第二十六話 黒い結晶対策会議
爵位式を終えてから、王都グランリューネの空気は、少しずつ年の終わりの色を帯び始めていました。
街路には冬の冷たい風が通り、王城の高い窓から見える空も、夏の頃とは違う澄んだ青をしています。
本来であれば、王都は年明けの祭りに向けて、もっと賑やかに浮き立っているはずでした。
「今年は夏祭りも、豊穣を祝う秋の祭りも見送られましたからね」
「魔物の活性化に瘴気の広がり、そして黒い結晶の発見。せめて年明けの祝いだけは、という陛下のお考えなのでしょう」
王城の廊下を行き交う文官たちの会話にも、どこか張り詰めたものがありました。
民の不安を少しでも和らげるため、年明けの祝いは規模を抑えて行われることになっています。
けれど、その前に王城には、避けて通れない重い役目がありました。
各国の代表者たちを集めた、黒い結晶対策会議です。
「各国の代表らは単なる使者ではない。それぞれの王や統治者の意思を背負って来る者たちだ。客室、席次、護衛、通訳、記録官の配置まで、抜かりなく整えよ」
執務室で報告書に目を通しながら、ハインリヒは文官たちにそう命じていました。
城内では連日、調整と確認が続いています。
リリアは、王城の空気が日に日に変わっていくのを感じていました。
見慣れない異国の礼装。
耳慣れない発音の言葉。
知らない紋章を掲げた護衛たち。
そのひとつひとつが、リリアの知っていた世界の外側を見せているようでした。
黒い結晶対策会議は、華美な装飾を控えた広い会議の間で行われました。
中央には重厚な大卓が据えられ、壁際には記録官たちが並んでいます。
各国の代表者たちは、すでに席に着いていました。
王国側には、国王アレクシス、宰相ハインリヒ、星術院長官アステル、騎士団の上席者たちが並びます。
リリアは一段後方に用意された席へ腰を下ろしました。
蒼月は当然のように、リリアの足元に伏せています。
最初に口を開いたのは、アレクシス王でした。
「遠方より集まってくれたこと、まずは礼を言う」
静かな声が、会議の間に響きました。
「本日より、この場を黒い結晶対策会議とする」
その言葉に、各国の代表者たちの空気が引き締まる。
「すでに各国でも、魔物の異常発生が報告されていることと思う。我が国もまた、これを一国のみの災厄とは捉えておらぬ。ここでは、我が国で確認された黒い結晶について、現時点で判明していることを共有し、今後の対応を協議したい」
国王の視線を受け、アステルが立ち上がりました。
「実物は極めて危険であるため、この場へ持ち込むことは控えております。明日、厳重に安全を確保した上で、皆様には視察していただく予定です。まずは、皆様にお配りした黒い結晶についての資料をご確認ください」
配られた資料には、黒い結晶の形状を示した図や、発見時に取るべき初動対応、封鎖の手順、王国への報告事項などが細かく記されていました。
「現在、我が国で確認された黒い結晶は、極めて高濃度の瘴気を帯びています。発見された地域では土地が荒れ、通常よりも強い魔物の出現が確認されました」
アステルは資料を示しながら、淡々と説明を続けます。
「これが魔物の直接的な発生源であるかどうかは、まだ調査中です。ですが、この結晶が周囲に濃い瘴気を広げ、その瘴気が土地と生き物に深刻な影響を及ぼすことは確認されています。我が国では、深く瘴気に侵された兵士が、魔物に近い状態へ変じました」
その言葉に、代表者たちの表情が変わりました。
「もし領内でこれに類する結晶を発見した場合は、決して不用意に近づかないでください。まず周囲を封鎖し、民を遠ざけることが最優先です」
アステルは資料へ視線を落とし、続けます。
「可能であれば結界を張り、それ以上瘴気が広がらないよう対策を講じてください。そのうえで、速やかに王国へ知らせていただきたい」
アステルはそこで一度言葉を切りました。
そして、さらに声を落とします。
「これは、現れた魔物を討伐すれば終わるものではありません。黒い結晶と、そこから広がる瘴気を放置すれば、被害は繰り返されます」
リリアは膝の上で、手を握りました。
あの時、魔物に変わってしまった兵士の姿が、胸の奥によみがえります。
そして、その姿が自分の浄化によって消えていった瞬間も。
足元で蒼月が、その心の動きに気付いたのか、顔を上げました。
リリアは小さく息を吸い、目を伏せずに前を向きます。
アステルの説明を受け、アレクシス王が再び代表者たちを見据えました。
「各国には、速やかに自国領内の調査を願いたい。魔物が不自然に増えている地域、理由なく土地が荒れ始めた場所、獣すら近づかぬ場所があれば、この結晶の存在を疑ってほしい」
しばらく沈黙が落ちました。
やがて、南方の国を代表する年配の男が口を開きます。
「アレクシス陛下。ひとつ、確認させていただきたい儀がございます」
「申されよ」
「黒い結晶が我が国で発見された場合、リリア公爵のお力を頼ることになるやもしれません。なればこそ、優先順位と滞在の扱いを、あらかじめ明確にしておきたいのです」
男はリリアへ向けて、丁重に頭を下げました。
リリアは緊張を覚えながらも、教えられた通りに会釈を返します。
「我らの国にも、今この瞬間、魔物に脅かされている民がおります」
あからさまな棘はありません。
けれど、その問いの底にある本音は明らかでした。
リリアの力を、グランヴァルド王国だけで抱えるつもりなのか。
室内の視線が、国王へ集まります。
「当然の懸念であるな」
アレクシス王は、落ち着いた声で答えました。
「結晶が他国に存在するならば、一刻も早い浄化を望むのは当然だ。だが、発見順にリリアを派遣することはできぬ。危険度は、発見の早さだけで測れるものではない」
別の国の代表者が、身を乗り出す。
「では、その優先順位は、すべて貴国が決めると?」
「我が国のみで独断するつもりはない」
国王はすぐに答えた。
「各国からの報告は、今後もこの黒い結晶対策会議の枠組みで扱う。瘴気の濃さ、住民への被害、魔物の規模、都市や街道への影響を総合し、協議のうえで優先順位を決める」
続いて、ハインリヒが補足しました。
「そのためにも、発見国には結晶の所在、地形、移動経路、被害状況を記録し、提出していただく必要があります。正確な情報がなければ、浄化の準備も護衛計画も立てられません」
西の国の代表者が、慎重に言葉を選ぶ。
「……つまり、リリア公爵を我が方へ預ける形にはならない、という理解でよろしいか」
「その通りだ」
アレクシス王は頷きました。
「リリアが他国へ赴く際は、我が国の騎士団、星術院の者、記録官、必要な護衛が同行する。無論、蒼月も共にな」
その名が出た瞬間、代表者たちの視線がリリアの足元へ向かいました。
そこに伏せているのは、代表者たちがこれまで見たこともないほど大きな銀狼。
美しい銀の毛並みは会議の間の灯りを受けて淡く輝き、深い蒼い瞳だけが、居並ぶ代表者たちを見渡しています。
「恐れながら、陛下」
西の国の代表者が、慎重に口を開く。
「その銀狼についても、確認させていただきたい。蒼月と呼ばれるその存在は、王国の管理下にある魔獣と考えてよろしいのでしょうか」
会議の間に、わずかな緊張が走りました。
リリアは思わず、そばにいる蒼月へ視線を向けました。
蒼月は耳を動かしただけで、伏せた姿勢を崩さない。
「蒼月は、我が国が管理する魔獣ではない」
アレクシス王は、答えました。
「正直に言えば、我が国も蒼月の正体を完全に把握しているわけではない。リリアについてきた守護獣のような存在なのか、それとも別の何かなのか、断定はできぬ。ただ、ひとつ確かなことがある。蒼月はリリアを守る。これまで幾度も魔物と戦い、リリアに迫る危機を退けてきた」
代表者たちの間に、困惑と畏怖の入り混じった空気が流れる。
「では、リリア公爵に従っている、と?」
――違う。蒼月は従わされているんじゃない。私の家族であり、私の大切な友達なの。
それを聞いたリリアは、そう発したかったのをぐっとこらえました。
「従っている、という言い方も正確ではないな」
国王は目を細めた。
「蒼月は、リリアのそばにいることを自ら選んでいる。我が国はその意思を尊重している」
蒼月が、ゆっくりと顔を上げました。
蒼い瞳が、問いを投げた代表者を見据えます。
その代表者は言葉を継がず、喉を鳴らしました。
「同時に、蒼月を軽んじることは勧めぬ。詳細は伏せるが、リリアに危害を加えようとする者に対して、蒼月が極めて強く反応することは確認されている。各国にも、その点は必ず周知していただきたい」
会議の間の空気が、さらに静まり返る。
「無論、他国へ赴く際には、蒼月の存在についても事前に通達する。だが、蒼月をリリアから引き離すことはない。蒼月がリリアのそばにいることもまた、リリアの安全を守るために必要な条件である」
その言葉に、代表者たちはすぐには返答できませんでした。
その沈黙には、蒼月への警戒だけではないものが混じっていました。
リリアを守るためとはいえ、他国の騎士団や星術院の者を、自国の領内へ迎え入れることになるのです。
アレクシス王は、その迷いを見透かすように、ゆっくりと口を開きます。
「自国に他国の武装した者を入れることが容易でないことは承知している。だからこそ、我が国は派遣する者の名、人数、役割、移動経路を事前に明示する。現地での行動も、発見国の責任者と協議のうえで進める。浄化に必要な区域を越え、我が国の騎士団が勝手に動くことはない」
国王の声は穏やかでした。
けれど、その言葉には王としての重みがありました。
「この場において誓おう。我が国は、黒い結晶の浄化を名目として、他国の領土を脅かすことは決してしない」
会議の間に、再び沈黙が落ちます。
アレクシス王は、さらに言葉を続けました。
「この誓いは、口約束では終わらせぬ。各国に対し、我が国の王印を押した正式な誓約書を作成する。先ほど述べた派遣条件と行動範囲を明記し、発見国の同意なく、それを越える行動は行わぬと約する」
代表者たちの間に、小さなどよめきが広がりました。
王印を押した誓約書。
それは、一国の王が各国へ向けて示す明確な約束です。
「また、現地での行動記録は、王国側の記録官だけでなく、発見国の記録官にも残していただく。浄化が終わり次第、我が国の者は速やかにその地を離れる」
国王は言い切りました。
「我が国が求めるのは、領土でも支配でもない。黒い結晶による被害を食い止めるための協力である」
疑念がすべて消えたわけではありません。
それでも、各国代表は示された条件を前に、考え込むように口を閉ざしました。
互いに警戒を抱えたままでも、協議の道を作る必要がある。
それだけは、この場にいる誰もが理解していました。
翌日、各国の代表者たちは、黒い結晶が封印されている塔へ案内されました。
前日の説明だけでは、危険性を十分に伝えることはできません。
実際にその目で確認してもらうためです。
黒い結晶は、星術院の奥にある封印の塔で厳重に管理されていました。
塔の内部には幾重にも結界が張られ、代表者たちが立つ場所にも防護結界が施されています。
そのさらに奥。
重なった結界の向こうに、封印台が置かれていました。
封印台の中央には、拳ほどの大きさの黒い結晶があります。
黒い表面には赤黒い筋が細く走り、内側から脈打つように鈍く明滅していました。
結界に囲まれているにもかかわらず、その周囲には黒い靄のような瘴気が漂っています。
「ご覧の通り、結界で封じていても、瘴気の漏出は完全には抑えきれていません」
アステルが説明しました。
「現在は外部への影響を抑えていますが、この状態を放置すれば、いずれ周囲へ広がります」
代表者たちは、黙って黒い結晶を見つめていました。
やがて、アステルがリリアへ視線を向けます。
「リリア殿。準備を」
「はい」
リリアは短く答え、一歩前へ進みました。
その先には、黒い結晶を囲むように、いくつもの結界が淡く光を重ねています。
リリアは、その光の層と層の間に作られた、浄化用の陣の中へ入りました。
蒼月も当然のように隣へ並びます。
「これより、結晶から漏れ出した瘴気の一部を浄化します。結晶そのものを完全に浄化するものではありません。瘴気に作用する力を確認していただくための実演です」
代表者たちの視線が、リリアへ集まりました。
リリアは小さく息を吸い、白銀の杖を握ります。
――大丈夫。目を逸らさない。
胸の奥でそう呟いてから、リリアは杖の先を黒い結晶へ向けました。
杖の先端に、淡い翡翠色の光が集まっていきます。
その光は細い糸のように伸び、杖の先と黒い結晶の間に、淡く輝く魔方陣を描き出しました。
魔方陣は、光の向きと範囲を整えるように回ります。
やがて翡翠色の光が魔方陣を通り、結界の内側に漂う黒い瘴気へ触れました。
黒い靄が、じゅっと音を立てるように揺らぎます。
まとわりつくように漂っていた瘴気は、少しずつ薄れていきました。
封印台の周囲が澄んでいきます。
「そこまでです、リリア殿」
アステルが片手を上げました。
リリアはすぐに杖を下ろします。
結界の中に漂っていた黒い瘴気は消えていました。
けれど、黒い結晶そのものからは、すでに新たな瘴気がゆっくりと滲み出しています。
リリアは小さく息を吐きました。
蒼月が、リリアの腕に鼻先を寄せます。
その温もりに気付き、リリアはほんの少しだけ表情を緩めました。
代表者たちは、しばらく誰も言葉を発しません。
黒い結晶と瘴気への対策について、話し合うべきことはまだ山ほど残されていました。
発見時の封鎖手順。
王国への報告形式。
黒い結晶対策会議の運用。
リリアが現地へ赴く際の協力体制。
各国の思惑は簡単には揃わず、確認作業は数日続きました。
それでも、話し合いが一区切りを迎える頃には、初動の手順と協議の道筋が定められていました。
各国の代表者たちは本国へ向けて緊迫した書状をしたため、王都の城門からは早馬が次々と走っていく。
翌日、一年の最後の日。
王宮では、各国代表との交流と労いを兼ねた宴が開かれることになりました。
決して華美な祝宴ではありません。
それでも、この数日張り詰め続けていた空気を少しだけ和らげ、互いに言葉を交わすための大切な場でした。
リリアにとっては、公爵として各国の代表者たちと向き合う、初めての社交の場でもあります。
広間には柔らかな灯火がともされ、控えめながらも気品ある花々が飾られていました。
楽師たちの音色は穏やかで、並ぶ料理も例年より抑えられています。
宴が始まると、リリアのもとには各国の代表者たちが次々と挨拶に訪れました。
「リリア公爵。本日はお目にかかれて光栄に存じます」
「こちらこそ、お声をかけていただき感謝いたします」
「我が国でも魔物の被害が深刻化しております。いずれ、そのお力をお借りすることになるやもしれません」
「私にできることがあるならば、全力を尽くします」
リリアの声には、まだ少し硬さが残っています。
けれど、受け答えは落ち着いていました。
少し離れた場所では、母が、ハインリヒが、ルークとエレナが、それぞれの立場でリリアを見守っています。
そして、すぐ隣には蒼月がいました。
銀の毛並みは広間の明かりを受けて淡く輝き、蒼い瞳は近づいてくる人々の動きを見定めています。
ただそこにいるだけで、不用意に距離を詰めてくる者はいませんでした。
やがて、他国の若い代表者の一人が、少し上気した顔でリリアへ歩み寄ってきます。
「リリア公爵。よろしければ、この後、私と一曲お相手願えませんか」
リリアが返答に迷うより先に、蒼月が顔を上げました。
蒼い瞳が、まっすぐに男を見据えます。
若い代表者の背筋が、目に見えて強ばった。
「……い、いえ。不躾なことを申し上げました」
男は慌てたように一礼し、そそくさと離れていった。
「蒼月……」
リリアが困ったように蒼月へ視線を向けると、蒼月は何も悪いことなどしていないと言うように、優雅に一度だけ尾を揺らしました。
少し離れた場所で見ていたルークは口元を押さえて視線をそらし、エレナは無表情のまま、肩を震わせています。
リリアは小さく息をつきながらも、愛おしそうに蒼月の銀の毛並みへ視線を戻しました。
宴は穏やかに夜を深めていきました。
会議の席では硬かった代表者たちも、杯を交わすうちに少しずつ表情を和らげていきます。
国同士の思惑が消えたわけではありません。
それでも、同じ危機に向き合う者同士として、互いを知る時間にはなっていました。
やがて、年が改まる時刻が近づいてきました。
この国には、個人が生まれた日を個別に祝う習慣がありません。
年が改まるその瞬間、国に生きるすべての人々が一斉にひとつ歳を重ねるのです。
午前零時の鐘とともに打ち上げられる花火は、新しい年の訪れと、すべての人の新しい歳を祝う光でした。
侍従たちの先導で、人々は王宮の広い露台へと向かいました。
各国の代表者も、王族も、貴族たちも、今だけは言葉を止め、同じ夜空を見上げています。
冬の夜気は頬に冷たく、眼下に広がる王都の街には、静かな期待を宿した灯りが揺れていました。
リリアもまた、蒼月とともに欄干の前に立ちます。
例年より控えめだと聞いていた街の灯りは、それでも確かに夜の闇を照らしていました。
午前零時を告げる鐘の音が響き渡ります。
その瞬間、冬の夜空に最初の花火が咲きました。
続いて二つ、三つと大輪の光が弾け、王都の上空を鮮やかに染めていきます。
光が広がるたび、リリアの脳裏に、かつてローゼン領で蒼月とともに見た星祭りの花火がよみがえりました。
――あの時は、自分がこんな場所に立つなんて、思いもしなかったな……。
胸に押し寄せるものを感じながら、リリアは蒼月に寄り添い、その首元に顔を埋めました。
遠くの広場から歓声が沸き起こります。
通りや城壁の上にいる人々の笑顔が、一瞬の光の中に浮かび上がっては消えていきました。
この瞬間だけは、誰もが胸の奥にある不安をしまい、夜空に咲く光を見上げていました。
新しい年を祝うために。
新しい歳を迎えた互いを祝うために。
そして、まだ失われていない未来を信じるために。
リリアはゆっくりと顔を上げ、花火に照らされる王都を見つめました。
寄り添う蒼月の毛並みも、夜空の光を受けて淡く輝いています。
胸の奥に残る不安も、消えない痛みも、公爵として生きる決意も、すべて抱えたまま、リリアは空を見上げました。
十九歳だったリリアは、二十歳になりました。




