誇り高き銀狼に頼むことは簡単ではありませんでした。
それでも、リリアの心を守るためには、その力を借りるほかありません。
ローガンは、眉を顰めました。
「蒼月に村の中の魔物をできる限り集め、人が瘴気の影響を受けぬ場所まで誘導してもらう。その上で、騎士団が迎え撃つ」
ガレスの表情は、さらに険しくなった。
「数は、少なくないでしょう」
「ああ。村人だけではない。家畜や、周辺の森にいた獣まで瘴気に呑まれている可能性がある。ためらえば、被害はさらに広がる」
ローガンは、軍の長として命を下す。
「第三騎士団と第四騎士団を中心に、昼夜二交代制で当たらせる。戦闘に当たる者、魔物の死骸を処理する者、周囲を警戒する者に分けろ。攻撃魔法部隊と治癒術師も同行させる」
ガレスは、深く頷きました。
村人だったかもしれない魔物に刃を向け、その痕跡をリリアの目に触れぬよう処理する。
それは騎士にとっても、過酷な任務でした。
「承知いたしました」
「油断できる状況ではない」
ローガンの声は、重く、そして静かな決意に満ちていました。
「リリア殿に見せる前に、我々でできる限り終わらせるぞ」
ローガンは、最後にガレスへ視線を向けた。
「蒼月に頼む件は、ガレス。お前に任せる」
ガレスは、すぐには答えられませんでした。
確かに、蒼月を頼るべきだと言い出したのは自分です。
けれど、まさかその交渉役まで任されるとは思っていませんでした。
内心で深く頭を抱えながらも、ガレスは表情には出さず、頭を下げた。
「……承知いたしました」
会議を終えたあと、ガレスはしばらく王宮の廊下を歩いていました。
蒼月にどう頼むべきかを、何度も考えていたのです。
命令など通じる相手ではありません。
王国や騎士団の都合を並べても、聞き入れてもらえるとは限りません。
何より、リリアに関わることを隠したまま頼めば、蒼月はすぐに見抜くでしょう。
ガレスは足を止めました。
考えれば考えるほど、余計な言葉ばかりが増えていきます。
けれど、蒼月に対して取り繕った言葉など意味がありません。
真正面から話すしかない。
リリア様を守るために力を貸してほしいと、ただ素直に頭を下げるしかない。
そう決めると、ガレスは息を吐きました。
そして、離宮へ向かうため、踵を返した。
離宮に着くと、ガレスは侍女に案内され、リリアのいる部屋の前へ通されました。
中から、リリアの明るい声が聞こえてきます。
「蒼月、だめよ。くすぐったいわ」
続いて、楽しそうな笑い声が漏れます。
「ふふっ。蒼月の毛は、いつも気持ちいいわね」
ガレスは、扉の前で一瞬だけ迷いました。
今この穏やかな時間を壊すことに、わずかなためらいがあったのです。
けれど、ここで引くわけにはいきません。
ガレスは息を整え、扉を叩きました。
「リリア様、お寛ぎのところ失礼いたします」
「ガレス隊長?」
中からリリアの声が返り、扉が開かれました。
部屋の中では、リリアが蒼月の毛並みに頬を寄せています。
蒼月はその隣に伏せていましたが、ガレスの姿を認めた瞬間、蒼い瞳を細めました。
邪魔をするな。
そう言われているようでした。
ガレスは、その視線を受け止めながら、リリアに向かって頭を下げました。
「本日は、蒼月殿にお願いがあって参りました。少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「蒼月に、ですか?」
リリアは不思議そうに瞬く。
「実は、近く第三騎士団と第四騎士団で、大規模な野外訓練を行う予定がございます。魔物との戦闘を想定した訓練です。その中で、蒼月殿との連携も確認させていただけないかと考えております」
言いながら、ガレスは自分でも苦しい理由だと思っていました。
蒼月の視線が、さらに鋭くなります。
やはり、見抜かれている。
そう思いましたが、今はリリアの前です。
真実を口にするわけにはいきませんでした。
「あら。蒼月も必要なのですか?」
「はい。大規模な戦いとなった場合、蒼月殿と騎士団がどのように動くべきか、事前に確認しておく必要がございます」
リリアは蒼月の方を見た。
「蒼月、どうする?」
蒼月は、じっとガレスを見つめたままでした。
不満げに顔を背け、尾の先が揺れます。
その様子を見て、リリアは困ったように眉を下げた。
「……少し、嫌みたいです。ごめんなさい」
「いえ。急なお願いでしたので、当然でございます」
ガレスは深く頭を下げました。
「失礼いたしました」
そう言って部屋を出たものの、ガレスの胸の内は重いままでした。
やはりリリアの前で、蒼月を説得することなど不可能です。
蒼月が拒めばリリアはそれを尊重し、リリアが困れば蒼月は頑なに心を閉ざす。
――……やはり、あの銀狼と直接、二人だけで話すしかないか。
ガレスは密かにそう覚悟を決めました。
その夜遅く、ガレスは自室で机に向かっていました。
村の地図を広げたまま、どうにかリリア抜きで蒼月と接触できないかを考えていたのです。
その時、窓辺で小さく、コトリと音がしました。
ガレスは顔を上げた。
月明かりを背に、窓の外に蒼月が立っていました。
銀色の毛並みが淡い光を受け、輝いています。
先ほどの音は、自分に気付かせるために蒼月がわざと立てたものなのだと一目で分かりました。
ガレスは、思わず喉を鳴らした。
窓を開けると、冷たい夜気が部屋へ流れ込みます。
蒼月は蒼い瞳でガレスを見据えていました。
「……来てくださったのですね」
蒼月は、ただ、その視線だけで先を促しているようでした。
ガレスは姿勢を正し、深く頭を下げました。
「昼間は、失礼いたしました。リリア様の前で、本当の理由を申し上げることはできませんでした」
蒼月の尾が、揺れる。
ガレスは顔を上げ、隠さずに話し始めます。
「リリア様の実家があったローゼンの町に近い奥地で、村ひとつが濃い瘴気に侵されています。村から瘴気が放たれており、黒い結晶がある可能性が高いと見ています」
蒼月の瞳が、細められました。
「周囲には、魔物と思われる影が多数確認されています。人を見つけると追い、旅人や近隣の村にも被害が及び始めています」
ガレスは拳を握った。
「ですが、その魔物が、もとは村人であった可能性があります。家畜や、周辺の森にいた獣まで瘴気に呑まれているかもしれません」
部屋の中に、重い沈黙が落ちました。
「リリア様には、まだお伝えしていません。瘴気や黒い結晶の浄化には、いずれリリア様のお力が必要になります。ですが、その前に、できる限り魔物を片付けておきたいのです」
蒼月は、微動だにしません。
けれどその空気が、少しずつ鋭くなっていくのを、ガレスは感じていました。
「人間は、濃い瘴気の中には入れません。ですが、蒼月殿なら動ける可能性があります。村の中や周辺にいる魔物を、人が瘴気の影響を受けぬ場所まで誘導していただきたいのです。そこで、騎士団が迎え撃ちます」
ガレスは、もう一度深く頭を下げた。
「どうか、力をお貸しください。リリア様に、あの光景を見せたくありません」
蒼月はしばらくガレスを見つめていました。
やがて、尾をぴしりと床に打つ。
それは、了承の合図のように見えました。
ガレスは、胸の奥で詰めていた息を吐いた。
「……ご協力、感謝いたします」
ガレスは続けました。
「それと、もう一つお伝えしておくべきことがあります。星術院の者たちが、瘴気の性質を調べるための実験を行います」
蒼月の瞳が、鋭さを増す。
「小動物や家畜を檻に入れ、瘴気の中へ段階的に近づけます。倒れた時点で引き出し、生命活動が残っているのか、あるいは魔物化がどの時点で始まるのかを確認するためです」
ガレスは、言葉を選びながら続けました。
「命を軽く扱うためではありません。リリア様の浄化で何が救え、何が救えないのかを見極めるためです。瘴気に侵されたものが、まだ生きているのか。それとも、命を失ったあとに魔物へ変わるのか。それを確かめなければ、今後の判断を誤ります。出発は二日後です。それまでに、私はもう一度リリア様のもとを訪ねます。表向きは、大規模な野外訓練への同行という形にいたします」
ガレスは、少しだけ言いづらそうに言葉を切った。
「その時は……話を合わせていただけると、助かります」
蒼月は、ガレスを一瞥しました。
そして、もう一度だけ、尾がぴしりと床を打ちます。
それが了承なのか、呆れなのか、ガレスには分かりませんでした。
ただ、少なくとも拒絶ではない。
次の瞬間、蒼月は音もなく窓辺から姿を消しました。
銀色の影が月明かりに溶けるように消え、部屋には冷たい夜気だけが残ります。
ガレスはしばらく、開いた窓の前に立ち尽くしていました。
改めて思い知らされます。
あれは、人の手で縛れる存在ではありません。
もし蒼月がこの王宮を敵とみなせば、悲鳴一つ上げる間もなく、一夜にしてこの王宮は「死の城」と化すでしょう。
国王も、重臣たちも、そして歴戦の騎士である自分たちでさえ、剣を抜くことすら許されずに命を散らす。
誰一人として、自分を殺した相手の姿を見ることなく。
国を一つ滅ぼせるほどの災厄が、ただリリアに撫でられるためだけに、あそこで伏せているのです。
その事実を突きつけられ、ガレスは底知れぬ畏怖に背筋が粟立つ思いがしました。
けれど同時に、だからこそ信じるしかありませんでした。
蒼月がリリアを守るために動くなら、これほど頼もしい味方はいないのです。
ガレスは窓を閉めた。
そして、二日後に向けて、もう一度地図へ視線を落としました。
蒼月は、音もなく王宮の屋根を渡っていました。
夜風が銀色の毛並みを撫で、月明かりがその背を淡く照らしています。
遠く下方に警備の騎士や夜番の侍女の気配を感じ取りながらも、蒼月の意識は別のところへ向いていました。
――リリアに、見せたくない。
ガレスの言葉は、人間らしく不器用なものでした。
あの騎士もまた、リリアを守ろうとしている。
リリアの心をこれ以上傷つけまいとしている。
それだけは確かでした。
蒼月は屋根の上で一度足を止め、かすかな灯りが残る離宮の窓を見つめました。
あの部屋には、自分の毛並みに頬を寄せて笑うリリアがいます。
リリアは、人が隠そうとする痛みや言葉にできない不安を、敏感に受け取ってしまう娘です。
だからこそ、見せたくありませんでした。
村だったもの。
人だったもの。
命を奪われ、形を歪められ、ただ瘴気に動かされるだけのものたちを。
目の当たりにすれば、リリアはきっと自分を責めるでしょう。
自分の力で消してしまったのではないかと、深く傷つくはずです。
あの小さな手が、誰かを救うために伸ばされる手であることを、蒼月は知っています。
けれどその手に、死の重さまで背負わせる必要はありません。
ならば、自分が行けばいい。
瘴気の中を進むことも、魔物をおびき寄せて倒すことも、蒼月には何の恐れもためらいもありません。
それが人や獣の名残を持つものであろうと、もう戻れないものならば、リリアの前に立たせないだけです。
もちろん、これもまた隠し事です。
後で知れば、リリアは自分だけ守られていたのだと悲しむかもしれません。
それでも今は、すべてを見せ、受け止めさせるには早すぎます。
蒼月は、再び離宮へ向かって歩き出しました。
柔らかな金の髪。
翡翠の瞳。
自分を恐れず、ただ蒼月と呼ぶ声。
その声を守るためならば、血に濡れた戦場を歩くことになっても、リリアがその光景を見ずに済むならそれでいいのです。
離宮の屋根へ降り立ち、窓の向こうの淡い光を見つめながら、蒼月は目を細めました。
――リリア。お前は、まだ知らなくていい。その代わり、戻ってきたらいつものように笑って、ただ、おかえりと言えばいい。
蒼月は窓辺へ近づき、何事もなかったかのように、リリアのいる部屋へ戻っていきました。




