第二十三話 貴族会議
リリアが離宮で体を休めていた頃、王宮の奥では、確実に国を揺らす議題が動き始めていた。
交易都市ヴェルミナ周辺の再調査、ローゼン領近辺の確認、過去に魔物の襲撃があった地域への通達。
さらに、各国の代表者を王都へ招くための書状の準備も、同時に進められることになりました。
黒い結晶は、もはや一つの都市、一つの領地だけで扱える問題ではありません。
けれど、各国へ知らせる前に、どうしても整えなければならないことがありました。
宰相であり、ヴァイスベルク公爵でもあるハインリヒは、その準備に忙殺されていました。
国王の命を正式な議案として整え、貴族会議にかけるための手続きを進める。
各国へ使者を送り、代表者を王都へ招く件。
リリアをヴァイスベルク公爵家の養女とする件。
さらに、王命によってリリアに公爵位を与える件。
いずれも、軽々しく扱えるものではありませんでした。
執務机の上には、古い法令集、王命に関する記録、過去の叙爵例、養子縁組に関する貴族家の慣例をまとめた書類が積み上がっていました。
侍従が新たな書類を運び込むたび、机の余白は少しずつ消えていきます。
「……予想はしておりましたが、これほど厄介な議案になるとは」
そして後日。
王宮の大広間に、王国の主要貴族たちが集められました。
正式な貴族会議です。
上座には、アレクシス王が座していました。
その近くには、宰相ハインリヒ、星術院長官アステル、王国騎士団総司令官ローガン、軍務顧問ヴィクトルの姿があります。
第一王子レオンも、少し離れた席で会議の行方を見守っていました。
議題が告げられた瞬間、大広間の空気は明らかに変わりました。
リリアを、ハインリヒ・フォン・ヴァイスベルク公爵の養女とすること。
さらに、王命によって公爵位を与えること。
反対の声が上がることは、誰もが予想していました。
しかし、巻き起こった反対の声は、彼らの予想をはるかに超える熱を帯びていました。
「リリア殿の力を否定するつもりはありません」
最初に立ち上がった貴族は、声を荒らげてはいませんでした。
けれど、その言葉には強い警戒がありました。
「交易都市ヴェルミナで多くの命を救ったことも、黒い結晶に対して特別な力を示したことも、理解しております」
一度認めたうえで、その貴族ははっきりと続けました。
「ですが、それとこれとは別問題です。一介の平民であった娘を、いきなり高位貴族に取り立てる。それも公爵位を与えるなど、あまりにも前例を軽んじております」
別の貴族が、続けて口を開きました。
「爵位を与えること自体は否定しません。ですが、平民出身の娘をいきなり公爵位に……これは前例を大きく逸脱しております。貴族社会の秩序を守るためにも、段階を踏むべきではありませんか」
その言葉に、何人かの貴族が頷きました。
爵位を与えることそのものに反対する者ばかりではありませんでした。
けれど、公爵位となれば話は別です。
それは、王族に連なる者や、王国を支えてきた大貴族に与えられるべき重さを持つ位でした。
ハインリヒは、その反応を受け止めました。
「男爵位や子爵位では、リリア殿を守るには足りません」
広間の空気が、張り詰めました。
「下位の爵位を与えれば、功績を認めた形にはなるでしょう。ですが、それでは他家からの干渉を防ぎきれません。保護、後見、婚姻、養子縁組。名目を整えた接触はいくらでも生まれます」
ハインリヒは、反対派の貴族たちを見渡しました。
「リリア殿を守るには、曖昧な客人の立場では足りません。王国が責任を負う存在であると明確に示す必要があります。そのための公爵位です」
誰も、すぐには反論しませんでした。
「ヴァイスベルク家の養女とするだけならば、我が家がリリア殿を囲い込んだと見られるでしょう。下位の爵位を与えるだけならば、利用価値のある娘に名ばかりの身分を与えたと見られるかもしれません」
ハインリヒの声は、静かでした。
けれど、その言葉には迷いがありませんでした。
「だからこそ、王命による公爵位が必要なのです。ヴァイスベルク家の庇護ではなく、王国そのものの意思として、リリア殿を守る。その形を、国内にも各国にも示さなければなりません」
それでも、別の貴族が口を開きました。
「貴族社会には、長い年月をかけて築かれてきた秩序があります。何代にもわたって王国に仕え、領地を守り、税を納め、兵を出してきた家々があるのです。その積み重ねを越えて、突然、平民出身の者に公爵位を与えるとなれば、既存の家格を軽んじることになりかねません」
広間のあちこちから、賛同の声が漏れました。
「功績があることと、家格を与えることは別でしょう」
「この決定は、貴族社会の秩序そのものに関わります」
「しかも、ヴァイスベルク公爵家の養女とするのでしょう。宰相家に、あまりにも大きな力が集まることになります」
反対する者たちは、ただリリアを侮っているわけではありませんでした。
むしろ、リリアの力を認めているからこそ、その扱いに慎重になっていました。
「外交上の見え方も重要です。王国が浄化の力を囲い込んだと受け取られれば、外交上の火種になります」
年配の貴族が言いました。
その指摘に、会議場の空気はさらに張り詰めました。
前例。
家格。
権力の集中。
外交上の見え方。
反対派の主張には、それぞれ筋がありました。
ハインリヒは、その声をすべて聞いたうえで口を開きました。
「ご懸念は理解しております」
広間が静まりました。
「私の家が力を得るためではありません。ヴァイスベルク家が負うのは、利益ではなく責任です」
ハインリヒの声は落ち着いていました。
「リリア殿を守るには、王国が保護しているという言葉だけでは足りません。彼女はすでに、黒い結晶に対抗し得る存在として、この国の中枢に関わっています。各国へ説明の場を設ける以上、いずれその存在は外にも知られることになるでしょう」
反対派の貴族たちは、なおも厳しい目を向けています。
「だからこそ、貴族社会の中で侮られない立場が必要なのです。曖昧な客人のままでは、守るにも限界があります」
「守ると言うなら、王の客人としての庇護や護衛を増やせばよいのではありませんか」
一人の貴族が言いました。
「必要な時には騎士団を付ける。それでは足りないのですか」
ローガンが答えました。
「足りません」
短い言葉に、広間がざわめきました。
「守る対象の立場が曖昧では、護衛も動きづらい。相手が魔物だけなら、騎士団の剣で対処できます。けれど、今後は人も動くでしょう」
「人が動く、とおっしゃいますが、それは推測ではありませんか」
別の貴族が問い返しました。
ローガンは、アレクシス王へ視線を向けました。
国王は口を挟まず、頷きました。
ローガンは、その許可を受けて続けました。
「すでに、リリア殿は人の悪意にさらされています」
大広間の空気が変わりました。
「ヴァルメリア王国との国境に近い交易都市ヴェルミナへ出向いた際、リリア殿は賊に襲われました。相手は、聖女と呼ばれ始めたリリア殿を、金になる獲物と見ていました」
貴族たちの間に動揺が走りました。
「そのようなことが……」
「ヴェルミナで、ですか」
「では、すでに王都の外で狙われたということではありませんか」
声が重なります。
ハインリヒが口を開きました。
「詳細を広く語るつもりはありませんでした。リリア殿を不必要に傷つける話でもあります。けれど、この議論をする以上、避けては通れません」
「もしこれが貴族家の令嬢であれば、賊の行いはその家への明確な敵対行為として扱われます。家名を傷つけ、家の尊厳を脅かし、王国の秩序に刃を向けたものとして、厳罰に処されるでしょう」
貴族たちは、誰も反論しませんでした。
それは、貴族社会に生きる者ならば当然の理屈でした。
「ですが、リリア殿は今なお、王国が保護している客人です。王の庇護下にあるとはいえ、貴族社会の中で正式な家名と後ろ盾を持つ者ではありません。その立場の弱さは、リリア殿を軽んじる者に隙を与えます」
ハインリヒの声は落ち着いていました。
「賊に襲われた後でさえ、相手が平民の娘であれば軽く見ようとする者が出る。そうした現実がある以上、リリア殿を客人のままにしておくことはできません。そして、問題は蒼月のその後の行いです。あの時、リリア殿の安全は確保され、賊も捕らえられていました」
広間のざわめきが止まりました。
「それでも蒼月は、捕らえられた賊を斃しました」
大広間に、重い沈黙が落ちました。
アステルが言葉を継ぎました。
「蒼月にとって、その賊たちは、ただ捕らえられた者ではなかったのでしょう。リリア殿に危害を加えようとした者。再び危険をもたらす可能性がある者。そう判断したのだと思います」
反対派の貴族の一人が、表情をこわばらせました。
「捕らえた者まで殺したというのですか」
ローガンは、短く答えました。
「事実です」
その一言で、会議場の緊張はさらに増しました。
ヴィクトルが言いました。
「蒼月は王命では動きません。基準はただ『リリア殿の安全』のみです。ゆえに、王国の判断と衝突する可能性がある……それが最大の懸念です」
アステルも続けました。
「蒼月にとって最も重いのは、リリア殿の安全です。捕縛、裁き、交渉、外交上の配慮。そうしたものよりも、リリア殿に危険が及ばないことを優先するのでしょう」
大広間にいる貴族たちは、誰もすぐには言葉を返せませんでした。
蒼月がリリアを守ったことは間違いありません。
けれど、その守り方は、人の社会の秩序とは違っていました。
ローガンが続けました。
「もし今後、リリア殿が再び危険にさらされた時、蒼月が敵とみなす相手は、実際に刃を向けた者だけとは限りません」
「まさか、王国を敵と見るとでも」
反対派の貴族が言いました。
その声には、先ほどまでの強さがありませんでした。
「あり得ます」
ローガンは、はっきりと答えました。
「王国の判断によってリリア殿が危険にさらされた。蒼月がそう考えれば、王国への信頼は失われます」
アステルが言葉を添えました。
「そして、この王国ではリリア殿を守れないと判断すれば、蒼月はリリア殿を連れて去るかもしれません」
その一言は、会議場に重く響きました。
リリアを失う。
それは、浄化の力を失うというだけではありません。
黒い結晶に対抗し得る手段を失い、蒼月という強大な守護者の信頼を失うということでもありました。
ヴィクトルが、淡々と締めました。
「これは感情論ではありません。安全保障上の問題です。リリア殿を守る形を整えないまま、人の欲や悪意の前にさらし続ければ、いずれ蒼月は王国の判断を待たなくなるでしょう」
反対派の貴族たちは、沈黙しました。
公爵位を与えることへの反発。
ヴァイスベルク公爵家への権力集中。
各国から見た時の危うさ。
それらの懸念は、なお消えていません。
けれど、リリアを曖昧な立場に置き続けることにも、同じか、それ以上の危険があるのだと、誰もが理解し始めていました。
ハインリヒは、貴族たちを見渡しました。
「だからこそ、リリア殿を客人のままにはしておけないのです」
その声には、退けない覚悟がありました。
「ヴァイスベルク家の名で守り、王命によって立場を固める。王国が責任を負う相手であると、内外へ明確に示す。そうすることで、保護や婚姻を名目にした安易な取り込みを防ぐだけでなく、蒼月にも示すことができます」
「示す、とは」
「王国はリリア殿を利用するのではなく、守るのだという意思です」
その言葉に、広間は静まり返りました。
アレクシス王は、反対派を制する言葉を胸の内に押しとどめました。
王の一言は、ただの意見ではありません。
時にそれは、議論そのものを終わらせる力を持ちます。
今ここで不満を押さえ込めば、火は見えない場所へ移るだけでした。
この小さな火種が、王国の内でどのように揺れ、どこへ広がろうとしているのか。
それを見極めるように、ただ貴族たちの言葉を聞き、議論の行方を見守っていました。
その後も、議論は数時間にわたって続きました。
反対派の貴族たちは、前例と家格の問題を繰り返し訴えました。
慎重派の貴族たちは、外交上の見え方や、リリア本人の意思確認を求めました。
賛成派の者たちも、リリアを客人のままにしておく危険を挙げ、早急な保護の必要性を主張しました。
どの意見にも、それぞれ理がありました。
やがて、ハインリヒが会議場を見渡しました。
「本日の会議は、ここまでといたします」
その一言に、ざわめいていた大広間が少しずつ静まりました。
「次回までに、各々の意見をまとめておくように。反対意見、条件、懸念事項。いずれも文書として提出してください」
貴族たちは、なお言い足りない様子を見せながらも、それ以上は口を挟みませんでした。
「感情論ではなく、王国の秩序、外交、法的手続き、そしてリリア殿の保護。この四点を踏まえた意見を求めます」
やがて、貴族たちはそれぞれ複雑な表情を浮かべたまま、大広間を退出していきました。
人の波が引いたあと、大広間には国王と重臣たちだけが残りました。
扉が閉じられたのを確認して、ヴィクトルが低くつぶやきました。
「……長期戦になりますな」
ハインリヒは、これから積み上がるであろう反対意見と、整えなければならない法的手続きを思い、深く息を吐きました。
「分かっております」
アステルも、少し疲れたように息をつきました。
「リリア殿に説明する時も、慎重にしなければなりませんね」
ローガンは短く頷きました。
「護衛体制も、見直します」
やがて国王は、重臣たちを一人ずつ見て、頷きました。
その小さな合図を受け、重臣たちは頭を下げました。
誰も、すぐには動きませんでした。
大広間には、退いていった貴族たちの声の名残が、まだ重く沈んでいました。
机の上には、閉じられなかった議案書が残っています。
その紙面には、リリアの名がはっきりと記されていました。
貴族会議は、初めから容易にまとまるものではありませんでした。
貴族たちは日を改めて何度も会議場へ集まりました。
賛成、反対、どちらの意見にも、王国を案じる理屈がありました。
けれど、議論は重ねるほどに同じ場所へ戻っていきました。
時間だけが過ぎていき、各国へ黒い結晶と浄化の力について説明する日も、近づいていました。
そこまでに、リリアをどの立場で紹介するのか。
王宮に保護された平民の娘としてなのか。
それとも、王国が正式に後ろ盾を示した存在としてなのか。
その違いは、あまりにも大きいものでした。
やがて、アレクシス王は議場を見渡しました。
長く続いた議論の末に、会議場には疲労と緊張が重く満ちていました。
「これ以上、言葉を重ねても同じところへ戻るだけであろう」
その声に、ざわめきが少しずつ静まりました。
アレクシス王は、玉座から居並ぶ貴族たちを見つめました。
「ならば、票を取る」
会議場の空気が、はっきりと変わりました。
言葉であれば、まだ引き延ばすことができました。
けれど、票は違います。
賛成か、反対か。
その場にいる者たちの意思が、数字として残るのです。
「投票は三日後とする。各々、よく考えておくように」
その言葉を最後に、その日の貴族会議は閉じられました。
そして三日後、再び開かれた貴族会議で、採決が行われることになりました。
投票は、名を伏せて行われました。
貴族たちは一人ずつ進み出て、賛成か反対かを記した紙を、用意された箱へ入れていきました。
会議場には、紙が落ちるかすかな音だけが続いていました。
すべての票が集められると、文官が箱を開きました。
票は、一枚ずつ読み上げられました。
賛成と反対の票数は、最後までほとんど差が開きませんでした。
そして最後の一票を残した時、数は同じになっていました。
会議場は、息をすることさえためらうほど静まり返っていました。
文官が、最後の紙片を手に取りました。
その一枚が王国の決定を左右することは、誰の目にも明らかでした。
文官は、短く息を整えました。
そして、最後の票を読み上げました。
「賛成」
その瞬間、会議場に押し殺したようなざわめきが広がりました。
賛成派の者たちはようやく息をつき、反対派の貴族たちは険しい顔で沈黙していました。
けれど、勝利を誇る者はいませんでした。
この決定が、誰かを打ち負かすためのものではないことを、そこにいる誰もが理解していたからです。
アレクシス王は、深く頷きました。
「可決とする」
短い言葉でした。
けれど、その一言によって、王国は次の段階へ進むことになりました。
リリア・グランベルをヴァイスベルク公爵家の養女として迎えること。
王命による爵位授与の手続きを進めること。
そして、各国への説明会までに、リリアを正式な立場で紹介できるよう整えること。
そのすべてが、正式に動き出しました。
会議が終わったあと、宰相執務室には、いつにも増して多くの書類が積まれていました。
反対意見の記録。
条件付き賛成の要望書。
養女縁組に関する法的手続き。
爵位授与の儀に必要な文書。
お披露目に関する準備案。
そして、各国への説明会に間に合わせるための調整書類。
それらの山を前にして、宰相ハインリヒは笑っていました。
声を立てるほどではありません。
けれど、明らかに機嫌のよい笑みでした。
アステルは、その顔を見て、少しだけ目を細めました。
「……ずいぶんと楽しそうですね、宰相閣下」
ハインリヒは、書類へ目を落としたまま答えました。
「楽しいに決まっているでしょう。これほど難しい案件が、ようやく動き出したのですから」
執務室の壁際に立っていたヴィクトルが、呆れたように息を吐きました。
「よく言う。最後の一票が賛成に回った時点で、こちらが偶然に勝ったなどとは誰も思っておらんぞ」
ローガンも腕を組み、低い声で続けました。
「半数をわずかに超えるところまで持っていく。その加減まで、計算のうちだったのでしょう。賛成が多すぎれば、反対派は面子を潰されたと受け取ります。あえて僅差に収めた。金も、人脈も、過去の恩も、使えるものはすべて使った顔をしておられますな」
アステルは、さらに穏やかな声で追い打ちをかけました。
「加えて、相手が思い出したくない話を、実に丁寧に思い出させた顔でもあります」
ハインリヒは、そこでようやく顔を上げました。
その表情には、悪びれた色が少しもありませんでした。
「人聞きの悪いことをおっしゃいますね。私は、国法に触れることは何一つしておりません」
ヴィクトルは片眉を上げました。
「国法に触れなければ、あくどくないとは限らん」
「必要なことをしただけです」
ハインリヒは、涼しい顔で言いました。
「彼らにも、王国を案じる理屈はありました。ですから、こちらも王国を守るための理屈を示し、必要な資料を渡し、誤解を解き、過去の恩義を思い出していただき、将来の不利益を慎重に想像していただいた。それだけです」
ローガンは、しばらく黙っていました。
それから、低く笑いました。
「それを世間では、根回しと言います」
「ええ。宰相の仕事です」
ハインリヒは当然のように答えました。
アステルは小さく息をつきましたが、その目にはわずかな安堵もありました。
強引に押し切らず、反対派を潰すこともなく、それでも必要な票をそろえる。
それが、ハインリヒという男が王国の中枢で長く宰相を務めている理由でした。
窓際でそのやり取りを聞いていたアレクシス王が、やがて口を開きました。
「可決した以上、次はリリアへ話す必要がある」
その言葉で、執務室の空気が少し改まりました。
ハインリヒの笑みも、穏やかなものへ変わりました。
「はい。まずは養女縁組の件を、リリア殿にきちんと説明いたします。そのうえで、本人の意思を確認します」
ヴィクトルは、机の上に積まれた書類へ視線を向けました。
「本人が拒めばどうする」
ハインリヒは、すぐには答えませんでした。
ほんのわずかな沈黙のあと、言いました。
「説得します」
「強制ではなく、か」
「当然です」
ハインリヒの声は、柔らかくも揺らぎませんでした。
「リリア殿を守るための話です。縛るための話にしてはならない。けれど、あの方がこの先、ただの善良な娘として生きることは、もう難しい。国内だけではありません。ひと月後の説明会が終われば、彼女の存在はさらに広く知られることになります」
ローガンは険しい顔で頷きました。
「護衛の実務から見ても、身分が定まらないままでは限界があります。王宮の客人として守るにも、命令系統に曖昧さが残る」
アステルは目を伏せました。
「リリア殿は、ヴェルミナの件だけでも相当傷ついています。兵士のことも、まだ完全に整理できたわけではありません。そこへ、自分のために貴族たちが争ったと聞かされれば、また自分を責めるでしょう」
「分かっています」
ハインリヒは、アステルを見ました。
「ですから、説明の場には王妃陛下にも同席していただきたい。リリア殿が少しでも安心できる場にします」
アレクシス王は頷きました。
「会議場には呼ばぬ。私的な応接室を使う」
「はい」
「蒼月も同席させる」
その言葉に、全員が一瞬だけ沈黙しました。
ローガンが、慎重に口を開きました。
「陛下。蒼月を同席させるとなると、場の緊張は増します」
アレクシス王は、淡々と答えました。
「リリアが不安を抱く話をするのだ。蒼月を遠ざければ、それこそ不信を招く」
ヴィクトルは低く笑いました。
「正しい判断だな。あの銀狼は、人間の会議など待たん。リリア殿が傷つけられたと判断すれば、理屈では止まらない」
ハインリヒは苦笑しました。
「ええ。ですから、こちらも誠実に話すしかありません」
アステルは、ゆっくりと頷きました。
「私も同席します。リリア殿が混乱した時、少しは助けになれるでしょう」
「お願いいたします」
ハインリヒはそう言うと、机の上から一枚の書類を取り上げました。
そこには、リリア・グランベルの名と、ヴァイスベルク公爵家の名が並んでいました。
まだ署名のないその紙を、ハインリヒはしばらく見つめていました。
その目には、宰相としての計算だけではない、静かな覚悟がありました。
「では、参りましょう」




