第二十五話 爵位式
爵位式の朝、離宮の一室には、まだ朝の光がやわらかく差し込んでいました。
白い石造りの窓辺に薄く広がる光は穏やかでしたが、部屋の中にいる者たちの表情は、誰もが真剣そのもの。
リリアは姿見の前に立ち、侍女たちに囲まれながら、最後の支度を整えられていました。
白を基調とした礼装には翡翠色の刺繍が流れるように施され、細い銀糸が光を拾うたびに淡く輝いています。
肩から裾へ重なる薄絹は朝露のように透き通り、胸元にはこれから公爵位を授けられる者としてふさわしい、控えめでありながら気品ある装飾が添えられていました。
けれど、どれほど美しい衣装をまとっても、リリアの胸の奥にある緊張までは隠せませんでした。
「リリア様、肩に力が入りすぎています。息を吐いてください」
エレナの声が、部屋へ響きます。
「は、はい」
リリアは慌てて背筋を伸ばし、それから言われた通りに小さく息を吐きました。
養女縁組の手続きから爵位式まで、礼の角度、歩幅、視線、手の位置、裾のさばき方、国王の前で膝を折る動作、受諾の言葉まで、何度も何度も繰り返してきた。
最初は衣装の重みだけで足元がおぼつかず、礼をすればふらつき、歩けば裾を踏みそうになり、挨拶の言葉も途中で頭から抜けてしまいました。
それでも、エレナは一つずつ厳しく直し、ルークは横で手順を確認し、セシリアは衣装の乱れを整えながら、何度も「大丈夫です」と声をかけてくれる。
できないことばかりの短い間でしたが、その時間は確かに、今日のリリアを支えていました。
蒼月は部屋の少し離れた場所に伏せ、リリアを見つめていました。
美しい銀の毛並みは朝の光を受けて淡く輝き、蒼い瞳はいつもと変わらず澄んでいます。
けれどその眼差しの奥には、まだすべてを受け入れきれていない静かな気配がありました。
それでも蒼月は、リリアの前に立ちふさがることなく、ただその姿を見守っていました。
支度が一区切りついたところで、リリアは姿見から目を離し、蒼月の方へ振り向きました。
「蒼月、変じゃない?」
森で薬草を採っていた頃の、町で蒼月と過ごしていた頃の、少し不安そうで、けれど素直なリリアの声でした。
蒼月はゆっくりと立ち上がり、礼装の裾を踏まないように近づくと、リリアの手の甲へ鼻先を寄せた。
「……ふふ。ありがと」
リリアは小さく笑いました。
「蒼月が反対なのは、分かっているわ」
「ふふ、態度に出すぎよ」
「私も、怖くないわけじゃないの。でも……自分で選んだ道だから、逃げずに進みたい」
昨夜、リリアが蒼月のまっすぐな瞳を見つめて伝えた言葉です。
「蒼月には、止めるんじゃなくて応援してほしいな。家族だと思っているからこそ、分かっていてほしいの」
その言葉を、蒼月は忘れていませんでした。
だから今朝は、リリアの前に立ちふさがるのではなく、その背中を見守ることを選んだのです。
やがて扉が開き、ルークが一礼して入ってきました。
普段の穏やかさは残していましたが、今日のルークは宮廷官としての顔をしており、その姿を見るだけで、いよいよ式が始まるのだと分かりました。
「リリア様、お時間です。大広間までご案内いたします」
「はい」
リリアは短く答えた。
大広間へ向かう廊下は、いつもよりも長く感じられました。
磨き上げられた床に、リリアの礼装の裾が揺れています。
左右に控える衛兵たちは姿勢を正し、通り過ぎるリリアへ深く頭を下げる。
緊張で指先は少し冷たくなっていましたが、後ろからついてくる蒼月の足音が、心を支えてくれました。
大広間の扉が開かれると、そこには普段とはまるで違う王城の姿がありました。
高い天井からは荘厳な灯火が下がり、壁には王国の紋章を織り込んだ旗が掲げられています。
磨かれた床は光を映し、左右には重臣、騎士団長、宮廷に仕える者たち、そして上位貴族たちが整然と並んでいました。
リリアが入った瞬間、無数の視線が一斉に向けられたことだけは、はっきりと分かりました。
「リリア・フォン・ヴァイスベルク、前へ」
玉座の前に立つアレクシス王の声が、大広間に響いた。
その名を呼ばれた瞬間、リリアの胸が小さく跳ねた。
リリアは教えられた通りに歩み出ました。
白と翡翠の礼装の裾が、床の上を音もなく流れていきます。
視線を下げすぎず、けれど国王をまっすぐ見据えすぎず、決められた位置まで進み、足を止めました。
教えられた所作の一つひとつを胸の中で確かめながら、リリアは深く頭を垂れました。
重臣たちの沈黙、王の視線、広間全体の厳粛さ。
そのすべてが、リリアの肩にのしかかってきます。
アレクシス王は、側近から一本の剣を受け取りました。
王家に代々伝わる儀礼剣。
鞘も柄も黄金に輝き、刀身には古い王国の紋章が細やかに刻まれていました。
広間の空気が、さらに深く静まる。
国王は黄金の儀礼剣を抜き、その刀身をゆっくりと掲げました。
灯火を受けた剣は、まるで朝日を閉じ込めたように淡く輝きます。
「王命により、リリア・フォン・ヴァイスベルクに公爵位を授ける」
その声とともに、剣の平がリリアの右肩へ触れました。
薄絹越しに伝わる金属のひんやりとした冷たさと、見た目以上のずっしりとした重みが、リリアの身体を貫きます。
一度。
次に、左肩へ。
もう一度。
重く冷たいその感触が、これから背負うものの大きさを教えてくれていました。
これが、公爵位を授けられるということなのだと、リリアはようやく実感しました。
「謹んで、お受けいたします」
リリアは声が震えないように気をつけながら、そう答えました。
短い言葉でしたが、その一言を最後まで途切れさせずに言えたことに、胸の奥で小さく安堵しました。
国王は儀礼剣を収めると、続いて側近から公爵の証となる徽章を受け取ります。
銀と翡翠をあしらったその徽章は、リリアの礼装の胸元に留められました。
リリアがこれから背負うものを何よりもはっきりと示しているようでした。
「以後、リリア・フォン・ヴァイスベルク公爵として、王国に名を連ねよ」
「はい」
リリアは深く礼を取った。
そこで、アレクシス王はもう一度、広間を見渡しました。
「また、ここに王命として告げる。リリア・フォン・ヴァイスベルク公爵の身分、自由、名誉、婚姻、後見に不当に干渉する者は、王命に背く者として厳罰に処す。本人のみならず、その母に害をなす者もまた同様である」
大広間の空気が、張りつめた。
リリアは驚いて顔を上げそうになりましたが、どうにか礼の姿勢を保ちました。
――聞いていません……。
胸の中で思わずそう呟きながらも、今この場で顔に出してはいけないことだけは分かっていました。
左右に並ぶ貴族たちの間にも、かすかな動揺が走ります。
玉座のそばに控えていた王妃ヴィクトリアは、目を伏せました。
その口元には、困ったような、それでいてどこか仕方がないと言いたげな微笑みが浮かんでいます。
そして、ローガンは小さく息を吐き、ヴィクトルは眉を上げ、アステルは困ったように目を伏せました。
ハインリヒだけは、目を閉じています。
それは、驚きというよりも、やはりそう来たか、という沈黙でした。
ヴァイスベルク公爵家の養女となったリリアを、今度は王命によって守る。
たとえ自らの養女に迎えることはできなくとも、王として守ることだけは譲らない。
その意地を、長年仕えてきた者たちはすぐに察しました。
アレクシス王は厳粛な表情を崩しませんでした。
けれど、その眼差しの奥には、してやったりという光が宿っていた。
その瞬間、広間のどこかで、手を打つ音がしました。
一度、二度。
それはすぐに隣へ伝わり、やがて大広間全体へと広がっていきました。
拍手は、王命によって新たな公爵が誕生したこと、そして王がその身を守ると宣言したことを認める、確かな響きを持っていました。
グランベルとして生きてきた日々が、消えてしまうわけではありません。
母と暮らした町も、薬草を採りに通った森も、蒼月と出会ったあの日も、すべてリリアの中に残っています。
その上に、今日からもう一つの名が重なりました。
リリア・フォン・ヴァイスベルク。
あまりにも大きなその名を、すぐに誇れるほど強くはありません。
それでも、逃げずに受け止めようと、リリアは息を吸いました。
拍手の中で、リリアはゆっくりと顔を上げました。
大広間に並ぶ人々の視線が、再びリリアへ集まります。
リリアは胸元の徽章に手を添えたまま、もう一度、深く息を吸いました。
「未熟な身ではございますが、いただいた名と立場に恥じぬよう、私にできることを尽くしてまいります」
声は決して大きくはありませんでした。
それでも、その言葉は静まり返った大広間にまっすぐ届いた。
一瞬の静寂のあと、拍手はもう一度、広間に広がりました。
先ほどよりもひときわ大きく、リリアの言葉を受け止めるように響いていきます。
そして蒼月が、かすかに息を吐きました。
それはまるで、よくやった、と言ってくれているようでした。
式が終わり、リリアが大広間を下がる時にも、拍手はしばらく続いていました。
リリアは教えられた通りに歩き、教えられた通りに礼をし、最後まで裾を乱すことなく扉の外へ出ます。
重い扉が閉じられた瞬間、張りつめていたものが胸の奥からふっと抜けていく。
「……終わったぁ」
思わずこぼれた声は、いつものリリアのものでした。
隣にいたルークが一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑みをこぼした。
「はい。大変よくお務めになりました、リリア様」
「途中で転ばなくてよかった……」
「ご心配は、そこだったのですか」
「だって、あの床、すごく滑りそうだったんだもん。あと、剣が肩に触れた時、びっくりして動きそうになった」
「動いていませんでした。見事でした」
そう言ったのはエレナでした。
いつも通り厳しい表情ではありましたが、その目元はほんの少しだけやわらいでいました。
「礼も崩れていません。歩幅も問題ありません。受諾の声も、十分に届いていました」
「本当ですか?」
「本当です。ただし、廊下で気を抜くのは早いです」
「はい……」
リリアは慌てて背筋を伸ばしたが、そのすぐ横で蒼月が低く喉を鳴らした。
笑っているようにも、呆れているようにも聞こえる声でした。
リリアは少しだけ頬をふくらませ、蒼月を見ました。
「今、笑ったでしょ」
蒼月は澄ました顔で前を向く。
「絶対笑った」
ルークが耐えきれないように肩を震わせ、エレナも口元を緩めた。
リリアは今日、公爵になりました。
大広間で黄金の剣を肩に受け、王国に名を連ねる者となった。
けれど蒼月の前で少しむくれるリリアは、町で薬草を抱えて歩いていた頃と同じリリアでもありました。
そのことが、蒼月には何よりも大切でした。
名が変わっても、立場が変わっても、リリアの芯は変わらない。
だから蒼月は、リリアの選んだ道を止めるのではなく、これからもそばで守ろうと決めました。
そのあと、控室の扉の前でルークが足を止めました。
何かを知っているようなその様子に、リリアは不思議に思いながら扉を開けます。
その瞬間、目の前に母の姿がありました。
「……お母さん」
声にした途端、胸の奥に押し込めていたものが一気にあふれ出した。
リリアの目に涙が浮かび、次の瞬間には頬を伝ってこぼれ落ちていました。
ハインリヒの計らいで、母は王都へ招かれ、式の間も目立たぬ場所からリリアの姿を見守ってくれていたのです。
母はリリアを見つめ、ゆっくりと微笑みました。
「リリア、見ていましたよ。立派になって……」
その言葉だけで、リリアはもう何も言えなくなりました。
公爵として立った広間では必死にこらえていた涙が、母の前ではどうしても止まりませんでした。
ハインリヒが自ら一歩前へ進み出ると、リリアの母へ深く頭を下げます。
「リリア殿を、こちらの都合で養女として迎える形になってしまいました。事後のご報告となりましたこと、申し訳ありません」
母は首を横に振りました。
「事情は、旅の間に使者の方から伺いました」
そして、リリアの肩に手を添えます。
「皆様がリリアを守ろうとしてくださっていることに、心より感謝申し上げます」
ハインリヒはその言葉を受け、表情を引き締めました。
「安全のためにも、リリア殿の母上には、我が屋敷で共に暮らしていただけないでしょうか」
戸惑う母へ、ハインリヒは強い説得力を持って続けます。
「単に親子を近くに置くためだけのご提案ではありません。リリア殿が公爵となった今、母上が離れた場所にいれば、リリア殿を利用しようとする者たちに狙われる恐れがあります。母上を守ることは、リリア殿を守ることでもあるのです」
その言葉の重みに、母は少しだけリリアを見つめました。
そして、迷いを飲み込むように小さく息を吐き、頷く。
「わかりました。リリアのためにも、皆様のお申し出に従います」
「お母さん……」
リリアが震える声で呼ぶと、母はもう一度やさしく微笑みました。
次の瞬間、リリアは母の胸に飛び込んだ。
母もまた、何も言わずにリリアを抱きしめました。
久しぶりの母の腕は、王宮のどんな絹よりもあたたかく、どんな言葉よりもリリアを安心させてくれます。
リリアはしばらく母の腕の中で泣きました。
そんな感動的な親子の再会を、部屋にいる誰もが温かい目で見守っていました。
しかし、ただ一人、侍女長のセシリアだけは少しだけ困ったような、声をかけにくそうな表情を浮かべて進み出ます。
「……リリア様、感動の再会に水を差すようで大変申し訳ございません」
セシリアは深く頭を下げ、それからためらいがちに言いました。
「今夜は、このまま公爵位の披露の宴がございます。そんなに泣かれますと、夜にお目元が腫れて響いてしまいますよ」
「……宴……」
「はい。一度、湯あみをし、少し休まれた後、披露の宴用のお召し物への着替えもお願いいたします」
母は困ったように笑い、リリアの涙で濡れた頬をハンカチで優しく拭った。
「ほらほら、リリア。そんなに泣かないで。これからが本番なのでしょう?」
「うんうん。わかってる……」
リリアは鼻をすすりながら、必死に涙を拭いました。
そんなリリアの手を、セシリアが「さあさあ、お時間がございますので」と手際よく引いていきます。
ルークやハインリヒは、足早に連行されていく新米公爵の後ろ姿を、どこか微笑ましく見送っていました。
湯気で白く霞む湯殿の中。
あたたかなお湯に浸かりながら、リリアは「はぁ……」と大きく息を吐き出しました。
「終わったと思ったのに……」
湯殿の隅では、蒼月が伏せていました。
本来であれば獣が湯殿に入ることは許されませんが、蒼月だけは別格です。
蒼月がリリアのそばを離れるはずもなく、侍女たちもすっかり慣れた様子で特等席を用意していました。
リリアはお湯で顔をぱしゃぱしゃと洗い、それから湯船の縁に腕を乗せて、蒼月を見つめました。
「ねえ、蒼月。私、本当に公爵になっちゃったね」
蒼月は耳を動かし、澄んだ蒼い瞳でリリアを見返します。
「なんだか、まだ夢みたい。でもね……」
リリアはふわりと笑いました。
「お母さんも一緒にいられるし、蒼月もそばにいてくれる。だから、怖いけど、頑張れる気がするよ」
蒼月は低く、優しく喉を鳴らす。
それは、「無理はするな」と言っているようでもあり、「自分が守る」という誓いのようでもありました。
リリアは濡れた手で蒼月の鼻先に触れ、もう一度、深く安堵の息をつきました。
夜。
大広間は、朝の厳粛な儀式とは打って変わり、眩いばかりの光と華やかな音楽に包まれていました。
シャンデリアの輝きが広間を照らし、色とりどりのドレスや正装を身にまとった貴族たちが集まっています。
広間の上座に立ち、ハインリヒは盃を掲げました。
「皆様、今宵は新たなる公爵の誕生を祝う場にお集まりいただき、感謝申し上げる」
その声は宰相としての威厳に満ちていましたが、ハインリヒのすぐ横に立つリリアを見る目には、隠しきれない「父」としての誇らしさが滲んでいました。
「我が娘、リリア・フォン・ヴァイスベルク。彼女がもたらす光が、この王国をさらに明るく照らすことを確信している」
ハインリヒの挨拶に続き、リリアも一歩前へ出ます。
朝の儀礼剣を受けた時とは違う、少しだけ柔らかさを含んだ夜会用のドレスが、リリアの動きに合わせて美しく揺れます。
「リリア・フォン・ヴァイスベルクと申します。若輩者ではございますが、王国の皆様とともに歩み、尽力してまいる所存です。本日は、よろしくお願いいたします」
練習の甲斐あって、最後までしっかりと挨拶を終えることができました。
広間には、割れんばかりの拍手が響き渡ります。
その後は、息をつく暇もないほどの歓談の時間が続きました。
次から次へと挨拶に訪れる貴族たち。
リリアはその一人ひとりに微笑み、教わった通りの礼と受け答えを繰り返しました。
ルークがさりげなく隣に立ち、相手の身分や名前を小さな声で耳打ちしてくれたおかげで、リリアはなんとかこの荒波を乗り切ることができました。
やがて、楽団が軽やかなワルツを奏で始めます。
ダンスの時間です。
リリアの前に進み出たのは、王室の証である意匠を身につけたレオン王子でした。
「リリア公爵。一曲、いかがかな」
「……喜んで」
リリアはレオン王子の手を取り、広間の中央へ進み出ました。
周囲の視線が一斉に集まる中、音楽に合わせてステップを踏み出します。
以前のダンスでは、何度もレオン王子の足を踏んでしまい、半泣きになっていたリリアでした。
けれど今は、違います。
――いち、に、さん……いち、に、さん……。
心の中で拍子を取りながら、レオン王子のリードに合わせてしなやかに回ります。
やがて曲が終わり、優雅に礼をすると、周囲から再び大きな拍手が湧き起こりました。
レオン王子がリリアの耳元で囁きます。
「リリア嬢、今回はとてもよくできました」
その言葉に、リリアはようやく安堵の息をつきました。
「……よかった。今度は、一度も足を踏まずにできました」
リリアは小さな声で呟いた。
控えに戻ったリリアを迎えたエレナが、口角を上げました。
「お見事でした、リリア様」
夜も更け、宴の喧騒が少し落ち着いた頃。
リリアはこっそりと広間を抜け出し、風に当たるためにベランダへ出ました。
「はぁー……」
冷たい夜風が、火照った頬を心地よく撫でていきます。
きつく締められていた背筋の緊張を解き、リリアは手すりに寄りかかりました。
音もなく、背後から蒼月が近づいてきました。
リリアの隣に並ぶと、夜空を見上げるようにして座ります。
「蒼月も、お疲れ様。人がいっぱいで疲れちゃったよね?」
リリアがそう言って毛並みを撫でると、蒼月は気にするなと言うように、リリアの腕に鼻先をすり寄せました。
ベランダから見上げる夜空には、美しい月が浮かんでいました。
淡い月の光が、蒼月の銀色の毛並みを神秘的に照らし出しています。
「今日から、本当に新しい生活が始まるんだね……」
リリアは、胸元に手を当てました。
不安がないと言えば嘘になります。
けれど、もう立ち止まるつもりはありませんでした。
リリアは大きく深呼吸をし、月に向かって柔らかく微笑みました。
「明日からも、よろしくね。蒼月」
蒼月は立ち上がり、リリアを守るようにその隣に寄り添うと、同じように美しく輝く月を見上げたのでした。




