第二十四話 公爵位の意味
貴族会議での決定は、すぐにリリアへ伝えられることになりました。
それは、王国にとって必要な決定でした。
けれど、リリアにとっては、突然自分の未来を大きく変えられる話でもありました。
だからこそ、アレクシス王は会議場ではなく、王宮の奥にある小さな応接室を使うことにしました。
高い天井と重々しい柱に囲まれた場所ではありません。
淡い色の壁紙と柔らかな椅子が置かれ、窓辺には季節の花が飾られていました。
王妃ヴィクトリアが、リリアの緊張が少しでも和らぐように選ばせた部屋でした。
リリアが呼ばれたのは、その日の午後でした。
リリアが部屋へ入ると、まず王妃ヴィクトリアが微笑みました。
「いらっしゃい、リリアさん」
リリアは少し緊張した面持ちで礼をしました。
その隣には、蒼月が寄り添っていました。
蒼月は部屋に入るなり、そこにいる者たちを見渡しました。
アレクシス国王。
王妃ヴィクトリア。
宰相ハインリヒ。
星術院長官アステル。
そして、少し離れた位置に控えるローガンとヴィクトル。
いつもの茶の時間とは違う空気を、リリアもすぐに感じ取ったようでした。
「陛下、王妃様、皆様……今日は、何か大切なお話があるのでしょうか」
その声は、落ち着こうとしていました。
けれど、指先は重なり合っていました。
蒼月が、リリアのすぐそばへ一歩寄りました。
王妃ヴィクトリアは、優しく席を示しました。
「まずは座りましょう、リリアさん。怖い話をするために呼んだのではありません。ただ、あなたにきちんと伝えなければならないことがあるのです」
リリアは頷き、勧められた椅子へ腰を下ろしました。
蒼月は、その椅子のすぐ横に伏せました。
けれど、その蒼色の瞳は、部屋にいる大人たちから離れませんでした。
最初に口を開いたのは、アレクシス王でした。
「リリア。これから話すことは、おまえを責めるものではない」
リリアは少し驚いたように顔を上げました。
アレクシス王は、短く続けました。
「おまえを守るための話だ」
それだけ言うと、国王はハインリヒへ視線を向けました。
ハインリヒは頷き、リリアへ向き直りました。
「リリア殿。貴族会議で、あなたの今後について、王国中枢で話し合いを続けてまいりました」
リリアの表情が、少し強張りました。
「私のことで……貴族の皆様が、争われたのですか」
その声は小さく、胸の奥へ沈むようでした。
王妃ヴィクトリアが、首を横へ振りました。
「リリアさん。あなたが誰かを争わせたのではありません。皆が考えていたのは、あなたをどう守るかです」
ハインリヒも、その変化を見逃しませんでした。
「まず申し上げておきます。あなたが何かを望んだから、この話が進んだわけではありません。あなたが高い身分を求めたからでもありません」
「……はい」
「けれど、あなたの力は、すでに王国だけの問題ではなくなりつつあります。黒い結晶のこと、浄化の力のこと、そしてヴェルミナで起きたこと。これらについて、ひと月後、王都へ招いた各国の使者へ説明する場が設けられます」
リリアは、膝の上で手を握りました。
「ひと月後……」
「はい。時間は多くありません」
アステルが、穏やかに言葉を添えました。
「リリア殿に、いきなり大勢の前へ出てもらうためではありません。まずは王国として、何をどこまで伝えるかを整えるための場です」
「けれど……私のことも、話されるのですよね」
リリアの声は小さくなりました。
ハインリヒは、誤魔化さずに頷きました。
「避けては通れません。あなたの力を隠しきることは、もう難しいでしょう。ですが、何も整えないまま名だけが広まれば、あなたを利用しようとする者が必ず現れます」
リリアのまつ毛が、小さく震えました。
蒼月が、低く喉を鳴らしました。
それは威嚇というより、リリアを守るためにそばへ寄る合図のようでした。
リリアは、蒼月の毛並みに手を置きました。
ハインリヒは、その様子を見てから、さらに慎重に言葉を選びました。
「そこで、あなたを法的にも政治的にも守るため、ひとつの案が正式に進むことになりました」
「案、ですか」
「はい。リリア殿を、ヴァイスベルク家の養女として迎える案です」
リリアは、すぐには言葉を返せませんでした。
その目が、ハインリヒをまっすぐ見つめたまま、大きく揺れました。
「私が……ハインリヒ様の、養女に……ですか」
「はい」
「でも、私は……」
言いかけて、リリアは言葉を失いました。
自分が何を言えばよいのか、すぐには分からない様子でした。
王妃ヴィクトリアが、声をかけました。
「驚くのは当然です、リリアさん」
リリアは王妃を見ました。
ヴィクトリアは、優しく、けれど真剣な目でリリアを見つめていました。
「これは、あなたに突然、貴族らしく振る舞いなさいと命じるための話ではありません。あなたの後ろ盾を明確にするための話です」
ハインリヒも頷きました。
「ヴァイスベルク家の名は、軽いものではありません。その名を背に置けば、あなたへ不用意に手を伸ばそうとする者を退けることができます。あなたを王宮の一時的な客人ではなく、王国が正式に守るべき存在として扱うことができます」
リリアは、戸惑ったまま俯きました。
「でも……ハインリヒ様のご家族や、他の貴族の方々は……」
「すでに話は通しております」
ハインリヒは答えました。
「ヴァイスベルク家は、あなたを利用するために迎えるのではありません。あなたを守る責任を負うために迎えます」
その言葉は、淡々としていました。
けれど、リリアの胸には重く届いたようでした。
リリアは、何度か唇を開きかけて、ようやく小さく言いました。
「私は、そんな大きな家に迎えていただけるような者ではありません」
ハインリヒの表情が、ほんの少し和らぎました。
「それを決めるのは、あなたではありません」
リリアが顔を上げました。
ハインリヒは、穏やかな声で続けました。
「あなたがご自分をどう思っているかは、分かります。ですが、あなたはすでに多くの人を救いました。王国は、あなたをただ守られるだけの人として見ているわけではありません」
「私は……ただ、目の前の人を助けたかっただけです」
「だからこそ、守らなければならないのです」
その言葉に、リリアは何も言えなくなりました。
アステルは、リリアの表情を見て、少しだけ身を乗り出しました。
「リリア殿。今日ここで、すべてをすぐに受け止めなければならないわけではありません。分からないことは、分からないと言っていいのです」
「……はい」
リリアは小さく頷きました。
ハインリヒは、そこで一度言葉を切りました。
けれど、話はそれだけではありませんでした。
「あなたをヴァイスベルク家の養女として迎えたのち、王命によって公爵位を授けるというものです」
リリアは、今度こそ息を止めたように固まりました。
「公爵、ですか」
その声は、ほとんど囁きでした。
「私が……公爵に……」
「これは、あなたを褒めるための爵位ではありません」
ハインリヒは、ゆっくりと言いました。
「あなたを守るために、王国が用意できる最も強い立場です」
蒼月がゆっくりと頭を上げました。
その視線は、ハインリヒへ向けられていました。
部屋の空気が、張り詰めました。
ローガンが無意識に姿勢を正しましたが、アレクシス王が片手で制しました。
ハインリヒは、蒼月の視線を受け止めました。
リリアは、膝の上で手を握りしめました。
「養女の件をお受けした場合……公爵位のことは、お断りできないのですね」
その問いに、ハインリヒはすぐには答えませんでした。
誤魔化すことも、慰めることもできない言葉でした。
「はい」
ハインリヒは、答えました。
「あなたがヴァイスベルク家の養女となることを受け入れたなら、その先の爵位授与は王命として進みます」
リリアの指先が、膝の上で小さく強張りました。
「ですが、あなたの意思を無視したいわけではありません。だからこそ、まず養女縁組について、あなたの意思を確認しています」
ハインリヒは、リリアから目を逸らさずに続けました。
「これは、あなたを飾り物にするための爵位ではありません。あなたを王国の都合だけで縛りつけるためのものでもありません。王国があなたを守ると、内にも外にも示すための王命です」
リリアの瞳が揺れました。
怖くないはずがありませんでした。
昨日まで平民の娘だった自分が、公爵家の養女になるだけでも信じられないのに、公爵という名を与えられる。
その重さを、リリアはすぐに飲み込むことができませんでした。
「私は……公爵になりたいと思ったことはありません」
「分かっています」
ハインリヒは、即座に答えました。
「ですから、これは望みを叶えるための話ではありません。あなたに背負わせるものが大きいことも、分かっています。だからこそ、せめてその意味を、あなたにきちんと伝えなければならないのです」
アステルが、言葉を添えました。
「リリア殿。今すぐ、すべてを理解しなくてよいのです。けれど、知らないまま式に立たされることだけは、あってはなりません」
王妃ヴィクトリアも、柔らかく頷きました。
「リリアさん。拒むかどうかを迫るためではなく、あなたが何を背負わされるのかを、きちんと知ってもらうための時間です」
リリアは、ゆっくりと顔を上げました。
「では……私の意思を聞いていただけるのは、養女の件なのですね」
ハインリヒは、深く頷きました。
「はい。ヴァイスベルク家へ迎えることは、私たちだけで決めるべきではありません。あなたが嫌だと言うなら、私は説得します。けれど、無理に署名させるつもりはありません」
その言葉に、リリアは少しだけ息を吐きました。
すべてを選べるわけではありません。
けれど、すべてを奪われるわけでもありませんでした。
リリアは、蒼月の方を見ました。
蒼月はリリアを見上げていました。
その蒼色の瞳に映るものは、人間たちの事情ではありませんでした。
「私は……まだ、全部は分かりません」
誰も口を挟みませんでした。
リリアは、言葉を継ぎました。
「公爵位をいただくことは、本当は、とても怖いです。私には、そんな大きなものを受け取れる自信がありません」
アレクシス王が、そこで初めて口を開きました。
「リリア」
リリアは国王を見ました。
アレクシス王の声は、静かでした。
けれど、そこには王としての重みがありました。
「これは、おまえ一人にすべてを背負わせる命ではない。王国も、ヴァイスベルク家も、ここにいる者たちも、その責を負う」
リリアの瞳が揺れました。
アレクシス王は、短く続けました。
「そのうえで、おまえに公爵位を授ける」
リリアは、深く息を吸いました。
「……分かりました。公爵位のことは、怖いです。でも、陛下がそうお決めになった意味を、きちんと受け止めます」
ハインリヒの目が、細められました。
リリアは、もう一度、膝の上の手を握り直しました。
「養女の件……お受けします」
室内に、静かな安堵が広がりました。
王妃ヴィクトリアは、ほっとしたように微笑みました。
アステルも、少しだけ肩の力を抜きました。
ローガンは小さく頷き、ヴィクトルは何も言わずに口元だけで笑いました。
ハインリヒは、もう一度、リリアへ深く頭を下げました。
「ありがとうございます、リリア殿」
「いえ……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
リリアは慌てて立ち上がり、ぎこちなく礼を返しました。
アレクシス王は、告げました。
「では、養女縁組の署名を行う」
その言葉を合図に、控えていた文官が書類を運び入れました。
厚みのある羊皮紙には、ヴァイスベルク公爵家の紋章と王国の印が並んでいました。
リリアの名。
ハインリヒの名。
証人として、アレクシス王と王妃ヴィクトリアの名。
そのすべてが、まだ空白の署名欄を残して整えられていました。
リリアは、その書類を見つめました。
ただの紙ではありませんでした。
そこには、これから自分が背負うものと、守られる場所が同時に記されていました。
ハインリヒが、隣へ立ちました。
「リリア殿。署名は、こちらへ」
リリアは差し出された羽根ペンを受け取りました。
指先が少し震えていました。
蒼月が、すぐ横で見守っていました。
リリアは一度だけ蒼月を見ました。
それから、羊皮紙へ向き直りました。
ゆっくりと、丁寧に、自分の名を書きました。
リリア・グランベル。
その文字が書き終えられた時、ハインリヒは自分の名を記しました。
ハインリヒ・フォン・ヴァイスベルク。
次に、アレクシス王が署名しました。
王妃ヴィクトリアも、柔らかな手つきで名を記しました。
最後に王国の印とヴァイスベルク公爵家の印が押されると、文官が深く礼をしました。
「これをもって、リリア・グランベル殿は、ヴァイスベルク公爵家の養女として正式に迎えられ、リリア・フォン・ヴァイスベルク様となりました」
その言葉が、部屋へ響きました。
リリアは、自分の胸に手を当てました。
何かが大きく変わったはずなのに、すぐには実感が追いつきませんでした。
ハインリヒが、少しだけ表情を緩めました。
この年になって、もう一度娘を迎えることになるとは思ってもいませんでした。
それも、守るべき存在としてではなく、自らの家に迎えたいと心から思える娘です。
宰相としての計算とは別のところで、胸の奥が満たされていくのを、ハインリヒは確かに感じていました。
「リリア殿」
「はい」
「正式に私の娘となった以上、いつまでもハインリヒ様では少し寂しいですね」
リリアは、一瞬きょとんとしました。
アステルが、嫌な予感でもしたように目を細めました。
ヴィクトルはすでに面白そうな顔をしていました。
ハインリヒは、たいへん穏やかな声で続けました。
「できれば、父と呼んでいただきたい」
リリアの顔が、見る間に赤くなりました。
「ち、父……ですか」
「はい」
「で、でも、その……急には……」
「もちろん、無理にとは申しません」
ハインリヒはそう言いましたが、顔には明らかに期待がありました。
王妃ヴィクトリアは口元に手を添えて微笑み、アステルは小さくため息をつきました。
ローガンは真面目な顔で視線を逸らし、ヴィクトルは隠す気もなく笑いをこらえていました。
リリアは小さく息を吸い、恥ずかしそうにハインリヒを見上げました。
「私は、父を幼い頃に亡くしています。ですから、父の記憶はほとんどありません」
ハインリヒの表情が、改まりました。
リリアは胸の前で手を重ね、ためらいながら続けました。
「なので……父さまと、呼んでもよろしいでしょうか」
「もちろんです、リリア」
「……父さま」
その一言で、ハインリヒの表情が変わりました。
宰相としての冷静さも、公爵としての威厳も、その瞬間だけはどこかへ消えました。
ハインリヒは、胸の奥から込み上げるものを抑えるように、片手を口元へ当てました。
「……もう一度お願いできますか」
「無理です」
リリアは真っ赤な顔で即答しました。
王妃ヴィクトリアがとうとう小さく笑いました。
アステルは額に手を当てました。
ヴィクトルは低く笑い、ローガンでさえ肩を震わせていました。
ハインリヒは、そんな彼らをゆっくり見渡しました。
そして、たいへん誇らしげに微笑みました。
その顔には、言葉にしなくともはっきりと書いてありました。
羨ましいでしょう、と。
アステルが呆れたように言いました。
「宰相閣下。顔に出ています」
ハインリヒは、少しも隠しませんでした。
「出しているのです」
リリアはますます顔を赤くしました。
けれど、その照れた表情の奥には、先ほどまでの強い不安とは違う、少しだけ柔らかな戸惑いがありました。
蒼月は、そんなリリアのそばで尾を揺らしました。
「ここからが本番です」
ハインリヒがそう告げた時、リリアは最初、その言葉の意味をまだよく分かっていませんでした。
養女縁組の署名を終えたばかりで、胸の中には緊張と安堵が入り混じっていました。
公爵家の娘になったという実感も、まだ遠いところにあるようでした。
けれど、その実感が追いつくより先に、現実は容赦なく動き始めました。
ひと月後には、各国の使者を迎える説明会が開かれます。
リリアがその場に公爵として立つためには、その前に王命による爵位授与の儀を終えていなければなりません。
爵位授与の儀は十日後と決まり、リリアに残された準備期間は、わずか九日しかなかったのです。
それは、王宮の儀礼においても異例と言えるほど慌ただしい日程でした。
その間に、リリアは爵位授与の儀に立つための衣装を整え、礼を覚え、国王への返礼を練習し、貴族たちの前で述べる短い挨拶まで身につけなければならなかったのです。
「十日後……ですか」
リリアが小さくつぶやくと、ハインリヒはたいへん穏やかに頷きました。
「はい。十日後です」
その言い方があまりにも落ち着いていたので、リリアは少しだけ安心しかけました。
けれど、次にハインリヒが文官へ視線を向けた瞬間、扉の外から侍女たちと仕立て師、礼法を担当する教育係が次々に入ってきました。
腕には布地の見本。
手には採寸用の紐。
別の者は、儀式の進行を書いた分厚い紙束を抱えていました。
リリアは椅子の背に手を添えました。
「……あの、これは」
王妃ヴィクトリアが、少し申し訳なさそうに微笑みました。
「リリアさん。忙しくなりますよ」
その言葉は優しかったのに、内容はまったく優しくありませんでした。
その頃、慌ただしく動いていたのはリリアの周囲だけではありませんでした。
ルークは、その夜、宰相ハインリヒに呼び出されていました。
リリアが王命によって公爵位を授けられる以上、リリアのそばに立つ者たちの立場も、曖昧なままにはしておけません。
とくに、王都へ来てからリリアの世話役となり、学習や日々の予定を支えてきたルークは、そのままでは公式の場に立つには身分が足りませんでした。
宰相ハインリヒは、貴族会議の裏でローゼン領へ早馬の使者を出していました。
ハインリヒからの正式な打診に対し、アルベルトは承諾しました。
王都へ戻ってきた承諾書には、アルベルトの署名とローゼン家の印が押されていました。
ルークをローゼン家の養子として迎えることを承諾する。
その文面を見た時、ルークは珍しく言葉を失いました。
「私が、アルベルト様の養子に……ですか」
王宮の小さな執務室で、ルークは目の前の書類を見つめていました。
机の上には、ローゼン領から届いた承諾書と、養子縁組に必要な書類が整えられていました。
「そうです」
ハインリヒは頷きました。
「これは私から打診したものです。リリアがヴァイスベルク家の養女となり、公爵位を授けられる以上、そばで支えるあなたの立場も整える必要がある。そう判断しました」
「リリア殿が、養女……? 公爵位、ですか……?」
ルークは、素っ頓狂な声を上げてしまいました。
ハインリヒは、答えました。
「はい。今日の昼のうちに、正式に決まりました」
ルークは、もう一度書類へ視線を落としました。
そこには、アルベルトの名と、ローゼン家の印がありました。
見慣れた名でした。
かつて仕えていた主の名です。
その名が、自分を養子として迎えるための書類に記されている。
それだけで、胸の奥が落ち着かなくなりました。
「アルベルト様は……本当に、承諾されたのですね」
「ええ。正式に承諾されています」
ハインリヒは、机の端に置かれていた封書をルークへ差し出しました。
「そして、こちらはあなた宛ての書状です」
ルークは、慎重にその封書を受け取りました。
封蝋には、ローゼン家の紋が押されていました。
ルークはしばらく、その封を見つめていました。
開けるのが怖いような、早く読みたいような、不思議な気持ちでした。
「今、拝読してもよろしいでしょうか」
「もちろんです。あなた宛てのものです」
ルークは丁寧に封を開けました。
中の文字は、確かにアルベルトのものでした。
長い言葉ではありませんでした。
けれど、そこには、ルークのこれまでの働きを認めていること。
宰相ハインリヒ様からの打診を受け、ローゼン家としてルークを迎えることに異存はないこと。
そして、ローゼン家の名がリリアを支える助けになるなら、ためらわず受け取れということが記されていました。
ルークは、しばらく何も言えませんでした。
「私は、ただ与えられた役目を果たしてきただけです」
ようやく出た声は、いつもより少し硬いものでした。
「リリアど……いえ、リリア様のお役に立てるよう努めてはおります。ですが、貴族家の養子として迎えていただくような者では……」
ハインリヒは、首を横へ振りました。
「それを承諾されたのは、アルベルト殿です。そして、私もその判断を正しいと思っています」
ルークは顔を上げました。
ハインリヒは、机の上の書類へ視線を落としました。
「リリアは、これから否応なく人々の目にさらされることになります。あの子を支える者にも、それにふさわしい立場が必要です」
「私のためではなく、リリア様のため……ということですね」
「はい」
ハインリヒははっきりと答えました。
「ですが、それだけではありません。あなた自身が、これまで積み上げてきた信頼の結果でもあります」
その言葉に、ルークは息を吸いました。
嬉しさよりも先に、重さがありました。
ローゼン家の名を背負う。
それは、ただ立場が与えられるというだけではありません。
リリアのそばに立つ者として、今まで以上に一つひとつの言葉と振る舞いを見られるということでした。
けれど、その重さから目を逸らすことはできませんでした。
「承知いたしました」
ルークは椅子から立ち上がり、深く頭を下げました。
「ローゼン家の名を汚さぬよう、また、リリア様のお力となれるよう努めます」
ハインリヒは頷きました。
「では、署名を」
文官が差し出した羽根ペンを、ルークは受け取りました。
手は震えませんでした。
けれど、胸の奥には、確かに大きな波が立っていました。
ルークは、書類の署名欄へ自分の名を記しました。
ルーク・ハインツ。
その名の横に、ローゼン家の養子としての手続きが整えられていきました。
王国の印が押されると、文官が告げました。
「これをもって、ルーク殿はローゼン家の養子として正式に迎えられました」
その言葉を聞いた瞬間、ルークはようやく実感しました。
自分の立場も、もう以前のままではないのだと。
ハインリヒは、書類を文官へ渡しながら言いました。
「今後も、あなたにはリリアを支えていただきます」
「はい」
「ただし、これまでと同じつもりでは困ります。リリアのそばに立つ以上、あなた自身もまた見られる立場になる」
「心得ております」
ルークはまっすぐに答えました。
「必ず、リリア様のお力になります」
その声に迷いはありませんでした。
その頃、リリアはまだ、自分のためにルークの立場まで整えられていることを知りませんでした。
公爵位を授けられる者として前に立つために、リリア自身が必死に礼を覚えている一方で、リリアを支える者の立場もまた、整えられていったのです。
部屋を出たルークは、廊下の途中で足を止めました。
「ルーク・フォン・ローゼン……か……」
そう口にした瞬間、ルークは両手で頭を抱えました。
「なぜだーーーー……!」
すぐに我に返り、慌てて口を閉じます。
幸い、近くに人影はありませんでした。
ルークは深く息を吸い、乱れかけた表情を無理やり整えました。
「……務めを、果たしましょう」
そう小さく呟くと、まだ慣れない名の重さを抱えたまま、再び歩き出しました。
その頃、リリアの部屋では、蒼月がリリアのそばに伏せていました。
蒼月は、面白くありませんでした。
リリアの意思を聞くと言いながら、周囲はすでに道を固めているように見えました。
ヴァイスベルク家の養女となれば、その先の公爵位は断れない。
つまり、リリアが自分で選ぶように見えて、その実、断りにくい場所へ追い込まれている。
もちろん、彼らがリリアを利用しようとしているわけではないことも、蒼月には分かっていました。
すべては、リリアを守るため。
その理屈も、必要性も、理解はしていました。
それでも、リリアの心が置き去りにされているように見えることが、蒼月にはどうしても面白くなかったのです。
蒼月は、リリアの手元へ鼻先を寄せました。
人の理屈がどれほど正しくとも、リリアの心まで置き去りにしてよい理由にはなりません。
たとえ王国の誰が何を決めようとも、最後にリリアの心を守るのは自分だと、蒼月は決めていたのです。




